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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

oshoの光明 enlightenment の日

osho 瞑想 意識の成長の旅 サマサティ

oshoの光明 enlightenment の日


(oshoの光明 enlightenmentの日は1953年3月21日でした。

1日間違えてすまないσ(^_^;)…)


 

◯ ◯ ◯

 

 

瞑想 meditation は、
宗教のもっとも純粋な表現だ。


知識はマインド(思考)を通した表現であり、

献身はハートを通した表現だ。


瞑想 meditation は
マインド(思考)のものでも
ハートのものでもない。


知識はマインド(思考)のものであり

愛はハートのものだ

瞑想 meditation は両方を超えている。


瞑想 meditation は超越だ。

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

私を正しく理解するなら、
私は瞑想者だけが
もっとも純粋な真理を述べていると言おう。


献身の人は

同じことを愛という言語で語る。
するとそれは恩寵になる。

 

知識の人が

同じことを霊的修行という言語で語ると

「ふさわしさ」
「価値」
「カルマ」
「善行」
「努力」
という言葉が使われる。


瞑想者は同じことを言っている…
だが
瞑想者の言語が理解できるのは瞑想者だけだ。

 

瞑想者は言う
「神は失われていなかった。
ただ彼のことを『忘れて』いたのだ。
だから『思い出せ』ば充分だ。
瞑想 meditation で充分だ。」

 

だから瞑想者の観点では
神性はふさわしさゆえに体験されるのではない…

 

それは
すでにあなたと共にあるのだから。

 


 

 

瞑想者は言う

「それを成就するという問題ではない。
それはすでにここにある。
私たちのまさに『本質』だ。

 

失うというのは、ただの幻想だ。
失われたというのは、あなたの観念にすぎない」

 

自分が大海の中にいることを、
魚が『忘れて』しまったように。
ちょうどそのようなものだ。

 

彼女が大海なのだ。

 

あなたは神の中で生き、
呼吸をし、
目覚め、
眠り、
座り、
立ち、
生まれ、
そして
死ぬ。

 

たとえ一瞬たりとも、
彼から離れることはできない。

 

なぜなら、
神とは全存在であるからだ。

 

神とはこの広大なエネルギーのこと、

 

この全体性のことだ。

 

 

瞑想者は言う

「私は最初から神を失っていなかった。
だから両方のアプローチ…
努力か恩寵のどちらかによって
彼を見出すというのは間違っている。
彼は決して失われたことがない。」

 

あなたはただ目覚め、
それを見つける。

 

眠っている間、
それは失われているように思えた。

 

だが目覚めると、
決して失われていなかったことが明らかになる。


眠っていたとき、
それは失われたように思えた…

 

だが、
そのときも失われてはいなかった。

 


あなたはただ眠っていただけだ。

 


ちょうど、
ランプが燃えたまま眠っているときのように…

 

ランプは燃え続ける。

 

あなたの眠りがそれを消すことはない。

 

あなたの目には夢が集まっているが、
あなたの夢はランプを消すことなどできない。

 

あなたは道に迷い、
遠くへ行き、
ランプがあることを『忘れて』しまった。

 

それでも目が開くと、
あなたはランプがまだ燃えているのを発見する。

 

あなたはランプを再発見したと言うだろうか?

 

それは決して失われていなかったから、
見つけたと言うのは正しくない。

 

ランプは常にそこにあった。

 

そして常にあるものが神だ。

 


瞑想者は言う

「私はただ寝てしまっただけだ。
決してそれを失ってはいなかった」…

 

なぜなら、

ひとたび本当に失われると、
それを体験するのは不可能であるからだ。

 

失われ得るものは、
あなたに内在する本質ではあり得ない。

 

それは、
手に持っているものを
なくすようなものだ。

 

あなたは
再び見つけるかもしれないが、
また失われることもある。

 

しかし、
あなたの心臓の鼓動が失われるかね?

 

たとえ心臓の鼓動が失われ得るとしても、
あなたの意識に内在する質は失われない。

 

それは決して失われていないということは、
あなたにとって非常に理解しにくいだろう。

 


あなたは自分が存在していることを知らない。

 


しかし
眠りに入っていくときも、
あなたは存在している。

 

目覚めると、
あなたは知る。

 

眠っているときには隠されていたものが、
目覚めると戻ってくる。

 

目覚めの状態では、
眠りの中で『忘れ』られていたものが
『思い出』される。

 


瞑想者は言う
「神は失われていなかった。
ただ彼のことを『忘れて』いたのだ。
だから『思い出せ』ば充分だ。
瞑想 meditation で充分だ。」

 

だから瞑想者の観点では
神性はふさわしさゆえに体験されるのではない…

 

それは
すでにあなたと共にあるのだから。

 

あなたがどれほど値しなかろうと、
それでも
それはあなたの内側でふるえている。


だから、
ふさわしさによって
究極なるものを成就するという問題は
あり得ない。

 


 


人々が私のもとにやって来て言う、

 

「お話によると
それは決して失われなかった
とのことです。

では
なぜそれを探求しなければならないのですか?」

 

私は彼らに尋ねる

 

「なぜそれを探求しなければならないのかと、
どうして質問するのかね?」

 

 

それは決して失われたことがないと
私は言う。

 

それが『あなた自身の体験となるとき』

 

そのとき

 

問題は終わる。

 

事はおしまいだ。

 

そのとき、探求すべきものは何もない。

 

でもあなたは、
まだ何も見つけていないと感じているに違いない。

 

そして、
それでも探求を落としたいと思っている。

 

すると、
それを見つける機会さえも閉ざされてしまう。

 

 

 

瞑想 meditation は、
宗教のもっとも純粋な表現だ。


知識はマインド(思考)を通した表現であり、

献身はハートを通した表現だ。


瞑想 meditation は
マインド(思考)のものでも
ハートのものでもない。


知識はマインド(思考)のものであり

愛はハートのものだ

瞑想 meditation は両方を超えている。


瞑想 meditation は超越だ。

 

 

 

だから、
私がどのように光明 enlightenment を成就したか
と尋ねてはいけない。

 

恩寵によるものでも、
努力によるのでもなく、

 

私は目覚めることによって、

 

それが決して失われていなかったことを知った。

 

 


だから
私にマスター(導師)がいない。

 

なぜなら
マスター(導師)が必要なのは、
自分の探求において
誰かの助けが必要なときだけだからだ。

 

そして、
私はどんな霊的な修行も行わなかった。

 

なぜなら
霊的修行が必要なのは、
見つける努力が必要な場合だけなのだから。

 

私は何の努力もしなかったし、
祈りもしなかった。

 

寺院で礼拝もしなかったし、
天にいる神に手を合わせて祈ることもなかった。

 

私にはマスター(導師)もいなかった。

 

 

 

では、私は何をしたのか?

 

ひとつだけしたことがある…

 

自分自身を『理解』しようとし、
私とは誰かを知ろうとしたのだ。

 

私は自分自身の内側を暗中模索し、
どこに私がいるかを見つけ出そうとした。

 

このように手探りし、
探求しているうちに、
暗闇が薄れてきた。

 

私は自分自身を感じ始め、

 

「私は在る」

 

ということを感じ始めた。

 

この「感覚」は育ち始めた。

 


最初はランプの中のとても小さな炎だったが、
やがて炎は広がり始め、
太陽と同じくらい大きな光となった。

 

 

だが私は、
恩寵や努力によって
それを見つけたのではない。

 

自分自身の内側に入り、
それがすでにそこにあったのを
見つけたのだ。

 

それは決して失われていなかった。

私は
目的地にすわっていて、
ちょっと居眠りしていただった。

 

 

 


あなたのマスター(導師)は
あなたの内側にいる。

 

そして
たとえ誰かをマスター(導師)と認めるとしても

 

あなたをどこか余所へと連れていこうと
言う者ではなく

 

あなたの内側のマスター(導師)を
目覚めさせようとしている者だけを
マスター(導師)と認めなさい。

 

 

 

 

ありのままで
あなたは善であり美だ。

 

まさにこの瞬間、
あなたは自分が行こうと思っていた場所にいる。

 

どこかへ行くという思いが落ち、
この瞬間にくつろげば、
あなたは到着している。


どこかへ行くという思いにしがみついているなら、

あなたは永遠に向かって走り続けるだろう。

 

それがあなたの無限の生という物語であり、
あなたの苦悩だ。

 

走れ!
いつの日か到達するゴールがあるだろう。

 

それに辿り着かない限り
あなたは落ち着かない。


あなたは決して辿り着かない。

 

なぜなら

どこに到着しようと
そこからもっと遠くに
さらなるゴールが現れるからだ。

 

それは地平線のようだ。
それは蜃気楼なのだ。

 

 


私が光明 enlightenment を得たのは
誰かの恩寵によるものでも、
努力によるものでもない。

 

私はただ目覚め、
それを決して失っていなかったことを『理解』した。

 

 


これが私の言う

 

サハジ・ヨーガ
自然の道

 

だ。

 

 


これがサハジョの言う
サハジ・ガティ
気楽に行くことだ。

 

導師チャランダスは
弟子である彼女にサハジョという名を与えた。

 

「サハジョ」とは
素朴で気楽で自然な人
という意味だ。

 

達成するべきものはなく、
探求すべきものはない。

 

だが、
サハジョの言葉は献身の人の言葉だ…
だから彼女は恩寵について語る。

 

マハヴィーラの言葉は知識の人の言葉だ…
だから彼は苦行や霊的修行について語った。

 

 

 

私の言うことを理解したいなら、
私のメッセージのすべては
瞑想 meditation についてだ。

 

そして、

 

瞑想 meditation は
献身と知識の両方を超えている。

 

瞑想 meditation は献身の魂であり、
瞑想 meditation は知識の魂でもある。

 

献身はひとつの身体であり、
知識はまた別の身体だが、

その両方の中にある魂は瞑想 meditation だ。


献身の人は祈りによって瞑想的になる。
知識の人は霊的修行によって瞑想的になる。

 

 


だが、
知り得た人に尋ねるなら
彼らはみな同じことを言う…

 

そして
それは瞑想 meditation だ。

 

表現だけが違う…

 

サハジョは愛の歌を歌い、
マハヴィーラは知識の道を語る。

 

 

 

私はあなたに、
装飾品でなく純金をあげたい。

 

マハヴィーラも黄金を用いたが
知識という装飾品をつくった。

サハジョも黄金を用いたが
愛という、献身という装飾品をつくった。


私はあなたに装飾品をあげようとは思わない。

 

私はあなたに純金をあげたい。

 

この黄金の名は瞑想 meditation だ。

 

 


◯ ◯ ◯

 

 


世の中にはたくさんの「導く人」がいます。

 

どなたをご自身の外側にいる「導く人」として
選択されるのかは
1人1人の選択の自由だと思います。

 

 

でも、もし、
自分の外側のある「導く人」について行き
なんだか
道に迷い苦しんでしまったなら…

 

わたしは導師ではないので「導く人」ではありません。
自分の実体験しか話すことができませんが、

 

自分の内側の中核にある
本来の導師(マスター)を
再び「感覚」で『思い出す』ことで

さまよい続ける苦しみから自分を救い出すことができました。

 

わたしは
瞑想 meditation をとおして
自分の内側にある導師(マスター)を
再び「感覚」で『思い出し』ました。

 

それからは
内側の中核にある導師(マスター)が
わたしを
光明 enlightenment まで導き
苦しみの輪サンサーラから永遠の離脱ができました。


大切なことは
まず
自分の内側にある中核を
再び「感覚」で『思い出す』ことです。


わたしは今月のおひなさまの日に
このoshoのサハジョの詩の講話を知りましたが
oshoもこの講話の中で
わたしの実体験と同じことをお話しされていますから

 

3月21日は
oshoが21歳のときに
光明 enlightenment を得た日ですから

 

光明 enlightenment は夢物語ではなく
特別な人間だけに起こるものではなく
アホな女のわたしにも起こった

人間の内側の中核である『魂(源泉)』を持っている
すべての人間に起こる自然なものであることを
oshoの講話からご紹介しました。



前回でもお話ししましたが

わたしは
苦行も修行も魔術も
なにもしていません。

貧乏だから
お金がまったくかからない
0(ゼロ)円でできる
瞑想 meditation を
大好きだから朝晩毎日しました。

 

聖地に住むわけでもなく
貧乏だからσ(^_^;)
24時間車の往来がすごい
騒音まみれの
人が多くいる東京の中で
自分の内側を『観る(観照)』という
瞑想 meditation と
明け渡し surrender が自然と起こり
光明 enlightenment が突然起こりました。

 

無知で光明 enlightenment という言葉すら知らないまま
それは突然起こりましたが、
起こった瞬間に

 

これはそれだ!

 

と一瞬でわかりました。

内側にある『魂(源泉)』の導師(マスター)の導きは間違いありませんでした。


もちろん外側の導師oshoも
ずーとアホな弟子のわたしを
長い年月見守り続けてくれました。

 

導師oshoの慈悲の愛の見守りは
光明 enlightenment が起こる前では
あまりわかりませんでしたがσ(^_^;)

 

光明 enlightenment が起こった後に
ものすごくわかり…>_<…
感謝しかありません。
ありがとう…


サハジョが言うように
導師ってすごすぎるわσ(^_^;)
うまく語れなくてすまない…>_<…

 

oshoだけでなく

これまで出会った全てのみなさんのおかげで

光明 enlightenment が起こり

苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱ができましたから

このブログで導師 master たちの慈悲の愛のお話しを

ご紹介することは全ての存在への感謝と恩返しです…

ありがとう…

 

『気づき』のきっかけになれれば…と。

 


3月21日は
導師oshoが21歳のときに
光明 enlightenment を得た日です。


その後oshoは1990年に59歳で肉体を去るまで
インド国内だけでなく
世界中で講話を行い続け
その講話録は
導師oshoの弟子(サニヤシン)たちによって650冊以上あり
世界40カ国語以上で翻訳、出版されています。

映像もありDVDやYouTubeでも観ることができます。

 

その講話録の中の1つである
サハジョの講話から
導師oshoの光明 enlightenment のお話しを少しだけですがご紹介しました。

(英訳は1番最後に載せています。)

 

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◯ ◯ ◯

 

 

あなたのマスター(導師)は
あなたの内側にいる。

 

そして
たとえ誰かをマスター(導師)と認めるとしても

 

あなたをどこか余所へと連れていこうと
言う者ではなく

 

あなたの内側のマスター(導師)を
目覚めさせようとしている者だけを
マスター(導師)と認めなさい。

 

 


瞑想者は言う
「神は失われていなかった。
ただ彼のことを『忘れて』いたのだ。
だから『思い出せ』ば充分だ。
瞑想 meditation で充分だ。」

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

『思い出す』

 

 

sammasati サマサティ(right remembrance)
正しく想起する


『The last word is Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha - sammasati.』

 

 

瞑想と愛 meditation & love

 

 

花仙人

 

 

 f:id:hanasennin9:20170320100525j:image

男性性と女性性の統合(超越)

 

 f:id:hanasennin9:20170320100804j:image

内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』

 

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Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

The last morning star
夜明けの星

サハジョとダヤの女性の覚者の詩

 

f:id:hanasennin9:20170320100842j:image 
The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。

 

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f:id:hanasennin9:20170320100934j:image
Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

oshoアクティブ瞑想に関してはこちら、
http://www.osho.com/ja/meditate/active-meditations/why-active-meditations

 

oshoの瞑想音楽はこちら、

 


今日ご紹介した講話の英訳です。


Meditation is the purest expression of religion.

Knowledge is the expression through the mind,
devotion is its expression through the heart,
and meditation is neither of the heart nor of the mind.

Knowledge is of the mind,
love is of the heart -
meditation is beyond both.

Meditation is transcendence.


………


If you understand me rightly, then I am saying that only a meditator can state the purest truth.

A devotee says the same in the language of love: then it becomes grace.

A person of knowledge says the same thing in the language of spiritual discipline: then words like worthiness, deserving, karma, virtue, effort are used.

The meditator is saying the same thing - but only a meditator can understand the language of a meditator.


………


A meditator says,
“God was not lost, I had only forgotten him. And to remember is enough. Meditation is enough.”
So in the view of the meditator, the divine is not experienced because of worthiness - because it is already with you.


………


The meditator says,
“There is no question of attaining it. It is already here. It is our very nature.
The loss is only an illusion. It is only your idea that it is lost”

- just as the fish had forgotten that she was in the ocean, just like that.
She is the ocean.
You live, breathe, wake up, sleep, sit, stand, are born and die in God.
You can never be separate from him even for a single moment, because God means the whole existence.

God means this vast energy, this totality.


The meditator says,
“I have never lost God in the first place so both approaches are wrong: whether to find him by effort or by grace. He has never been lost.”

You simply wake up and find it.
While you were sleeping it seemed to be lost, when you wake up it becomes clear that it was never lost.

When you were asleep it seemed to you that it was lost - but then too it was not lost, you were simply asleep.

Just as when you fall asleep with a lamp still burning - the lamp goes on burning, your sleep does not extinguish it.

Although dreams gather in your eyes, your dreams cannot extinguish the lamp.

You were lost, you went farther away, you forgot that there was a lamp.
Yet when your eyes open you discover that the lamp is still burning.
Would you say that you have found the lamp again?
It was never lost, so to say that you found it is not right.
The lamp was always there.
And that which always is, is God.


A meditator says,
“I only fell asleep, I never lost it” - because once something is really lost, then it is impossible to experience it.

That which can be lost cannot be your intrinsic nature.

Then it would be as if you have something in your hand and you lose it; you may find it again but it can be lost again.
But can your heartbeat be lost?
Even your heartbeat can stop, but the intrinsic quality of your consciousness cannot be lost.

When you go to sleep then too you exist, although you don’t know that you exist.
When you wake up, then you know.
What is hidden when you sleep returns when you awake.
That which is forgotten in sleep is remembered in the waking state.


A meditator says,
“God was not lost, I had only forgotten him. And to remember is enough. Meditation is enough.”

So in the view of the meditator, the divine is not experienced because of worthiness - because it is already with you.

Howsoever unworthy you may be, still it is throbbing within you.

So there can be no question of attaining the ultimate through your worthiness.


………


For you it will be very difficult to understand that it has never been lost.


People come to me and they say,
“You say that it was never lost. Then why should we search for it?”

I ask them,
“Why do you ask this question, why should we search for it?”


I say that it has never been lost.

When it becomes your own experience then the matter is over, it is finished.

Then there is nothing to search for. But you must be feeling that you have not found anything yet, and still you want to drop the search. Then even the chance of finding it will be closed.

 

Meditation is the purest expression of religion.

Knowledge is the expression through the mind,
devotion is its expression through the heart,
and meditation is neither of the heart nor of the mind.

Knowledge is of the mind,
love is of the heart -
meditation is beyond both.

Meditation is transcendence.

 

So don’t ask me how I attained enlightenment.

Not by grace nor by effort, but by waking up I found that it was never lost.
So I have no master, because a master is needed only when you have to take the help of someone in your search.

And I did not do any spiritual practices, because spiritual practices are needed only when you have to make some effort to find it.

Neither did I make any effort nor did I pray. Neither did I worship in any temple, nor did I fold my hands to pray to any God in the sky. Nor did I have any master.


Then what did I do?


I did only one thing - I tried to understand myself, I tried to know who I am.

I tried to grope around within myself to find, where am I?

Groping and searching in this way, the darkness diminished.

I began to feel myself, I began to feel that “I am.”

This feeling started to grow.

At first there was a very small flame in the lamp, then the flame started to spread and it became a light as great as the sun.

But I did not find it through grace or through any efforts.
Going within myself, I found that it was already there.

It was never lost.

I was sitting at the destination and I had just dozed off.


………


I often tell a story:
A drunkard was returning home. He was very drunk. He found his way home automatically. He used to follow the same route every day, there was no need to have any awareness.

You also don’t need any awareness - you go towards your home thinking of a thousand and one things. You turn to the left, you turn to the right, the bicycle automatically turns and you ride into your garage. You don’t need to think about it, it happens automatically.

The man was drunk, and stumbling around he finally arrived home. Standing in front of his house he looked carefully to see whether it was his house or not. In the darkness of the night, with his drunken eyes, everything was unsteady, shaky. He became afraid. He thought, “This house does not seem to be mine. I have never seen it look like this.”

If the eye of the observer is different, then the observed changes. If you are drunk then the perception changes.

So hesitantly, he knocked on the door. His mother opened the door, but he did not even recognize his own mother. How can recognition happen in a drunken state? He touched her feet and said, “Old woman, do me a favor - please take me to my house.”

His mother said, “My son, have you gone totally mad? I have told you a thousand times to stop drinking alcohol. Now this is too much! Can’t you recognize me, your own mother? Can’t you recognize your own house!”

A crowd gathered, the people of the neighborhood came and tried to explain it to him. But is there any way to explain things to a drunkard? If he could understand, he would have. You have to convince him. But you try to explain something and a drunkard will understand something else. You say something and he hears something else, he finds some other meaning.

The drunkard became very afraid and said, “You will all kill me. My mother must be waiting for me at my house. What strange things you are saying. Wouldn’t I recognize my own mother? Don’t I know my own house? However much alcohol I have drunk, I am not that drunk!”

But drunkards all say the same thing. To convince a drunkard that he is drunk is very difficult, he will not agree at all. And when a drunkard accepts that he is drunk, know that he is no longer drunk. Otherwise he could not have accepted that he is drunk. How can someone who is drunk agree while he is still drunk? If a madman accepts that he is mad, know that he is cured. Send him home, there is no need to put him in a madhouse. A real madman can never accept that he is mad. He will say that the whole world is mad, but he cannot accept that he himself is mad.

The drunken man said to everyone, “You all seem to have been drinking. Don’t I know my own house? Take me to my house, brother.” He started crying and beating his chest.

A neighbor who was returning from the pub arrived with his bullock cart. He said, “Sit here. I will take you to your house.”

His mother started shouting, “Don’t sit in his bullock cart! He is also drunk, otherwise how can he offer to take you home? Your home is here.”

But the neighbor’s advice appealed to the drunkard.the man seemed to be a master. This man who would help to take him home.a savior: “All these others are mean people, they will try to fool me.” So he went with the other drunkard in the bullock cart.


This is your state.
You are standing in front of your own house.


What is in front of your eyes is God and you are asking,
“Where should I go? How should I search? What means should I use? To whom should I pray?”
Somebody or other will find you with their bullock cart. He will say,
“Come, sit here, we are going that way. Actually, this is what we do - we can take you, this is our job. We take people who are wandering around to their destinations.”
You will meet some guru or other, there is no doubt about it.


………


Your master is within you.

And even if you accept somebody as a master, then only accept the one who is trying to awaken the master within you, not one who speaks about things that take you somewhere else.


………


It would have been better if the drunkard had accepted what his mother was saying. She was saying: “This is your house and I am your mother.” In the morning when he again became conscious, he would have found that this was the truth. But if someone tells you that you already are where you ought to be, it will not appeal to you. You will say, “I don’t agree. I have to change myself. A revolution, a transformation has to happen. And this man is telling me that I am already there! Let’s go somewhere else and search for some other master.”


………


People come to me, and if I tell them,

“Just accept yourself. As you are, you are the good, you are the beautiful, you are the truth.
As you are you are enough - feel grateful for being as you are.
Nothing has to be done, you just have to accept your being,”

they start looking around and saying,
“You mean there is nothing to be done?”
This doesn’t appeal to them.
They will go to some other master who will tell them to do something - who will tell them to do shirshasana, to stand on their heads.

This will appeal to them. As if there is some connection between standing on one’s head and becoming enlightened.
You look perfectly okay standing on your feet.
Standing on your head will not increase your beauty, you will only look stupid.
If you want to hide your stupidity, you can call it something special - shirshasana.
You will do strange exercises: twist your hands, your feet.
If you want to join a circus then it is alright, but what has it to do with God?


………


As you are, you are the good, the beautiful.

This very moment you are there where you are thinking of going.

If the idea of going somewhere is dropped and you become relaxed in this moment, then you have arrived.

If you hold on to the idea of going somewhere, then you will go on running for eternity.

That is the story of your infinite lives; that is your agony: run, there is some goal to be achieved in the future!
And as long as you do not reach it you are restless.

You will never reach, because wherever you arrive to, from there the future goal will appear even further away.

It is like the horizon.
It is a mirage.


I have not become enlightened by someone’s grace or by effort.
I simply woke up and saw that I had never lost it.

This is what I call sahaj yoga, the natural way.

This is what Sahajo has called sahaj gati, going easy.

Charandas gave her the name Sahajo.

“Sahajo” means one who is simple, easy, natural.

Nothing is to be attained, nothing is to be searched for.

But the language of Sahajo is that of a devotee; that’s why she talks about grace.
Mahavira’s language is of a person of knowledge, so he talked about arduous efforts, spiritual practices.

 

If you want to understand what I say, then my whole message is about meditation.

And meditation is beyond both devotion and knowledge.

Meditation is the soul of devotion, and
meditation is the soul of knowledge too.

Devotion is one body and knowledge is another body,
but the soul in both is meditation.

A devotee becomes meditative through prayer.
A man of knowledge becomes meditative through his spiritual discipline.

 

But if you ask those who have known they all say the same thing - and that thing is meditation.

Only the expressions are different:
Sahajo sings songs of love,
Mahavira speaks of the path of knowledge.

 

I want to give you the pure gold, not the ornaments.

Mahavira has also used gold, but he made the ornaments of knowledge.
Sahajo has also used gold, but has made the ornaments of love, of devotion.

I don’t want to give you ornaments,
I want to give you the pure gold.


The name of this gold is meditation.

 

 

 

from osho talks

 

Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

 

サハジョ女性の覚者の詩

 

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全ての導師 master たちは伝えます。

導師 master を見るのではなく

導師 master の指先を見るのではなく

夜空(自分の内側の暗闇)に浮かぶ満月(魂(源泉))を見なさい…と。

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人間は生まれた後いろいろなことがあって

一時的に本来の自然な状態を『忘れて』しまっています。

だから苦しみます。

 

それを再び「感覚」で『思い出す』ことで

苦しみから自分を救い出すことができます。

 

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花仙人

意識の成長の旅⑨ Rising in Love

osho 瞑想 意識の成長の旅 癒し サマサティ

意識の成長の旅⑨ 愛の中を昇る Rising in Love

 

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

 

『アエス・ダンモ・サナンタノ』
   Aes dhammo sanantano

 

すなわち

 

『これは永遠の法だ…

あなたは自分が与えたものを受け取る』

 


恨みで恨みを除こうとするなら、
取り除くことはできない。

 

愛をもって応えるなら、
それはすでに取り除かれている。


これは永遠の法だ。
これは永遠の宗教だ。
いにしえからの永遠の法だ。

 

何ひとつ、
違う形では起こらない。

 

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

 

(カテゴリにある二元性シリーズと意識の成長の旅シリーズを読まれていることを前提に書いていますので、読まれていない人には意味不明な説明になっていると思います…)

 

最近、

 

(この)ブログを読んで
愛について間違った解釈をしていた自分に『気づき』ました。

 

というお話しがたくさん届くようになりました。


みなさん
愛の梯子の1番低い段の関係性の中で
ぐるぐるしてしまい
傷ついて疲れてしまい
温かい思いやりの関わりがある世界で生きていくことを
諦めてしまい
暗闇の中でポツンとしていたそうですが

 

愛の梯子を昇る

 

というお話しが
暗闇の中の一点の光に見えたそうで

 

低い段でぐるぐるしているから苦しんだ!
高みへ昇ろう!

 

と思えて元気が湧いてきたそうです。

 

 

生まれた後いろいろなことがあり
愛することや人間が恐くなり
心を閉ざしてしまい
もう傷つきたくないから
自他との間に境界線の見えない強固な壁を作り
自分を守ることばかりにエネルギーを消耗し

 

でも、そういう生き方は
1人孤独で寂しくなり…

 

でも、まだ恐いから恋人も友達もなかなか作れず…

 

他者を愛するどころか
自分をも愛する余裕すらない…

 

愛である状態ではないことが苦しい…

このまま一生苦しみながら生きるのだろうか…

 


そんなところに
愛の梯子のお話しを読んで


癒しながら
愛の梯子を一歩一歩昇ることで
本来の自然な愛100%の状態に戻れるんだ!

 

再び
「恐れがない状態である」
「本来の愛である状態」に戻れるんだ!

 

愛せない苦しみから解放されるかもしれない!

 

他者に「私を利用しないで」と変化してもらうことは
難しいのも経験からよくわかったから

 

まず自分を癒しなら梯子を高みへと昇ってみよう!
まず自分を「変容」しよう!


苦しみの中でさまよっている状態から
苦しみから離脱できる出口を見つけたら
まだ完全に離脱できていなくても
今、気持ちが軽くなれました
生きようと思えた…

 


とホッとした表情でお話ししていました。

 

 

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苦しみから自分を解放できる方法は
何千年も前からあるのですが
それが
あまり正しく伝わっていないので
みんな梯子の1番低い段でぐるぐるしてしまい
苦しみ続けてしまっています。


愛はセックスだけの関係でないことは
みんなわかっていますが、
慈悲の愛が漠然としかわからず
お釈迦様や観音様みたいな
特別な人だけもの…というマインド(思考)を持ってしまい
自分自身がそうなることは無理だ…というマインド(思考)もあって
なかなか
1番低い段から抜け出せないままで苦しんでいます。

 

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生まれる前から
人間のお腹のお臍のあたりにある
『魂(源泉)』は愛100%の波動のエネルギーの球体です。

愛の梯子の高みの慈悲の愛の波動のエネルギーの球体です。

人間はみんな生まれる前からずーと慈悲の愛なので

特別な人だけ…というマインド(思考)は『手放し』ちゃっていいのですσ(^_^;)

 


ただ
生まれた後にいろいろなことがあって
人間と関わることが恐くなり
苦しくなり
苦しみにばかり気を取られて
本来の自然な愛100%の状態を
一時的に『忘れて』いるだけです。

 


いろいろなことがあって
持ってしまった
苦しみの原因(種)である
◯ マインド(思考)
◯ エゴ(自我・欲)
をポイっと全て『手放し』てしまえば
恐れは消え去り(癒され)
再び「感覚」で本来の自然な愛100%の状態を『思い出し』ますから
大丈夫ですd(^_^o)

 

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癒しをサポートするツールである
瞑想 meditation
のお話しはいつもしていますから

 

今日はもう少し
愛の梯子のお話しを
oshoの講話からご紹介します。

 


意識の成長の旅は
苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱ができ
光明 enlightenment が起こることがあります。

 

自分の内側にある
『魂(源泉)』=真理(愛)を再び「感覚」で『思い出す』ことは
愛の梯子の高みの段の慈悲の愛へ至る一歩一歩昇る旅です。

 


このお話しは
セックスを無理やりしなさい
ということではなく

 

セックスを悪いものと決めつけて避けたりするマインド(思考)を『手放す』ことで、
性欲に対して不自然な「抑圧」やその真逆の「耽溺」に
「偏る」アンバランスな状態で苦しむことがなくなり、
セックスを自然なものとして受け容れることで
特別扱いするマインド(思考)が消え去り、
また、
セックスにだけに執着して
愛の梯子の1番低い段でぐるぐるする苦しみから
愛の梯子の高みへと昇る苦しみから離脱できる旅もあるよ
という
簡単にいうとそんな感じのお話しで
セックスだけのお話しではありません。


男性も女性も恋愛関係だけでなく
いろいろな人間関係で苦しんでいます。


『アエス・ダンモ・サナンタノ』の法則を正しく知る…


愛の梯子の1番低い段でぐるぐるしていると
苦しみは終わらない…

 

昇るっていう生き方もありますよ…というものです。


では、
導師 master osho の
サハジョの講話からご紹介します。

 

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

 

セックスが中心の関係は梯子を下ること
愛が中心のセックスは梯子を昇ること。

 

梯子は同じだが、上下の方向が違う。

 

ある欲が身を貫き
ある欲を満たしたくて
人を愛するとき
その愛は
ただの口実や欺瞞にすぎない。

 

その愛は本物ではない。

 

あなたの焦点は欲に当たっている。

 

………


セックスに愛が伴うなら
セックスも超意識に至る方便になり得る。

 

愛にセックスが伴うなら
常にあなたを上に連れていく愛も
あなたを下へ連れていく方便になり得る。


生に錬金術と法則を正しく理解することだ。


それは壊れやすい。

 

正しく理解してこそ
それはあなたの生を「変容」することができる。

 

性欲に注目の焦点を当ててはいけない。


その梯子に注意を向けなさい。
まさにその梯子があなたを引き上げてくれる。


無知から叡智へ一歩一歩昇る…
セックスからサマーディへと一歩一歩昇る…

 

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◯ ◯ ◯

 

 

 

質問…

 

愛と慈悲の違いはなんでしょう?

 

 

osho…

 

セックス  sex
愛  love
慈悲  compassion 

 

この3つの言葉を理解しなさい。

 

セックスは愛という梯子のはじまりであり、
梯子の一段目だ。

 

慈悲は愛の最後の一段だ。

 

は梯子全体の呼び名だ。

 

 

セックスは
もっとも地に落ちて、
もっとも低い愛の境地だ。

 

セックスとは、
私は人から何かを得たい、
私は人がいないと不完全だ、
私は人がいないと空っぽだ、
私は人で自分を満たさずにはいられない、
という意味だ。

 

セックスは
搾取だ。

 

セックスとは
私は人を手段として利用したい
ということだ。

 

夫は妻を利用し、
妻は夫を利用している。
彼らはお互いを手段として利用している。

 

だから、
それほどまでの怒りがあるのだ。

 

誰も手段などになりたくないのだから。


1人1人の魂は、それ自体が目的だ。

 


偉大なドイツ人哲学者エマニュエル・カントは、
同じように道徳を定義している。

「手段として人を利用することは、道徳に反する。
目的として人を使うことは、道徳にかなっている。」

 


これは非常に基本的な点だ。
自分のために他人を利用することは欲望だ。


あなたは愛について語るだけだ…

 

あなたは「愛しているよ」というが、
内側では相手も自分のことを愛すべきだと望んでいる。

 

だから人々が私のもとに来ると
何千人もやって来たが、彼らは
「私は、愛しい人から愛を貰えなかったのです」と言う。

 

「私は、愛しい人に心から愛されています」
と言う人には、
1人も出会ったことがない。

 

これは興味深い現象だ。

 

来る人はみな
「私は、愛しい人を心から愛しています」
と言う。
決してそれを疑わない。

 

そして、
「相手から愛を貰っていないのです」
と言う。

 

そして、
他の人が私のもとにやって来ても
同じことを言う。

 

「私の愛しい人…私は愛を捧げましたが、
愛を貰っていません。
私は騙されてきました。
ごまかされ、
裏切られた気がします」。

 

そして、
しばしば両者がやって来る…


夫婦が、
父親と息子が、
友人たちが
やって来る。

 

そして両者とも、

「私は愛してきました」

と同じことを言う。

 

真相は、
彼らの中で
愛したことのある者は1人もいない
ということだ。

 

 


いいかね、


心から愛したら、
必ず
同じものが返ってくる…

 

それは
こだまを返し、戻ってくる。

 

与えたものはすべて、
必ず戻ってくる。

 

 

 

世に古い諺がある

『遅れはあっても不公平はない。』

 

私は、
遅れもないし
不公平もないと言おう。

 

そもそも、なぜ遅れが必要なのか?

 

遅れがあるなら、
それは
不公平にもなるだろう。

 

この遅れは長くもなり得る。

 

もし今日愛して、
その返事を無数の生の後で受け取るとしたら、
それもまた不公平だ。

 

だから私は、
遅れもないし
不公平もないと言う。

 

愛すれば、
あなたは即座に受け取る。

 

あなたは、
愛する行為そのものの中で受け取るだろう。

 

受け取ることは他人に依存しない。

 

それは
あなたの愛のこだまだ。
あなたの愛の共鳴だ。

 

与えたものと同じものが、戻ってくるだろう。


そして人は、
「愛したのに、
これっぽっちも愛を受け取らなかった」
と言う。

 

実のところ、
あなたは愛さなかったのだ。

 

あなたの愛は、
見せかけや
欺瞞にすぎなかった。

 

実のところ、
あなたは愛を期待していた。

 

愛することなく、
ただ愛について語ることで、
あなたは愛を受け取りたいと
望んでいた。

 

あなたは
愛を語り、
見返りとして
相手のハートや、
明け渡しや、
相手の全存在を欲するだけだった。

 

しかし、
それは得られなかった。

 

相手も同じことをしていた。

 

愛は続くと語り、
愛の詩を書き…

 

だが、
何ひとつ分かち合うことなく…

 

相手の存在を所有しようとして。

 

両者とも、
無料でそれを得たかった。

 

両者とも、
与えずして
受け取りたかった。

 


だから衝突する。

 


だから、
恋人と称する人たちは絶えず争う。

 

この衝突の理由は同じだ…
双方ともお互いを手段にしたい。

 


だが、
人の魂は手段ではなく、
それ自体が目的として生まれる。

 


すべての人が、
その人自身の目的だ。

 


だから
誰かに利用され、
まるで梯子の段のように
足をかけられると、
苦しみ、
奴隷にさせられた気分になるのだ。

 


セックスは
愛のもっとも低い形だ…

 

すべてを求めながら、
何も渡さない。

 


慈悲は
愛のもっとも高い形だ…

 

すべてを与えながら、
何も見返りとして求めない。

 

それは愛の究極の高みだ。

そこですべてを捧げ、何も求めない。

 


そのときあなたは
人を目的とし、
自分自身を手段にする。

 


あなたは言う、

 

「明け渡すことができて幸せです。
あなたのために
生きようと
死のうと
私は幸せです。

 

どんな状況でも幸せです。

 

なんの期待もありません。

 

私の明け渡しを
受け入れてくれて感謝します。

 

私は捧げましたが、
あなたは拒絶しませんでした。

 

それだけで充分、感謝します」

 


そして、
これは興味深いことだ…

 

セックスの中では
求めても手に入らず、

 

慈悲の中では
求めなくとも受け取る。


これが
生の神秘だ。

 

これが
生の逆説(パラドックス)だ。

 


期待する者は
満たされないまま死に、

 

慈悲を抱く人は
常に満たされる…
あらゆる瞬間に満たされる。

 


なぜなら、
生はこだまを返すからだ…

 

あなたは、
なんであれ
自分が与えたものを受け取る。

 

この世では、
あなたの受け取るものは
他人に依存しない。

 

あなたは
自分が与えたものだけを受け取る。

 

 

 

 

昨日、私は
ゴータマ・ブッダの言葉を読んでいた。

 

いくつかの言葉ごとに、
彼は頻繁に繰り返す…

 

『アエス・ダンモ・サナンタノ』
   Aes dhammo sanantano

 

すなわち

 

『これは永遠の法だ…

あなたは自分が与えたものを受け取る』

 

恨みで恨みを除こうとするなら、
取り除くことはできない。

 

愛をもって応えるなら、
それはすでに取り除かれている。


これは永遠の法だ。
これは永遠の宗教だ。
いにしえからの永遠の法だ。

 

何ひとつ、
違う形では起こらない。

 

 

 

 

セックスは
愛を期待することであり、

 

慈悲は
愛を与えることだ。

 

愛は狭間にある。
そこでは、
与えることと受け取ることが同等だ。

 

 

 

 

これまで
セックスで満たされた者はいないが、

 

人は常に
慈悲によって満たされる。

 

愛は
セックスと慈悲の狭間、
その中間にぶら下がっている。

 

そこには
いくらかの満足があり、
いくらかの不満も残っている。

 

なぜなら、

半分が慈悲で、
半分が欲望だからだ。

 

愛は半分半分だ…
だから
歓びの瞬間も多く
苦しみの瞬間も多い。

 

 

 


残念なことに、
99%の人は
愛を体験したことがない。

 

慈悲など問題外だ…

 

それは彼方の夢であり、幻影だ。

 

100人のうち99人が
欲望のうちに死ぬ。

 

では、
彼らの幻想とは何だろう?

 

その幻想とは、
自分たちが
愛していた
と思い込むことだ。

 

 

 

 

だから、
もっと考えなさい…

 

あなたが
愛を受け取ったか否かを
問う前に、

 

愛を与えたか否かを
よく見なさい。

 


いいかね、

 

愛を与えたことがあったら、
愛は必ずあなたにやって来るのだから。

 

これは永遠の法だ。

 

受け取ったことがないなら、
あなたには与えられるべきではないのだ。

 

自分自身を見つめてごらん、
ひたすら自分自身を。

 

 

ファリッドは言う、
「ファリッドよ、
そなたが賢明であれば、
おのれのハートのうちを見るがいい」。

 

ファリッドは、
「あなたが賢明であれば、
自分のハートのうちを探すがいい…
そこで、それを見つけるだろう」と言う。

 


あなたは、
何であれ
自分が与えたものを受け取る。

 

与えたことのないものは受け取らない。

 

受け取っていないのなら、
与えたことがなかったのだと
理解しなさい。

 

受け取ったら、
自分は与えたのだと
理解しなさい。

 

 

 

 

セックスは
もっとも低い段だ。

 

ほとんどの人々が、
そこにひっかかったままでいる。

 

だが覚えておきなさい、

 

私は
セックスを
非難してはいない。

 

なぜなら、
それは
愛の梯子にあるからだ。

 

それは一段目かもしれないが、
それでも愛だ。

 

そして
一段目から登らない人が、
どうやって最後に辿り着けるだろう?

 

だから
私は
梯子から降りなさい
とは言っていない、

 

梯子の途中で止まってはいけない
と言っているのだ。

 

進みなさい、

 

まだ段はたくさんある。

 

あなたは
一段目に立ち、
そこに
家と寺院の両方をつくってしまった。

 

 

進みなさい!

 

 

次に二段目が来るのなら、
一段目はいいものだ。

 

次に二段目が来ないとしたら、
それはよくない。

 


だから私は、
セックスを非難することなど
思いもよらない。

 

だから私は、
セックスと超意識は
関連していると
言い続けてきた。

 

セックスは
あなたを超意識へと連れてゆく…

 

だが
セックスにひっかかったままなら、
サマーディや超意識は
決して訪れない。

 

 

 


そして別の側面も覚えておきなさい。

 

というのも、
多くの人がこの間違いを犯してきたからだ。

 

インドでは、この間違いはとても古い。
それはこんな間違いだ。

 

私が
セックスの段で止まってはいけない
と言う場合、
2つの進み方がある…

 

◯ セックスから成長して愛へと向かうか

 

あるいは

 

◯ 梯子を捨ててしまうか。それがいわゆる禁欲だ。

 

私は、それを禁欲とは呼ばない。

 

 

 

 

あなたが禁欲と呼ぶ人たちは、
あなたよりもずっと劣っている。
それは、
彼らが梯子を捨ててしまったからだ。

 

彼らの生には決して慈悲が訪れない。

 

というのも、
セックスなしでどうして慈悲があり得るだろう?
諺にもありように
「竹を壊せば笛はない」。

 

私は、竹の切れ端を手放さないようにと言っているのではない…
それで笛をつくりなさい。
この竹を用いて、笛を作ることができる。

 

慈悲はセックスの開花だ。

 

使いものにならないと思っていた、
まさに何の変哲もない竹…
せいぜい、人の頭をかち割るくらいしかできないような竹は、
笛となって誰かの魂に入っていくことができる。
そこから甘美な調べがうまれる。
この世のものとは思えない、神々しい調べが。
それは別世界の便りを運んでくれる。
この竹の音色を通して、
この地上で別世界の花々が花開き始める。

 

誰がそれを信じるだろう?
もし知りもせず、これまで見たことなかったら、
突然笛を見て、それは竹から作られたと言われても、
信じられないだろう。

 

私が、ゴータマ・ブッダやマハヴィーラの慈悲は
セックスから生まれたと言っても、
あなたは信じないだろう。

 

あなたは竹の切れ端を見たことがあり、
笛を見たことがある。
でも、
その間の過程を何も知らないから戸惑ってしまう。
あなたは、それらを結びつけられない。
あなたは言うだろう、

 

「ゴータマ・ブッダの慈悲と、
ここにいる私たちの欲望と、
どんな比較ができるだろう?
とんでもない!
私たちはここで地獄に住んでいて、
彼らは向こうで天を昇っている。
いや、
繋がりなんてないさ」

 

でも、ちょっと考えてごらん…

 

まったく繋がりがないとしたら、
あなたは決して覚者(ブッダ)になれない。

 

どうして、その旅が可能だろう?
どこから始めるというのかね?

 

あなたとゴータマ・ブッダの間には、
何らかの掛け橋が必要だ。

 

セックスと神性の間には梯子がいる。

 

その梯子とは愛だ。

 

 

 

 

サハジョは、他でもないこの梯子のことを語っている。
あなたのセックス・エネルギーを純化しなさい。

 

カビールは言っている、
「ダイヤモンドは、落ちて泥の中に失われた」。

 

だから、泥から逃げてはいけない。
さもなければ、ダイヤモンドも
その泥の中に置き去りにされるだろう。
泥の中を探しなさい。

 

そこには隠された蓮がある。

 

ダイヤモンドを洗いなさい…
泥が取り除かれたら、それは純粋になるだろう。

 

実のところ、
ダイヤモンドは決して汚れていなかった。

 

泥の中に落ちても、
ダイヤモンドはダイヤモンドのままだ。
決して泥になることはない。

 

そして泥の中に隠れた蓮は、
どんなふうに隠れていようと
(あなたが見たことがなくても)
それでも蓮は蓮であり、
泥ではない。

 

ひとたび成長する機会を得たら、
蓮は花開く。

 

 

 

 

セックスから逃げてはいけない。
さもなければ、
あなたの禁欲はせいぜい性的不能でしかなく、
それ以上のものではないだろう。
もしくは、
抑圧や強制になるだろう。
それでは、あなたの生の花は開花できない。
逆に、
成長しつつある小さな蕾も、
泥の中に戻ってしまうだろう。


私は、あなたがたの僧侶や聖者と称する者たちの中に、
慈悲という蓮の花が開いているのを見たことがない。
それどころか、
この慈悲という蓮が花開く可能性は見られなかった。

 

彼らは梯子から落ち、離れてしまった。

 

あなたにとって、彼らは正しく見える。
なぜなら、
あなたはセックスの段に立っていて、
彼らはセックスの段に立っていないからだ。

 

セックスの段に立っていない人は、
おそらく必然的に慈悲という段に行き着くだろう、
とあなたは考えている。

 

必ずしも、そうとは限らない。

 

落ちることはたやすく、
昇ることは難しい。

 

落ちるのにどんな努力が必要かね?

 

家を捨て、
森へ逃げ、
小さな腰巻を着けただけで立っていると、
人々はあなたを崇める。

 

祝福されしお方、
偉業を遂げたお方と言いながら、
あなたの足許に頭を垂れ始める…

 

でも、あなたの内側は
依然として性欲でいっぱいかもしれない。

 


僧侶たちが私に会いにやって来る…
70歳の年老いた僧侶たちだ。
でも、
彼らのマインド(思考)は性欲でいっぱいだ。

 

彼らはこっそり尋ねる、
「どうしたら性欲を取り除けるでしょうか?
もはや精力は落ち、活力も失われましたが、
私はまだセックスから解放されていないのです。

 

それはいつ落ちるのでしょう?

 

死が近づいており、
私は死のうとしているのに、
性欲はまだついて来るのです」

 

 

たとえ意図せずとも、
梯子を放棄してはいけない。

 

神は逃避する者の味方ではない。

 


昇りなさい。

 


生を「逃避」ではなく、「旅」にしなさい。


一歩一歩、昇りなさい。


「セックス」から「愛」へと移行しなさい。

 


すると、
天国のそよ風が少し吹き始める。
そこには地獄もあるだろう。
だが、
地獄の中に天国の小さな島々が現れ始める。

 

そしてそれらを見ると、
もっと何かが起こり得るという希望を抱くだろう。
今日は小さな島だったものが、
明日には大きな島になるかもしれない。

 

水の上にもう少し顔を出しなさい。
先に進み続けなさい…。

 

求めることから少しずつ手を引き、

 

与えることにもっと注意を払いなさい。

 

分かち合うことだ、
求めてはいけない。

 

乞食ではなく(求め欲しがる者)
皇帝になりなさい(与え分かち合う者)。


セックスは乞食(求め欲しがる者)であり、
慈悲は皇帝(与え分かち合う者)だ。

 


何のためらいもなく与えられるようになった日、
取引きせずに
無条件で与え、
感謝を求めることすらやめた日、
あなたはただ与え、進み続ける…。

 

 

あなたは与え、
しかも感謝する…

 

 

相手が受け取ってくれたことに、
相手が受け容れてくれたことに。

 

それは拒否されることもあり得た。
あなたがそんな境地にいるとき、
その日あなたは慈悲を知るだろう。

 

 

 

 

セックス  sex
愛  love
慈悲  compassion 

 

これらは愛の梯子だ。

 


生にはさまざまなレベルの愛がある。

 


だから私は、
愛は神性よりも偉大だと言う。

 

愛の中で昇っていくと、
神性に行き着くからだ。

 

あなたは与える者として在るのではなく、
ただ与えるになる…

 

あなたの慈悲がそのようなものである日、
与える者が背後に残されていないとき、
行為者であるという意識がないとき、

 

その日、その日はじめて、
あなたは神性となる。

 

あなたのエゴ(自我・欲)が落ちる日、

その日あなたは神性になる。


すると境界は残っていない。
そのときあなたは永遠なるものの中に入り、
永遠なるものがあなたの中にはいる。


だが、
神性について考えすぎることはない。

 

これは生における梯子だ、

 

セックスから愛
愛から慈悲への。

 


慈悲の後は、
自然とジャンプが起こる。

 

その後には、
もう段はないからだ。

 

 

 


覚えておきなさい。

 

梯子は2つの方法で捨てられる…

 

◯ 1段目から降りるか

 

あるいは

 

◯ 最後の1段の先へ飛ぶか。

 


もし

1段目から降りたら、
決して神性には辿り着かないし、俗世を失う。

 

最後の1段の先へ飛んだら、全てを見出す。
あなたは神性に辿り着き、俗世も失わない。

 

なぜなら、
俗世も神性そのものの一部だからだ。

 

全体を見るとき、
あなたは
その中に俗世をも見る。

 

すると、
それはただの俗世ではなく、

 

神性の創造物だ。

 

 

 

from osho talks
osho の講話より

 

Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ


(今日のoshoの講話はヒンディー語を翻訳されたものですが
それを英訳したものは最後に載せています。)

 

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

 

わたしは無知で
光明 enlightenment という言葉すら知りませんでした。

 

ただただ瞑想 meditation を朝晩毎日大好きで続けたら
無理なく自然と癒されたらしく
ある日突然光明 enlightenment が起こり
苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱がありました。

 

苦行とか修行とか特別なんにもしていません。
普通の生活です。
貧乏だからσ(^_^;)
東京の中でも車の往来が24時間多い土地の騒音の中で
まるで聖なる場所ではない環境ですし
お金がかからないから
0(ゼロ)円で自宅でできる瞑想 meditation が唯一の癒しのツールでしたが
瞑想 meditation 中ではなく
明け渡し surrender が自然と起こったら
突然光明 enlightenment が起こりました。

 

 

光明 enlightenment は0円で起こるんだな〜と感動しました(*゚▽゚*)
瞑想 meditation は貧乏の味方(*゚▽゚*)

 

 

光明 enlightenment 後に知ったのですが
わたしは
毎日の自分の暮らしの中の体験や
瞑想 meditation の体験をとおして
いつのまにか
意識の成長の旅(自分の内側の旅)をして
愛の梯子を昇っていたようなのです。

 

oshoがお話しすることや
ゴータマ・ブッダ
多くの導師 master たちがお話し伝えていることが
自分の実体験と同じだったので
このブログでご紹介しようと思いました。

 

光明 enlightenment が起こったのは
これまで出会った全ての人たちを含めた全ての存在のおかげだな〜
とはっきりわかったので
ありがとうの感謝と恩返しのつもりで
導師 master たちの
慈悲の愛からのお話しをご紹介しています。

 

 

全ての光明 enlightenment が起こった導師 master たちは

導師 master を見るのではなく

 

暗闇(自分の内側の暗闇)に浮かぶ満月(魂(源泉))を見なさい

 

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それは

 

唯一苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱
光明 enlightenment が起こることだよ…と。

 

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自分の内側にある『魂(源泉)』の中核を
再び「感覚」で『思い出し』たところから
光明 enlightenment が起こった実体験からも
導師 master たちが伝えることはそうだな…
と思います。

 

 

sammasati サマサティ(right remembrance)
正しく想起する


『The last word is Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha - sammasati.』

 

 

瞑想と愛 meditation & love

 

 

花仙人

 

 

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男性性と女性性の統合(超越)

 

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内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』

 

 

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Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

The last morning star
夜明けの星

サハジョとダヤの女性の覚者の詩

 

 

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The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。

 

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Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

oshoアクティブ瞑想に関してはこちら、
http://www.osho.com/ja/meditate/active-meditations/why-active-meditations

 

oshoの瞑想音楽はこちら、



今日のoshoの講話はヒンディー語ですが
それを英訳したものはこちらです。


question…

 

Osho,
What is the difference between love and compassion?

 


osho…

 

Understand three words: sex, love, compassion. Sex is the beginning of the ladder of love, it is the first rung of the ladder. Compassion is the last rung of the ladder. Love is the name for the whole ladder.

 

Sex is the most fallen state of love, the lowest. The meaning of sex is: I want to get something from the other, I am incomplete without the other, I am empty without the other, I have to fill myself with the other. Sex is exploitation. The meaning of sex is: I want to use the other as a means. The husband is using the wife, the wife is using the husband. They are using each other as a means. This is why there is so much anger, because nobody wants to be a means. Each person’s soul is an end in itself.

 

A great German philosopher, Immanuel Kant, has defined morality in the same way: “Using the other person whereby he becomes a means, is immorality; using the other person whereby he becomes the goal, is morality.”

 

This is a very fundamental point. To make use of another for yourself is lust. You only talk about love; you say “I love you,” but inside you want that the other should love you. So when people come to me - thousands have come - they say, “I did not receive love from the one I loved.” I have not come across a single person who has said, “I have not really loved the one I love.” It is an interesting phenomenon. Whosoever comes says, “I certainly love the one I love”; he never doubts it. And he says, “I don’t get love from the other.” And when the other comes to me, he says the same thing: “The one I love - I have given love but have not received it. I have been deceived. I feel cheated, betrayed.” And often both of them come - the husband and the wife come, the father and son come, the friends come - and both of them say the same thing, “I have loved.” The truth is that none of them have loved, because I say to you that when one really loves then the same response is inevitable - it echoes, it returns. Whatever you give always returns.

 

In this world there is an old saying: There may be delay but there is no injustice. I say to you that neither is there any delay nor is there any injustice. Because why should there be even a delay? If there is a delay then it will also become an injustice. This delay can be long. If you love today and you get the response after millions and millions of lives, then it would also be an injustice.

So I say that neither is there any delay nor is there any injustice. If you love, then you will immediately receive; you receive in the loving itself. Receiving is not dependent on the other, it is the echo of your love. It is the resonance of your love. The same will return to you which you give.

 

So people say, “We loved but we did not receive any love.” The reality is that you have not loved; your love was only a pretension, a deception. The reality was that you were expecting love. Without loving, just by talking about love, you wanted to get love. You had only been talking about love and in return you wanted the other’s heart, the other’s surrender, the other’s whole being and you could not get it. The other was also doing the same thing so that the talking about love should continue, the writing poems of love - but no sharing of any kind - so that there would be possession of the other’s being. Both wanted to get it for free, both wanted to get it without giving, hence the conflict.

 

That’s why so-called lovers continually fight. In this conflict the reason is the same - both want to make each other a means. And one’s soul is born as an end in itself, not as a means. Every person is an end unto himself, so he suffers and feels enslaved if somebody uses him and steps on him as if he were just the rung of a ladder.

 

Sex is the lowest form of love - when you ask for everything and don’t give anything. Compassion is the highest form of love - when you give everything and don’t ask for anything in return. It is the ultimate height of love in which you give everything away and don’t ask for anything. Then you make the other the goal and you yourself become a means. You say, “I am fortunate that I can surrender. Whether I live for you or I die for you, I am fortunate. I will be happy in every situation, there are no expectations. I will be grateful that you have accepted my surrender. I have given and you have not rejected it, that is enough to be grateful for.”

 

And it is an interesting thing: in sex you ask and you don’t receive, in compassion you don’t ask and yet you receive. This is the mystery of life. This is the paradox of life. An expecting person dies unfulfilled and a compassionate person is always contented, in each moment contented. Because life resonates - you get whatever you give. In this world what you receive is not dependent on someone else, you receive only what you give.

 


Yesterday I was reading Buddha’s statements. After several statements he often repeats,

Aes dhammo sanantano,

“This is the eternal law: you receive what you give.”

If you try to eliminate enmity with enmity, it cannot be eliminated.

If you respond with love it is already eliminated.

This is the eternal law,

this is the eternal religion,

this is the ancient, eternal law.

Nothing ever happens in any other way.

 


Sex is the expectation of love, compassion is giving love. Love is in between, where the giving and receiving are equal. Nobody ever feels contented with sex, and with compassion one is always contented. Love is hanging there in between sex and compassion, in the middle. There is a little contentment and a little discontent also lingers, because in love half is compassion and half is desire. Love is fifty-fifty - this is why there are many moments of joy and many moments of suffering.

 

It is unfortunate that ninety-nine percent of people never experience love. Compassion is out of the question - it is a faraway dream, it is a mirage. Ninety-nine out of a hundred die in lust. And what is their illusion? Their illusion is that they assume that they have loved.

 

So give it more thought: before you ask whether you have received love or not, look carefully to see whether you have given it or not. Because I say that if you have given love, then love certainly comes to you. This is the eternal law. If you have not received then you must not have given. Look at yourself, only at yourself. As Farid says, “Look inside your own heart, Farid, if you are wise.” Farid says, “If you are wise, then search inside your own heart - you will find it there.”

 

You will receive whatever you have given, you will not receive what you have not given. If you have not received then know that you have not given; if you have received then know that you have given.

 

Sex is the lowest rung. Most people remain stuck there. But remember, I am not condemning sex, because it is on the ladder of love. It may be the first rung, but it is still love. And one who will not climb onto the first rung, how will he reach to the last? So I am not telling you to get down from the ladder. I am telling you don’t stop on the ladder: move on, there are many more steps. You are standing on the first rung and you have created both your home and temple there. Move on! The first step is good because the second comes through it. It is bad only if the second step does not come through it.

 

So in my mind there is no condemnation of sex. This is why I have continuously said that sex and superconsciousness are related. Sex takes you to superconsciousness - but if you remain stuck in sex, then samadhi, superconsciousness, will never come.

 

And remember the other aspect also, because many people have committed this mistake too. In India this mistake has become very ancient. And the mistake is, when I say don’t stop on the rung of sex, there are two ways to move: either you grow from sex towards love or you leave the ladder - that is what you call celibacy. I don’t call this celibacy.

 

The people you call celibates are worse off than you because they have abandoned the ladder. Compassion can never come into their lives because when there is no sex, how will there be compassion? As the saying goes, “The bamboo destroyed, there is no flute.” I don’t tell you to go on holding on to the piece of bamboo - make a flute out of it, a flute can be created out of this bamboo.

 

Compassion is a flowering of sex. The same ordinary bamboo which you could not think of as being of any use - at the most you could break somebody’s head with it - can become a flute and can enter somebody’s soul. Sweet tunes arise from it - unearthly, celestial; they bring the news of some other world. The flowers of some other world start blossoming on this earth through the sound of this bamboo.

 

Who would believe it? If you had not ever known, if you had not ever seen it before, if you had suddenly seen a flute and someone said to you that it is made out of bamboo you would not have believed it. If I tell you that Buddha’s and Mahavira’s compassion arose out of sex, you will not believe it. You are in difficulty because you have seen a piece of bamboo and you have also seen a flute, but you have no idea of the steps in between. You cannot relate them. You are saying, “What comparison can there be between Buddha’s compassion and us here with our lust? No, no! Here we are living in hell and there they are rising in the sky. No, there is no connection.”

 

But think a little - if there is no connection then you will never be able to become a buddha. How would the journey be possible? From where would you begin? There has to be some bridge between you and Buddha. There must be a ladder between sex and the divine. That ladder is love.

 

Sahajo is talking about this same ladder. Purify your sex energy. Kabir says, “The diamond has fallen and is lost in the mud.” So don’t run away from the mud, otherwise the diamond will also be left there in the mud. Search in the mud, there are lotuses hidden there. Clean the diamond - as the mud is removed it will become pure. In fact, the diamond was never impure. It falls in the mud, but the diamond remains a diamond, it never becomes mud. And the lotuses hidden in the mud, howsoever hidden they may be - you may never see them - but still a lotus is a lotus, it is not mud. Once it gets a chance to grow, then the lotus blossoms.

 

Don’t run away from sex, otherwise your celibacy will be at the most an impotency, not more than that. Or it will be suppression, an enforcement. In that way the flower of your life cannot blossom; on the contrary, the small bud which was growing will also fall back into the mud.

 

I have not seen the lotus of compassion blossoming in your so-called monks and saints. On the contrary, I have seen the impossibility for this lotus of compassion to blossom. They have fallen down, off the ladder. They appear right to you because you are standing on the rung of sex and they are not standing on the rung of sex. You think that perhaps one who is not standing on the rung of sex will inevitably arrive at the rung of compassion. It is not necessarily so. It is easy to fall down, it is difficult to climb up. What effort do you need to fall down? Leave the house, run away into the forest, stand only in your tiny loincloth and people will start praising you. They will start to bow down at your feet saying that you are blessed, that you have attained to greatness - but inside you may still be full of sexual desires.

 

Monks come to meet me - old monks, seventy years old - yet their minds are full of sexual desires. They ask, in private, “How do I get rid of sexual desires? Now my vigor is gone, my life is gone, and still I am not free from sex. When will it drop? Death is coming closer, I am about to die, and still sexual desire is following me.”

 

Never renounce the ladder, even unintentionally. God is not for escapists. Climb - let life be a journey, not an escape. Climb the steps one by one. Move from sex into love and a little breeze of heaven will start blowing. Hell will also be there, but in your hell small islands of heaven will start appearing. And seeing them you will become hopeful that something more can happen. That which is a small island today can become a great island tomorrow. Rise a little more above the waters. Keep moving ahead.. Slowly, slowly withdraw from asking and pay more attention to giving. Share, do not ask. Become an emperor, not a beggar.

 

Sex is a beggar, compassion is an emperor. The day you are able to give without holding anything back, giving unconditionally without making any bargain, even without stopping to ask for thanks - you just give and move on.. You give and are also thankful that the other has received it, that they accepted it. It could have been rejected. When such is your state of being, that day you will have known compassion.

 

These are the stages of love: sex, love, compassion. And they are all the different levels of love in life. Hence I say that love is greater than the divine, because by rising in love you will reach the divine. The day your compassion is such that you are not there as a giver, you are only a giving - when there is nobody left behind who is the giver, when there is no sense of being a doer - on that day, only on that day, you become the divine. The day your ego drops, on that day you become divine. Then there is no boundary left. Then you enter into the infinite, the infinite enters into you.

 

But don’t start thinking too much about the divine. This is the ladder of life: from sex to love, from love to compassion. After compassion the jump happens automatically because after that there is no other step.

 

Remember, the ladder can be abandoned in two ways: either you get down from the first step or you jump beyond the last step. If you get down from the first step, then you will certainly not reach the divine and you also will lose the world. If you jump beyond the last rung you will find all. You will reach the divine and you also will not lose the world because the world is part of the divine itself. When you see the whole you also see the world is also in it. Then it is not just the world, it is the creation of the divine.

 

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from osho talks 

 

 

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花仙人

社会は「見守る(観る)」ことをけっして教えない…

osho 瞑想 意識の成長の旅 サマサティ

社会は「見守る(観る)」ことをけっして教えない…

 

 

(同日14時25分ごろに追記しました…すみません…)

 

 

意識の成長の旅をサポートするツールの1つに
瞑想 meditation があります。

 

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自分の内側を『観る(観照)』

というのが瞑想 meditation です。


それはただじーとおしゃかさまのような蓮華座で坐って
自分の内側を『観る(観照)』だけでなく

 

日常生活の中で

 

なにかのきっかけにより
急に怒りがわいてきたり
急に悲しくなったり
などした時に

 

ただ

 

その自分の内側に生まれた
さまざまな
◯ マインド(思考)
◯ エゴ(欲・自我)
◯ あらゆる感情
を『観る』ことで

 

それらと

 

「同一化」することなく
また「執着」することなく

 

自然と
自分の内側から外側に流し出せたりします。


そんなふうに
なにをしていても
どこにいても
いつであっても
坐っていなくても
立っていても
自分の内側を『観る』という
瞑想 meditation を
普段の日常生活の中でいかせると
苦しみを溜め込まず
ストレスがない状態であることができるようになります。

 

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自分の内側が
二元性の両極(両面)のどちらかの極(面)に
「偏る」アンバランスな状態になることがあったら
すぐにいつでも
「中庸」のバランスの状態に戻すことを
サポートするツールが瞑想 meditation です。

 

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それは
さまざまな感情を「抑圧」し溜め込むのではなく
内側から外側へと流しだし
自分の内側はいつも空っぽの「中庸」の状態を保つということです。


「中庸」の状態は
人間の本来の自然な沈黙の愛100%の状態です。

 

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人間の本来の自然な沈黙の愛100%の状態であることは
人間には誰にでも自然にできるものです。

 

それが生まれる前からの
当たり前の自然な状態だからです。

 

その状態は誰からも教わらずに
不思議とできてしまうものです。


誰も誰かから愛することを習わずできるように

「中庸」の沈黙の愛100%の状態も習わずにできるものです。


それが人間の本来の自然な状態だからです。


緊張している状態から
一呼吸深く大きく息を吐き出して
静かに落ち着いてリラックスする…


それがどういう「感覚」か
これを読んでいてなんとなくわかるはずです。


湖面に波紋や波が全くない静かな沈黙のような状態です。


「中庸」の沈黙の愛は

 

恋愛の高まるハイの愛の「感覚」ではなく
失恋などの低いロウの愛の「感覚」ではなく

 

その真ん中のハイでもロウでもない
静かな沈黙の無音の「感覚」です。

 

まるで熟睡をしているときのような…


人間は毎日熟睡をしていますから
この沈黙の「中庸」の愛の「感覚」を
誰もが体験からわかっています。


「中庸」の状態は
自律神経を正常に保てるので
身体の調子が改善されたり健康を保てたりします。

 

心と肉体が健康である状態は至福ですよね(-_^)


自分の内側を『観る』ことで
さまざまな感情や
ごちゃごちゃしたマインド(思考)を
無理なく自然に
自分の内側から外側に流し出すことができます。

 

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oshoや多くの導師たちは
苦しみを自分で解放するために
瞑想 meditation を伝え続けてきました。


苦しみから愛への「変容」
意識の成長の旅での
学びの1つです。


oshoは
なぜ人々が
苦しみ続けるのか…
をお話ししてくれます。

 

今日はそんなお話しの一つを
少しだけご紹介します。

 

 

* * *

 

 

社会は「見守る(観る)」ことをけっして教えない…

 

 

人はなぜ、
ひどく抑圧して不健康になるのだろう? 


なぜなら、
社会があなたに「変容」することではなく、
「コントロールすることを教えるからだ。


そして、
「変容」の方法はまるで違う。


ひとつには、
それは「コントロールの方法ではまったくない、
まさに正反対だ。

 


まず第一に、
「コントロールすることで、
あなたは「抑圧」する。

 

「変容」では、

あなたは「表現」する。

 


だが、
他の誰かに「表現」する必要はない。

 

なぜなら、
その「他の誰か」はまったく関係ないからだ。

 


今度、怒りを感じたら、
家の周りを7回走り回り、
それから樹の下に坐って、
怒りがどこに行ったのかを「見守って(観る)」ごらん。


あなたはそれを「抑圧」しなかった、
あなたはそれを「コントロールしなかった、
「あなたはそれを他の誰かにぶつけなかった…もしあなたがそれを他の誰かにぶつけたら、
連鎖が生じるからだ、
相手もあなたと同じように愚かで、
あなたと同じように「無意識」だからだ。


もしあなたがそれを別の人にぶつけても、
その相手が光明を得た人であれば、問題ないだろう。
彼は、
あなたがそれを放りだし、
解きはなち、
カタルシス(浄化)を経るのを助けるだろう。


だが、
相手もあなたと同じように無知だ…
もしあなたが彼に怒りをぶつけたら、
彼は反応する。

 

彼はあなたにさらに多くの怒りをぶつけるだろう、
彼もあなたと同じくらい抑圧されているのだ。

 

そこで、連鎖が生じる。

 

あなたは彼にぶつけ、
彼はあなたにぶつけ、
そして、
あなたがたは敵同士になる。


それを誰にもぶつけていけない。


それは、
あなたが吐きたいときと同じだ。

 

あなたは誰かに吐いたりしない。

 

怒りには吐くことが必要だ。

 

あなたは洗面所に行って、吐く! 

 

それで、
からだ全体がきれいになる…
吐くのを我慢したら、危ない。

 

そして、
吐いたら、
すっきりする、
ほっとする、
重荷がなくなり、
気持よく、
健康な感じがする。

 

食べたもののなにかが悪くて、
からだがそれを拒絶したのだ。

 

それを内側に押しこみ続けてはいけない。


怒りはまさに精神的な嘔吐だ。


あなたが取りこんだなにかが悪くて、
あなたのサイキックな存在全体がそれを吐きだしたい。

 

だが、それを誰かに吐きかける必要はない。


人びとがそれを他の人たちに吐きかけないように、
社会は彼らにそれを「コントロールするように教える。


誰にも怒りをぶつける必要はない。

 

あなたは洗面所に行けばいい、


長い散歩に出かければいい…


それは、
なにかが内側にあって、
それが解放されるために、
すばやい行動が必要とされているということだ。

 

ちょっとジョギングするだけで、
あなたはそれが解放されたのを感じる。

 

あるいは、

 

枕を取りあげて、
枕を叩き、
枕と闘い、
枕に噛みつくと、
あなたの手と歯が楽になる。

 

5分以内のカタルシス(浄化)で、
あなたは重荷が下りた感じがするだろう。

 

そして、
一度これを知ったら、
あなたはけっして、
それを誰にもぶつけないだろう。

 

なぜなら、
それはまったくバカげているからだ。


ということだから、
「変容」におけるまず第一のことは、
怒りを「表現」することだ。

 

だが、
誰かに対して、ではない。

 

なぜなら、
もしそれを誰かに向けて表現するとしたら、
あなたはそれを完全には表現しきれないからだ。

 

あなたは殺したいかもしれない、
だが、それはできない。

 

噛みつきたいかもしれないが、
それは不可能だ。

 

だが、それは枕に対してならできる。

 

枕とは、「すでに光明を得ている」という意味だ。
枕は光明を得ている、ブッダ(覚者)だ。
枕は反応しないだろう、
そして枕は裁判に訴えないだろう、
そして枕は、あなたに敵意を抱かないだろう、
そして枕はなにもしないだろう。
枕は喜ぶだろう、
そして、枕はあなたを笑うだろう。

 

 


覚えておく二番目のことは、
覚めていることだ。(be aware)

 

「コントロールするのに、
覚醒は必要ない。

 

あなたはそれを機械的に、ロボットのようにやるだけだ。

 

怒りが来ると、
そこにはメカニズムがある…

 

突然、
あなたの全存在が狭まり、閉じる。

 

もしあなたが「見守って」いれば、
「コントロールはそれほど簡単ではないだろう。

 


社会は「見守る(観る)」ことをけっして教えない。

 


なぜなら、
誰かが「見守って」いるとき、
その人は広く開いているからだ。

 

それは覚醒の一部だ…

 

人は開いている、
もしあなたがなにかを「抑圧」したくて、
しかも開いていたら、
それは矛盾しているから、
それは外に出てくるだろう。

 

社会はあなたに、
自分を閉じこめるやり方、
自分をほら穴に閉じこめるやり方を教える…

 

なにかが出ていくための小さな窓すら許さない。

 

だが、覚えておくがいい。

 

なにも出ていかないときは、
なにかが入ってくることもない。


怒りが出ていけないときは、
あなたは閉じている。

 

あなたが美しい岩に触れても、
なにも入っていかない。

 

あなたが花を見ても、
なにも入っていかない。

 

あなたの目は死んでいて、閉ざされている。

 

あなたはある人にキスをする…
なにも入っていかない。

 

なぜなら、あなたは閉じているからだ。

 

あなたは感受性のない生を生きる。

 


感受性は覚醒とともに育つ。

 


「コントロールを通じてあなたは鈍感になり、死んでしまう…
それは「コントロールのメカニズムの一部だ。

 

もしあなたが鈍感で死んでいたら、
なにもあなたの心に影響を及ぼさない、

 

まるでからだが砦、要塞にでもなったかのように。
なにもあなたの心に影響を及ぼさない、
侮辱も愛もない。


だが、
この「コントロールには
大きな犠牲、
必要のない犠牲が伴う。

 

そうなると、

 

どうやって自分を「コントロールするかが人生の全努力になる…

 

そうして、死んでしまう! 

 

「コントロールの努力全体があなたのすべてのエネルギーを必要とする。

 

そして、あなたはただ死んでしまう。
そして、生は退屈で生気のないものになる。

 

あなたはそれをなんとか維持する。


社会はあなたに、
「コントロール「非難」を教える。

 

なぜなら、
子どもはなにかが「非難」されていると感じるときにのみ、
「コントロールするからだ。


怒りはよくない、
セックスはよくない。


「コントロールされなければならないものはすべて、
子どもには「罪」のように、
「悪」のように思わせなければならない。

 


ムラ・ナスルディンの息子が大きくなってきた。
彼は10歳だったので、ムラは考えた。
今がその時期だ。
もう年頃だし、生命の神秘を明らかにしてあげないといけない。
そこで彼を書斎に呼び、
鳥と蜂がどうやって子孫を増やすのか、
セックスの真相について教えた。
そして最後に、彼にこう言った、
「弟がじゅうぶん大きくなったと思ったら、おまえは彼に同じことをすべて教えなさい」

 

そのわずか数分後、
彼が子ども部屋のそばを通っていると、
上の子が、10歳の子が、
すでに務めを果たしているのが聞こえてきた。
彼は下の子に言っていた、
「あのさ、みんながやるあれのことだけど、
ほら、子どもが欲しいとき、
赤ちゃんが欲しいときにみんながやるあれのことだけど、
わかるだろう? 
なんというか、
お父さんが言うには、
鳥と蜂もあれと同じことをやるんだってさ」

 

活気のあるすべてのものに、
深い非難が入りこむ。

 


そして、セックスはもっとも生き生きとしたものだ…
それもそのはずだ! 

 

それは「源」なのだ。

 

怒りもまた、もっとも生き生きとしたものだ。

なぜなら、
それは防御する力だからだ。


もし子どもがまったく怒ることができなかったら、
彼は生きのびることができないだろう。

 

場合によっては怒らなければならない。

 

子どもは自分自身の存在を示さなければならない、
子どもは、ときには自分自身の立場を主張しなければならない。

 

さもなければ、
彼には気骨というものが育たない。


怒りは美しい、
セックスは美しい。


だが、美しいものは醜くもなり得る。


それはあなた次第だ。

 

もしあなたがそれらを「非難」したら、
それらは「醜く」なる。

 

もしあなたがそれらを「変容」したら、
それらは「神聖」になる。

 

「変容」された「怒り」は、「慈悲」になる…

 

なぜなら、
エネルギーは同じだからだ。
怒り慈悲の愛のエネルギーは同じ質のコインの裏表の二元性の両極(両面))

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ブッダ(覚者)は慈悲に満ちている。
彼の慈悲はどこから来るのだろう? 

 

これは、

 

怒りとして動いていたのと同じエネルギーだ。
もはやそれは怒りとしては動いていない。
同じエネルギーが慈悲へと「変容」されている。

 

はどこから来るのだろう? 

 

ゴータマ・ブッダのような人は愛にあふれている、
イエスのような人は愛そのものだ。

 

セックスへと動く同じエネルギーが、愛になる。

セックスの愛「愛の梯子」の1番下で、

慈悲の愛は同じ「愛の梯子」の1番上、

セックスの愛慈悲の愛は同じ垂直の「愛の梯子」にある)

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だから、覚えておくがいい。


もしあなたが自然な現象を「非難」したら、
それは毒をもつようになる、
それはあなたを壊す、
それは破壊的で自殺的になる。

 

もしあなたがそれを「変容」したら、
それは神聖になる、
それは神の力になる、
それはエリクサ、
魔法の秘薬になる。


それを通じてあなたは永遠性を、
不死の存在を達成する。


だが、「変容」が必要だ。

 

 

SOCIETY NEVER TEACHES YOU TO BE WATCHFUL...

 

Why does man suppress so much and become unhealthy?

 

Because the society teaches you to control, not to transform, and the way of transformation is totally different.


For one thing, it is not the way of control at all, it is just the opposite.

First thing: in controlling you repress, in transformation you express.

But there is no need to express on somebody else because the ‘somebody else’ is just irrelevant.

 

Next time you feel angry go and run around the house seven times, and after it sit under a tree and watch where the anger has gone.

 

You have not repressed it,
you have not controlled it,
you have not thrown it on somebody else –
because if you throw it on somebody else a chain is created,
because the other is as foolish as you,
as unconscious as you.

 

If you throw it on another, and if the other is an enlightened person, there will be no trouble; he will help you to throw and release it and go through a catharsis.

 

But the other is as ignorant as you – if you throw anger on him he will react.
He will throw more anger on you,
he is repressed as much as you are.
Then there comes a chain: you throw on him, he throws on you, and you both become enemies.

 

Don't throw it on anybody.

 

It is the same as when you feel like vomiting: you don’t go and vomit on somebody.
Anger needs a vomit.
You go to the bathroom and vomit!

It cleanses the whole body – if you suppress the vomit it will be dangerous, and when you have vomited you will feel fresh, you will feel unburdened, unloaded, good, healthy.

 

Something was wrong in the food that you took and the body rejects it. Don’t go on forcing it inside.

 

Anger is just a mental vomit.
Something is wrong that you have taken in and your whole psychic being wants to throw it out, but there is no need to throw it out on somebody.

 

Because people throw it on others,
society tells them to control it.

 

There is no need to throw anger on anybody.

 

You can go to your bathroom,
you can go on a long walk – it means that something is inside that needs fast activity so that it is released.

 

Just do a little jogging and you will feel it is released,
or take a pillow and beat the pillow, fight with the pillow, and bite the pillow until your hands and teeth are relaxed.

 

Within a five-minute catharsis you will feel unburdened, and once you know this you will never throw it on anybody, because that is absolutely foolish.

 

The first thing in transformation then is to express anger, but not on anybody, because if you express it on somebody you cannot express it totally.
You may like to kill, but it is not possible;
you may like to bite, but it is not possible.

 

But that can be done to a pillow.
A pillow means ‘already enlightened’; the pillow is enlightened, a buddha.
The pillow will not react, and the pillow will not go to any court, and the pillow will not bring any enmity against you, and the pillow will not do anything. The pillow will be happy, and the pillow will laugh at you.

 

 

The second thing to remember: be aware.

 

In controlling,
no awareness is needed; you simply do it mechanically, like a robot.

 

The anger comes and there is a mechanism – suddenly your whole being becomes narrow and closed.

 

If you are watchful control may not be so easy.

 

Society never teaches you to be watchful,

 

because when somebody is watchful, he is wide open.

 

That is part of awareness – one is open, and if you want to suppress something and you are open, it is contradictory, it may come out.

 

The society teaches you how to close yourself in, how to cave yourself in – don’t allow even a small window for anything to go out.

 

But remember:
when nothing goes out, nothing comes in either.
When the anger cannot go out, you are closed.
If you touch a beautiful rock, nothing goes in; you look at a flower, nothing goes in: your eyes are dead and closed.
You kiss a person – nothing goes in, because you are closed. You live an insensitive life.

 

Sensitivity grows with awareness.

 

Through control you become dull and dead – that is part of the mechanism of control: if you are dull and dead then nothing will affect you, as if the body has become a citadel, a defense. Nothing will affect you, neither insult nor love.

 

But this control is at a very great cost, an unnecessary cost; then it becomes the whole effort in life: how to control yourself – and then die!
The whole effort of control takes all your energy, and then you simply die.
And the life becomes a dull and dead thing; you somehow carry it on.

 

The society teaches you control and condemnation,
because a child will control only when he feels something is condemned.

 

Anger is bad; sex is bad; everything that has to be controlled has to be made to look like a sin to the child, to look like evil.

 


Mulla Nasruddin’s son was growing up. He was ten years of age and so Mulla thought: Now, this is the time. He is old enough and the secrets of life must be revealed to him. So he called him into his study and gave him the lowdown on sex among birds and bees. And then in the end he told him, “When you feel your younger brother is old enough, you tell the whole thing to him also.”

 

Just a few minutes after, when he was passing by the rooms of the kids, he heard the older one, the ten-year-old one, already at work. He was telling the younger: “Look, you know what people do, that stuff people do when they want to get a child, a baby? Well, Dad says birds and bees do the same darn thing.”

 

A deep condemnation enters about all that is alive.

 

And sex is the most alive thing – has to be!
It is the source.

 

Anger is also a most alive thing,
because it is a protective force.

 

If a child cannot be angry at all, he will not be able to survive.
You have to be angry in certain moments.
The child has to show his own being, the child has to stand in certain moments upon his own ground; otherwise he will have no backbone.

 

Anger is beautiful; sex is beautiful.

 

But beautiful things can go ugly.

 

That depends on you.

 

If you condemn them, they become ugly;
if you transform them, they become divine.

 

Anger transformed becomes compassion –

because the energy is the same.

 

A buddha is compassionate: from where does his compassion come?

 

This is the same energy that was moving in anger; now it is not moving in anger, the same energy is transformed into compassion.

 

From where does love come?

 

A Buddha is loving; a Jesus is love.

 

The same energy that moves into sex becomes love.

 

So remember,

 

if you condemn a natural phenomenon it becomes poisonous, it destroys you, it becomes destructive and suicidal.

 

If you transform it, it becomes divine, it becomes a God-force, it becomes an elixir; you attain through it to immortality, to a deathless being.

 


But transformation is needed.

 


from osho talks
oshoの講話より

 

And The Flowers Showered

Talks on Zen

Talks given from 31/10/74 am to 10/11/74 am English Discourse series

11 Chapters

Chapter #3
Chapter title: The temper

2 November 1974 am in Buddha Hall

 


* * *

 


おしゃかさまもoshoも多くの導師たちも
沈黙の大切さを伝え続けています。

 


* * *

 


沈黙を学びなさい。

 

そして少なくとも、
友だちや恋人や家族、
そしてここにいる旅の仲間達とともに、
時には沈黙の内に座りなさい。

 

ゴシップを続けたり、
話し続けるのをやめてごらん。

 

話すことを止める…

 

それは外側のお喋りだけでなく、
内側のお喋りも、だ。

 

 

言葉のとぎれた、その狭間にいなさい。

 

 

ただ坐り、
何もせず、
互いのために
ただそこにいること。

 

そうすればすぐに、
通じあうための新しい方法が見つかるだろう。

 

そして、
それこそが正しい方法だ。

 


Learn silence.

 

And at least with your friends,
with your lovers,
with your family....
And this is your family,
the orange family.

 

Here, sit in silence sometimes.

 

Don’t go on gossiping,
don’t go on talking.

 

Stop talking,
and not only on the outside –
stop the inner talk.

 

Be in an interval.

 

Just sit there,
doing nothing,
just being presences to each other.

 

And soon you will start finding a new way to communicate.

 

And that is the right way.

 

 

from osho talk
oshoの講話より

 

This Very Body the Buddha

Talks on Hakuin’s Song of Meditation

Talks given from 11/12/77 am to 20/12/77 am English Discourse series

CHAPTER 5:The Flight Towards the Sun

15 December 1977 am in Buddha Hall

 


* * *

 


沈黙により
苦しみから自分を救い出す
光明 enlightenment は起こりますが

 

それは

 

内側にある
さまざまな思いや感情を
「抑圧」して
溜め込み続け
苦しみ我慢して生きなさい

 

ということではなく

 

内側から外側に
健康的なやり方で
それらを
流し出しなさい

 

ということです。


その健康的なやり方を伝え続けています。


そのやり方は
「怒り」「慈悲の愛」へと「変容」できるからです。


それは
苦しみからの離脱です。

 

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意識の成長の旅とはそのようなことです。

 

無意識の状態から意識の状態への「変容」

 


そのやり方の1つが
今回ご紹介したようなお話しです。

 

 

他者を「変えよう」とする

支配やコントロールすることは

とは真逆の暴力です。

 

そして

 

他者を「変えよう」として試しても

一度も成功した人はいません。

 

誰1人も

他者の欲を支えるために生まれてきたのではないからです。

 

1人1人みな

本来の自分のまんまを生きる至福のために生まれているからです。

 

他者を自分の都合のいいように「変えよう」とすることは

残念ながらできないのです。

 

 

しかし

 

 

人間は自分を「変容」させることには成功してきました。

意識の成長の旅をとおして…

 

苦しみを自分の内側に「抑圧」し溜め込まない
無理を自分にさせない
それは
自分を大切にすることです。


苦しみを自分の内側から外側に流し出す
1つ1つの実践
自分を「慈悲の愛」へと「変容」していき
苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱である
光明 enlightenment へとつながります。


ですから
瞑想 meditation による
自分の「変容」
真の愛を「感覚」で『思い出す』のです。


再び100%の本来の自然な状態を
再び「感覚」で『思い出し』
そのまんまを生きていくことになるのです。

 

 

本来の愛のまんまで生きる=苦しみはない

 

 

苦しみがないとき

愛と至福で満たされているとき

人間は

他者を自分の都合のいいように「変えよう」とは思いません。

自分の欲を満たすために他者を利用しようとは思いません。

 

人間関係の苦しみはなくなります。

 

まずは自分が苦しみから愛へと「変容」することで

愛と平和がはじまります。

 

他者を変えようとするのではなく、

まず自分からはじめる…

 

 

自分の内側の中核にある
『魂(源泉)』のの波動を
再び「感覚」で『思い出す』

 

真理(愛)
再び「感覚」で『思い出す』

 


sammasati サマサティ(right remembrance)
正しく想起する


『The last word is Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha - sammasati.』

 

 

瞑想と愛 meditation & love

 

 

花仙人

 

 

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男性性と女性性の統合(超越)

 

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内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』

 

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The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。

 

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Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

oshoアクティブ瞑想に関してはこちら、
http://www.osho.com/ja/meditate/active-meditations/why-active-meditations

 

oshoの瞑想音楽はこちら、

 

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導師はすてきだけど

導師を見るのではなく

暗闇(自分の内側)に浮かぶ月(魂(源泉))を見ようね!

 

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花仙人