花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

判断 judgement

判断 judgement



昨日と一昨日に渡り、人間は「比較」や「優劣」などの「判断」をするお話をご紹介しました。

そのゲームを楽しめて幸せな人たちは問題ないのですが、そのゲームをすることで苦しむ人たちもいます。

そのゲームをすることで苦しむのならば、まずは自分がそのゲームをやめることでしか苦しみから自分自身を解放し楽で自由にしてあげることはできません。


多くの世界中の今の社会では、子供のころから学校教育により「競争」を教え(洗脳)ます。なぜならば今の社会全体が「競争」社会だからです。(もちろん「競争」を教えない学校もわずかですが地球に存在しています。)

ですから、人間は「競争」することが当たり前のことのように「思い込み(洗脳)」身についているため、いつも無意識に自分と他者を「比較」や「優劣」などの「判断」をして「競争」をしています。

「競争」の真逆にあるのが「調和」です。

「調和」とは、「競争」のようにお互いを「比較」や「優劣」などの「判断」はせず、お互いの「個性や才能(本来の自分)」を認め合い尊重しあい愛し合いそのお互いの持つ才能を1人1人みんなで分かち合って一つを創造していく共栄共存の生き方です。


「競争」をすることが良いとか悪いとかを「判断」するお話をしているのではありません。

「競争」とはなんだろう?をお話しています。

「競争」することは人間関係に「分裂」を作ります。

優越感があっても、ただそれを楽しめていれば問題はないのですが、優越感に苦しむ人はいつ自分が劣等感を持つ立場になるのか…を気にして、優越感を保つことに一生懸命になり緊張感はなくならず神経は疲れやすくなります。

「競争」から怒りや憎しみや悲しみや劣等感などのネガティブな感情を生みだす人もいます。そのような人の場合、それらのネガティブな感情を持つことにより、元気がなくなり病んでしまいます。

すると、
「本来の自分(個や才能)」を自分で否定したり拒否したりして嫌い、自分を「信頼して受け止める(愛する)」ことができなくなり苦しみます。

昨日と一昨日のカードのお話のようになります。


人間はみな本来は『愛』だけなので『愛する』ことが普通なのですが、「愛せない」自分が自分の中に生み出されることにより、

1人の人間の内側が、

『愛する』自分
「愛せない」自分

という「二つ」の思いに分裂します。

この分裂を精神分裂ともいいますが、
人間は自分の中に二つの違う思いが存在する時に苦しみます。

ですからあらゆる分裂や分離は苦しみの元となります。

1人の人間の内側が、

『愛する』100%の自分
「愛せない」0%の自分

という「一つ」の思いしか存在しない時、

そこには分裂や分離はないため苦しまず心穏やかで安心感『愛』だけがあるだけです。

これの『愛』だけが「本来の自分」であり至福を感じます。


「二つ」に分離や分裂が苦しみで、
「一つ」の全一性(トータル)は至福です。


人間は「競争」を子供のころから当たり前のように教え込まれていて、「調和」をまだ教えられてはいなく身についてはいませんから、

人間は「競争」による「比較」や「優劣」などの「判断」を無意識にする『癖』が身についてしまっています。

子供のころから「調和」を教えてもらい身についていけば、「競争」を無意識にする『癖』はなくなっていきます。

そして、分裂や分離を自分の内側に作る苦しみがなくなっていきます。


「競争」をする時にかならず「判断」をしますが、それは物事の二元性のどちら側であるのか?の答えをすぐに求める『癖』があるからです。


1人1人の内側の状態が一つの社会を作っていますから、
苦しみの元となる争いがない状態の調和的な社会へと変容したいと思うなら、
まず、
1人1人の内側が「競争」から「調和」へと変容しなくてはならないのはもうおわかりだと思います。

自分と社会から苦しみをなくすには、
自分の内側の変容次第です。

「調和」な社会を求めるならば、
自分の内側を「競争」をやめて「調和」にするだけでいいのです。

とても簡単で誰にでも今すぐからはじめることができます。

そして子供たちにも「調和」を教えてあげればよいだけです。

難しいことは一つもないのです。

社会や学校教育を変えたい…というエゴ(欲)を持ったりしなくてもよく、理想と現実の違いにイライラして怒る必要もないのです。

外側を変えることはなかなかできませんが、
自分の内側を変えることは「今すぐ」誰にでも簡単にはじめることができます。

誰とも争うことなく、
1人1人の自分の内側の変容次第で、
外側の社会は変容します。
調和的な方法で変容していきます。

改革は戦争によるものだけではありません。
愛による調和的な改革もあるのです。


さて、人間は「競争」をする時に、
「比較」や「優劣」などを「判断」しますが、
『判断』とはなんでしょうか?


今日は『判断』に関するお話をカードの絵とoshoが講話で話してくれたお話の1部をご紹介します。


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判断とは、マインドの腐りかけた状態のことです。そしてマインドは、常に判断を求めています。 進行している動きのなかにいるのは常に危険で、居心地がよくないからです。とても、とても 勇敢でありなさい。成長するのをやめてはいけません。瞬間のなかで生きて、生の流れのなかにただとどまりなさい。
(これはカードの解説です。)

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以下はoshoの講話の1部です。


この物語は老子の時代に中国で起こり、老子はそれを非常に愛した。 

村にひとりの老人がいた。彼は非常に貧しかったが、美しい白馬をもっていたために、王たちでさえ彼を嫉妬した…。王たちはその馬に途方もない値をつけたが、その男はいつもこう言った。

「この馬は、私にとっては馬ではない。人だ。どうして人を、友人を売ることができるだろう?」

 男は貧しかったが、けっしてその馬を売ろうとはしなかった。

ある朝、馬が馬小屋からいなくなっていた。村中が集まって言った。

「じいさん、あんたはばがだよ!いつかは馬が盗まれるということは、俺たちにはわかっていたんだ。あいつは売った方がよかったんだよ。なんて運のないことだ!」

老人は言った。

「そんなに言いすぎてはいけない。馬小屋に馬がいないとだけ言えばいい。

それが事実だ。

ほかのことはすべて判断だ。

それが不幸なのか、それとも祝福なのか、私は知らない。

というのも、これは断片にすぎないからだ。

その後になにがつづくのかは誰にもわからないだろう?」

人びとは老人を笑った。彼らはいつも、この老人は少し狂っていると思っていたのだ。

だが十五日たって、ある夜突然、馬が帰ってきた。馬は盗まれたのではなかった。山野に逃げていたのだ。しかもそれだけではなく、彼は1ダースの野性馬をいっしょに連れてきた。 またしても人びとが集まって言った。

「じいさん、正しかったじゃないか。これは不幸ではなく、祝福だったということが確かに証明されたんだ。」

老人は言った。

「またしてもあなた方は行きすぎる。

馬が戻ってきたとだけ言えばいい…。

それが祝福かどうか誰が知っている?

それは判断にすぎないのだ。

あなた方は文章のひとつの言葉しか読まない--それでどうして本全体を判断することができるだろう?」

今度は人びとはあまり多くは言えなかった。だが内側では、彼はまちがっていると知っていた。十二頭の美しい馬が来たのだ…。

老人にはひとり息子がいて、その野性馬を馴らし始めた。ちょうど一週間後、彼は馬から落ちて両足を折った。

人びとはまた集まってきて、再び判断した。彼らは言った。

「またしてもお前さんが正しいということになったな。不幸だったんだ。お前さんのたったひとりの息子が足を使えなくなってしまった。しかもお前の歳では彼がたったひとつの支えだったのに。いまやお前さんは前にもまして貧乏だ。」

老人は言った。

「あなた方は判断にとりつかれている。

そんなに行きすぎてはいけない。

私の息子が両足を折ったとだけ言え ばいい。

これが不幸か、祝福か、誰も知らないのだ。

生は断片のままやってきて、それ以上は決して与えられていない。」

数週間たつと、その国は戦争に入り、町の若者たちはみな軍隊に取られることになった。

老人の息子だけは残った。歩けなかったからだ。

町中が泣き、すすり泣いていた。それは負け戦で、ほとんどの若者は帰ってこないとわかっていたためだった。彼らは老人のところに来て言った。

「じいさん、あんたが正しかったよ--これが祝福だったことが証明されたんだ。あんたの息子は歩けないかもしれないが、それでもあんたといっしょにいる。私たちの息子は永遠に逝ってしまった。」

老人は再び言った。

「あなた方はいつまでもいつまでも判断しつづける。

誰にもわからないのだ!

あなた方の息子は軍隊に入るように強制され、私の息子は強制されなかったとだけ言えばいい。

だが神〈全体なるもの〉だけが、それが祝福か不幸か知っ ている。」



判断しないことだ。

さもなければ、あなたはけっして〈全体なるもの〉と『一つ』にはならない。

断片であなたはとりつかれる。 
小さなことであなたは結論に飛びつく。

一度判断したら、あなたは成長をやめたのだ。

判断とは、マインドの腐りかけた状態のことだ。そしてマインドは常に判断を求める。

進行している動きのなかにいるのは常に危険で、居心地がよくないからだ。

事実、旅はけっして終わらない。
ある道が終わり、別の道が始まる。
ある扉が閉まり、別の扉が開く。
あなたは頂上に辿り着く。そこには常に、さらに高い頂きがある。
神は終わりのない旅だ。

ゴールを気にせずに、旅で満足するほどに、ただ瞬間を生きて、そのなかへと成長してゆくことで満足できるほどに勇気のある者たち、--そういう者たちにしか、〈全体なるもの〉 とともに歩くことはできない。



from osho talks
oshoの講話より
UNTIL YOU DIE, pp.36-40 


from osho transformation tarot
osho transformation tarotより


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判断とはマインドの腐りかけた状態のことだったのですね。

またマインドについてわかりましたね。


このお話はとてもたくさんのことを教えていますが、ブログではoshoのお話の全てをご紹介できない量なので、興味のある方はoshoの講話を聴くか、日本語に翻訳された本がありますからそちらをご覧になってみてください。日本語のタイトルは「あなたが死ぬまでは」です。

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英語のPDFはこちらからダウンロードできます。タイトルは「UNTIL YOU DIE」です。




生きているといろいろな出来事が起こりますが、その時だけの「判断」に左右されて「幸せ」か「不幸」かを自分で決めて、その二極のどちらかを行ったり来たりする「安心」と「恐怖心」を行ったり来たりする生き方ではなく、心はどちらにも偏らず、二極の真ん中(中庸)にいると心は安定した落ち着いた状態を保つことになるのですね。


「幸せ」「不幸」などコインの表裏の二元性を超えた生き方とは、
「幸せ」「不幸」のどちらかだけと思わず、どちらもあることを「理解」することで、
どちらの極に傾いているのかを「判断」することではない、

その状況をマインドで「判断」せず、
ただそのままを受け止めたらいいだけのこと。

「安心」と「恐怖心」はマインドが「判断」した結果で決まることなんですね。


「競争」による「比較」や「優劣」を「判断」することも、「幸せ」と「不幸」や「安心」と「恐怖心」などの二極の「幸せ」と「安心」の方をだけを手に入れたい!というエゴ(欲)があるために、マインドが働いてしまうのですものね。


マインドやエゴがあるうちは自分の内側が断片化しているから、全一性ではないため、
全てと一つにはなってはいない状態。

だから、その状態では、光明Enlightenmentな状態「全てと一つ」を『思い出し』てはいない…

というお話でもあります。

マインドやエゴを内側からなくしていくツールの一つが昨日のブログにアップしたビジネス雑誌のプレジデントでもご紹介されている坐禅や瞑想です。


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花仙人


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