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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

弟子であること

osho サマサティ タロット
弟子であること


わたしはスーフィーの逸話が大好きなのですが今日ご紹介するカードは特に好きなお話です(^-^)


さて、今日はスーフィーのある有名なお話のカードの絵とoshoが講話でお話してくれた1部をご紹介します。


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あなたの生のあらゆる状況があなたに教えてくれるのを許しましょう。
(これはカードの解説です。)

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以下はoshoの講話の1部です。


スーフィーの偉大な導師(master)、ハサーンが死のうとしていた時、1人の弟子がたずねた。

「ハサーン、あなたの導師は誰だったのですか?」

彼は言った。

「私には何千人もの導師がいた。彼らの名前をあげるだけでも何か月、何年もかかるだろう。それに、そうするにはもう遅すぎる。だが3人の導師についてははっきりと話しておこう。」

「1人りは泥棒だった。

あるとき私は森で道に迷った。そしてある村に着いた頃には夜も非常に更けていた。すべてが閉ざされていた。だが最後になって、私は家の壁に穴を開けようとしている1人りの男を見つけた。私は彼にどこか泊まれるところはないかとたずねた。彼は言った。

『夜もこんな時間ではむずかしいだろう。だが私と一緒でよければ泊まれる--君が泥棒と一緒に泊まれればの話だが』」

「ところがその男は非常にすばらしかった。私は一か月も滞在した!そして夜ごと彼は私に言ったものだ。

『さて、私は仕事に行ってくる。君はゆっくり休んで、祈っていてくれたまえ。』

彼が帰ってくると、私はたずねたものだ。

『なにかとれたかい?』

彼はよく微笑みながらこう言った。

『今夜はだめだった。だが、明日、またやってみる。神が許してくれればね…。』

彼はけっして絶望しなかった。いつでも幸せだったのだ。」

「何年も絶えることなく瞑想して、さらに瞑想しつづけていたにもかかわらず、なにも起こっていなかったとき、もう自分ではどうしようもなくて、絶望の淵にあり、このナンセンスすべてをやめにしようと思う瞬間が何回となくやってきた。

すると突然、私はその泥棒のことを思い出したものだ。彼は夜ごとこう言っていた。

『神が許してくれれば、明日には起こるだろう。』」


「そして、私の二番目の導師は犬だった。

私は河へ行くところだった。喉が渇いていたのだ。すると犬がやってきた。彼も喉が渇いていた。彼は河のなかをのぞきこみ、そこにもう一匹の犬--自分自身の影--を見て恐くなった。彼は吠えると逃げて行った。だが、 あまりにも喉が渇いていたために、彼は戻ってきた。ついに自分の恐れもかまわずに、彼は水のなかに飛び込んだ。すると影が消えた。 

そこで私は、神から私にメッセージが来たのを知った--あらゆる恐れにもかかわらず人はジャンプしなければならない、と。」


「そして、三番目の導師は幼い子どもだった。

私がある町に入ってゆくと、子どもが火のついた蝋燭を運んでいた。彼はモスクに蝋燭を置きにゆく途中だった。

ちょっとからかうつもりで私はその少年にたずねた。

『自分でその蝋燭に火をつけたのかい?』

彼は言った。

『そうです、おじさん。』

そこで私はたずねた。

『その蝋燭に火のついていない瞬間があって、その蝋燭に火のついている瞬間があった--その火がやってきた源を見せてくれないか?』

するとその少年は笑って蝋燭を吹き消し、こう言った。

『いま、火が消えるのを見たでしょう?それはどこに行ったのでしょうか?言ってください!』

私のエゴはこなごなになった。
私の全知識がこなごなになった。
そしてその瞬間に私は自分の愚かさを感じた。
それ以来私は自分の知りたがりをすべて落とした。」


「私に導師がいなかったのは事実だ。
それは私が弟子ではなかったという意味ではない--私は全存在を自分の導師として受け容れた。

私の弟子としてのありようは、あなたのそれよりももっと大きなかかわりだった。

私は雲を、樹を信頼した…私は存在そのものを信頼した。

私には導師がいなかった。

私には何百万もの導師がいたからだ--私はありうるすべての源から学んだ。」



道において、弟子であることは絶対に必要なことだ。

弟子であるとはどういう意味だろう?

それは学ぶことができるということ、
学ぶべくそこにいるということ、
存在に対して感じやすいということだ。

導師とともにあなたはどう学ぶかを学び始める…

少しずつ 少しずつ、あなたは調子が合ってくる。

そして少しずつ少しずつ、同じように全存在と調子を合わすことのできる、そのポイントが見え てくる。

導師はスウィミング・プールだ。
そこであなたはそこで泳ぎ方を学ぶことができる。

一度学んだらすべての大洋があなたのものだ。



from osho talks
oshoの講話より
THE SECRET OF SECRETS, Vol.1, pp.184-188 


from osho transformation tarot
osho transformation tarotより


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わたしにはわたしの導師が誰であるのかわかりませんσ(^_^;)


oshoも講話の中で話しています。

『弟子たちには自分の導師が誰であるのかはわからない。
導師には自分の弟子たちが誰であるのかがわかる。』

もちろん、導師たちは自分のもとにおとずれてくる全ての人達を弟子として受け入れますが、その弟子たちの中でも本当の弟子たちが誰であるのかは、導師にしか見分けることができない、というものなのだそうです。


というわけで、あまり考えたことはないのですが、わたしの導師はいったい誰なのでしょうかねσ(^_^;)?

ゴータマ・ブッダか、oshoか、アティーシャか、アーシュラ・K・ルグインか…とにかく、とてもたくさんの人達や、わたしの場合は人間だけでなく動物や植物や細胞や素粒子や地球や宇宙など…わたしを導いて下さった存在は「宇宙すべて」と、どうしても思え全てに感謝してしまうのですσ(^_^;)

瞑想は好きで毎日しているのですが、どの宗教グループにも、どんな団体にも参加していませんしσ(^_^;)


ま、そんなこんなで、今日ご紹介するたくさんの導師がいるというお話はとても人ごととは思えないお話なのです。


以前お話したゴータマ・ブッダやoshoにも導師はいませんでした。もしかしたら、ハサーンのようにあらゆる全ての源が導師なのかも?しれませんね(-_^)


私の体験からわかったことは、

誰が自分の導師であるのか?を『判断』することはあまり重要ではなく、

いかに自分が「弟子である」というような学ぶ姿勢の方が大切なことだと思っています。

「今の自分」に適切な導師はかならず目の前に現れてくれますから。


『道において、弟子であることは絶対に必要なことだ。

弟子であるとはどういう意味だろう?

それは学ぶことができるということ、
学ぶべくそこにいるということ、
存在に対して感じやすいということだ。

導師とともにあなたはどう学ぶかを学び始める…

少しずつ 少しずつ、あなたは調子が合ってくる。

そして少しずつ少しずつ、同じように全存在と調子を合わすことのできる、そのポイントが見え てくる。

導師はスウィミング・プールだ。
そこであなたはそこで泳ぎ方を学ぶことができる。

一度学んだらすべての大洋があなたのものだ。』


一雫が海に溶け込む…それは突然おとずれた至福の体験でした(^-^)ありがとう。


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


sammasatiサマサティ(正しく想起する  right remembrance)


花仙人
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