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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

究極のアクシデント

osho タロット 本 book サマサティ
究極のアクシデント


今日は満月です。
今日ご紹介するお話は、


無水無月
no water no moon


満月の日に無月のお話?

いえいえ、ちゃんと満月のお話です。

1人1人の光明enlightenmentを得た時の出来事はそれぞれさまざまに違います。同じものはありません。なぜならば、同じ人は存在しないからです。

あなたと同じ人はこの宇宙には存在しません。

あなたはあなたという花を咲かせるために生まれてきた一つの種です。

ですから、
自分と他者を比べても意味がありません。

あなたはあなたにしか歩くことができない人生を生きています。

あなたにはあなたにしか起こらない光明の得方の出来事が起こります。


oshoは講話の中でたくさんの人達が光明を得た時の出来事のお話を聴かせてくれます。


さて、今日は女性の禅の僧、尼(nun)が光明を得た時のある満月の夜に起こったアクシデントの出来事のお話のカードの絵とoshoが講話でお話してくれた1部をご紹介します。


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


自分の探究においては真正でありなさい。そのためにあらゆることをしなさい。

映し出されたものの背後にある元のものを知ろうとする渇き、それがあなたを『究極のアクシデント』に値するものにしてくれます。
(これはカードの解説です。)

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以下はoshoの講話の1部です。


千代能はとても美しい女性だった--類まれな美しさだった。帝や皇子たちまでが彼女を追いかけた。

彼女は拒絶した。彼女は神聖なるものの恋人にしかなりたくなかった。だから誰も見合わず、彼らの期待を満たせなかった。

彼女は尼僧になるために弟子入りするため寺々を訪ねて歩いた。だが、偉大な導師でさえも断った--彼女のあまりの美しさゆえに、問題が生じるからだ。

寺には非常に大勢の僧侶がいた--そしてもちろん、僧侶は抑圧された人々だ--千代能はとても美しかったので、彼らは神やあらゆることを忘れてしまう。だから、どこもかしこも扉が閉ざされた。導師は言った。

「あなたの探求はよろしい。だが、わたしは自分の人々の面倒も見なくてはならない。ここには五百人の僧侶がいるが、彼らは狂ってしまう。瞑想を忘れ、経典を忘れ、すべてを忘れるだろう。あなたが神になってしまう。だから千代能、この哀れな人々をじゃましないように、あなたは行きなさい。」

それで千代能はどうしたと思う?

どんな方法も見つけられず、彼女は顔を焼いた。顔中、火傷の跡がついた。

それから導師のところへ行った。導師には、彼女が男か女か見分けがつかなかった。

そうして彼女は尼僧として受け入れられた。

そして、
彼女には、すっかり準備ができていた。
その探求は真正だった。
ある晩の偶然のようなアクシデントの出来事にふさわしかった。それを受けるに値していた。


尼僧、千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた。
ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。
歩きながら、彼女は桶の水に映る満月を見つめていた。
突然、しめてあった箍がもろともにはずれ、桶はばらばらになって落ちた。
いっきに水が流れ、月の反映が消えた--

千代能は光明を得た。

彼女はこの句を詠んだ--

あれこれと、どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然、底がぬけた。
水たまらねば月もやどらず--
わたしの手は空っぽ。

(とにかくにたくみし桶の底ぬけて、
水たまらねば、月もやどらず)




光明はいつも突然だ。

光明において、段階を踏むことはない。段階を踏むこと自体が、マインドだからだ。

光明はマインドに属さない。

だからマインドに耳を傾けるなら、絶対に到達しない。


それが、起こったことだ。この尼僧、千代能は何年も学んでいたが、何も起こっていなかった。

マインドは神について勉強することができる。
光明について勉強することができる。
マインドは「すべてがわかった」と、あなたに思わせることもできる。

しかし、神は理解するものではない。

あなたは、それにならなくてはいけない。

これが、神(存在)を知る唯一の方法だ。


それがイエスが「神は愛のようだ」と言った--愛することではなく、ただ、愛のようだと。

勉強をして偉大な学者や科学者になったとしても、愛についてはなにも知ることはできない。

愛は、あなたが愛する者になったときにだけ知られる。愛だけになったときに。

愛は、あなたが空っぽの時にだけある。

知識は、あなたがいっぱいの時にある。


千代能は勉学を重ねた。
だが『光明を得られずにいた。』

光明が難しいからではない、

光明について学習すれば、要点をまるごと取り逃がすからだ。まちがった軌道にいる。

壁からこの部屋に入ろうとするようなものだ。この部屋に入るのが難しいのではない、扉から入らねばならない。

光明を得たければ、知識から始めてはいけない。
愛を知りたければ、情報を集めてはいけない。

光明を得たければ、瞑想になりなさい。
愛を知りたければ、愛になりなさい。

マインドとエゴを落として。

光明も愛も外側を探してもない、
それはあなたの内側の源泉にすでに「ある」。


『尼僧、千代能は何年も学んでいたが、光明を得られずにいた。』

当然だ。おかしいところはない。彼女は外側を見ていた、学んでいたのだ。


『ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。』

あなたもまた、水でいっぱいになったとても古い、大昔の桶を運んでいる。それは考えごとでいっぱいになったあなたのマインドだ。

マインドはいつも古い、新しくない。マインドは記憶だからだ。記憶がどうして新しくなるだろう?マインドは過去だ。どうして過去が新しくなるだろう?

マインドは始終、繰り返しを好み、いつも新しいものに反対する。

マインドは同じ間違いをいつも繰り返す。


『ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。』

マインドは古い桶だ。
そして、考えごとは水だ。

考えごとを大切にするあまり、この古ぼけた桶を手放せずにいる。

あなたは考えごとにしがみつく。

なぜ考えごとを、それほど大事にするのだろう?あなたは考えることに中毒になっている。


『ある晩、千代能は水をいっぱいにはった古い桶を運んでいた。歩きながら、彼女は桶の水に映る満月を見つめていた。』

満月は天空高く、そこにあった。
そして水の中、桶の中にそれは映っていた。

千代能は桶に映る満月を見ていた。

これは、みんなに起こっている。
これはおとぎ話ではなく、逸話でもない。
これは事実だ--あなたにも起こっている。

あなたが満月を見たことは、これまで一度もない。

あなたはいつも、水の中、自分の思考(マインド)に映った月を見る。これが本物の月だと、あなたは思い込んでいる。

本物の月は、桶が壊れたとき(マインドが空っぽになった時)にだけ現れる--水が流れ出て、反映は消える。


『突然、しめてあった箍がもろともにはずれ、桶はばらばらになって落ちた。』

突然それは起こった、偶然のように。

この現象を理解しなさい。

光明は予測できないため、いつも偶然のように起こる--自分で、どうにかすることはできないし、それが起こるよう、手配などできない。

引き起こそう、自分でなんとかしようとするなら、それはマインドのまやかしにすぎない。

光明は原因があって起こるものではない。

光明は、起こる。起こすものではない。


光明は、いつもアクシデントのように偶然のように起こる。

だが、わたしの言うことを誤解してはいけない。光明のために何もするなとは言っていない。

光明のために何もしなければ、
その偶然のようなアクシデントさえ起こらない。

その偶然は、そのためにとても尽くしてきた人たちにしか、起こらない。


あなた方の瞑想はすべて偶然のようなアクシデントの起こりやすさを、招待を創り出すためにすぎない。ただそれだけだ。

偶然のようなアクシデントに、未知に備え--準備し、待ち、受容的でいなさい。

さもないと偶然が訪れても通り過ぎていく。

招待がなければ客は来ない。


『突然、しめてあった箍がもろともにはずれ…』

それは突然起こった。だが彼女は働きかけてきた。

千代能はすばらしい尼僧だった。彼女は学習し瞑想した。少なくとも30年か40年、導師とともにあった。そして、とほうもなく働いた。

美しい自分の顔を焼いて傷つけて尼僧になり、長い年月絶え間なく学び、瞑想した千代能には、すっかり準備ができていた。

その探求は真正だった。

偶然のようなアクシデントの出来事にふさわしかった。それを受けるに値していた。


『いっきに水が流れ、月の反映は消えた--千代能は光明を得た』

千代能は桶に映った月を見ていた。
突然、桶の箍がはずれて桶が落ちて水がいっきに流れ、月は消えた--それが引き金になった。

古いものが消え、新しいものが始まるところ。

あなたが生まれ変わるところには、つねにきっかけがある。

突然、いっきに水が流れ出て、そこには月はなかった。これが引き金になった。

それで千代能は見上げたにちがいない--そこには本物の月があった。

この外側の現象と同じことが、千代能の内側でも起こっていた。

「すべてがマインドを通して見られていた--マインドは鏡だった。」

突然、千代能はこの事実に気づいた。

マインドを通して見たものは、すべて幻だったと。

桶の箍がはずれて桶が壊れたように、
千代能の内側でもマインドが壊れた。


用意はととのっていた。やることはすべてやった。できることはすべてやった。何も残ってはいなかった。千代能には準備ができていた、彼女はそれを受けるに値していた。

このありきたりの出来事が引き金になった。


『あれこれと、どうにか桶をとめてきた。
もろい竹が切れないように。
突然、底がぬけた。
水たまらねば月もやどらず--
わたしの手は空っぽ。』


『あれこれと、どうにか桶を留めてきた
もろい竹がきれないように…』

あらゆる手をつくし、自分のマインドをなんとかまとまるようにしてきた。
(光明を得ることと逆のことをやっていた)
マインドは幻であるから強くはない、それはもろい竹のようだ。


『突然、底がぬけた…』

偶然のようなアクシデントの出来事だった。
(気づきのきっかけが起こった)


『水たまらねば月もやどらず--
わたしの手は空っぽ…』

(水(マインド)に映った月は幻で、空(源泉)に在る月が本物だとわかった)

手中の空だ。
空を手にするとき、すべてを手にしている。
これがブッダ(目覚めた人、覚醒)だ。

空は否定的なものではなく、
もっとも肯定的なものだからだ。

あらゆるものが、無から生じるからだ。

このすべては、空から生まれる。

手中の空は、手中の源泉だ。



とても小さな種から、大きな木が生まれる。
どこからこの木はやってきたのだろう?

種を見てごらん、
それを割って、探してごらん。

種を割れば、そこに空が見つかる。

その空から、この大きな木はやってくる。

その空から、この全宇宙がやってくる--
無から在ることが生じる。



わたしの手は空っぽとは、
わたしの手にすべてがある--

あらゆるものが生じ、
そして戻って、帰っていくところ、
まさにその源泉がある、
ということだ。

これが光明だ。

そこに誰もいず、あなたさえいない空っぽな時、
あなたは源泉(神とか愛)になっている。

これが、あらんかぎりのもっとも至福に満ちた瞬間だ。

この瞬間が不滅となる。終わりがなくなる。永遠になる。


それからは、あなたが他のちがうものにはなれなくなる。(仮面やラベルを付けた偽りの自分にはもうなれなくなる、本来の自分にしかなれなくなる。)

なぜならば、もはや、あなたはいないからだ。

水や茶(マインド)を入れるあなたという桶や茶碗がないからだ。


要点は、あなたが、「いるか、いないか?」だ。


千代能は突然、自分がいないことを発見した。
手中の空を。




だが、覚えておくように。
これは千代能に起こったことであり、同じようには、あなたには起こらない。

この話を聞いて、あなたが千代能と同じように、桶を壊し水がいっきに流れ出て、月の反映が消えても、あなたの光明は起こらない。

あなたは千代能ではないからだ。

千代能に起こったことは儀式になるものではない。

しかし、多くの人々は1人に起こったことを真似して光明を得ようとし、儀式化してきた。

儀式的になってはいけない--理解しなさい。理解を原則にしなさい、唯一その原則だけに従いなさい。



from osho talks
oshoの講話より
NO WATER, NO MOON, 


from osho transformation tarot
osho transformation tarotより


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


自分のマインドは正しいんだ!

そう思い込んで、そのマインド(思考)の中で生きているときは、そのマインドが真実ではなくても、それにしがみついて信じて生きてしまうのが人間です。たとえ、そのマインドによって苦しんでいたとしても…

でも、なんらかのアクシデントやたとえ小さな出来事であっても、ある時、その信じていたマインドは間違っていた!と『気づく』瞬間がありますよね。

あ!

みたいな(^-^)

『気づき』が起こると、それまでしがみついて信じていたマインド(思考)やエゴ(欲)をふっと自然に『手放す』ことができたりします。

そのマインドやエゴによって自分は今まで苦しんできたんだ…と、腑に落ちてわかったりします。


このように『体験』によって『体感』して理解できたことは、一生忘れませんし、それは『知恵』となりその後自他ともに役立てることができるモノとなります。


『気づく』ということは自分を苦しみから解放するためには大切です。


人間はあらゆる間違ったマインド(知識や思考)を信じて思い込むことにより、苦しんでいます。


苦しい場合、
頭にあるマインドの声(苦しみの原因)よりも、
腹にある「本来の自分(源泉、魂)」の本当の声に耳を傾けると、苦しい間違った道から本来の道へと軌道修正ができ、結果至福な状態を思い出します。


苦しかったり疲れたりした時は、
無理に外に出かける必要はなく、

自分のお腹の中のお臍のあたりにある源泉に、温泉に入るようにゆっくりとつかってみましょう。それはたいへん心地よく、あらゆるすべてを洗い流し、真っさらにし、あなたを元気にします。

源泉は愛100%です。究極に癒されます。

あなたを真に癒やし至福感を与えるものは、外側を探してもなく、あなたの内側のお腹にあります。

これは禅の導師白隠が教えている健康法の一つでもあります。この健康法でガンを治した人たちはたくさんいます。源泉を丹田ともいいます。


千代能は、

無水無月
no water no moon

のアクシデントによって、自分の内側にある満月のような源泉を見つけました。

源泉は愛100%だから、苦しみの原因となるマインドやエゴは全くない至福感のみです。

そうです。本来の自分(源泉)は、マインドやエゴが全くない、愛100%なんです(^-^)

愛は知識によって学ばなくても、みんな生まれる前から愛を知っているのですね(^-^)

1人1人みんな愛そのものです。

ただ、
頭にあるマインドとエゴに振り回されていて、
腹にある本来の自分=源泉=愛を忘れているだけ…


マインドとエゴを空っぽにしたら、自然と愛100%の本来の自分であることを思い出します。


光明を得るというのは、腹にある源泉の愛100%の本来の自分を『思い出す』というシンプルなことなんです。


マインドとエゴさえ空っぽにできれば、誰でもできるシンプルなことで、全く難しくないのです。


みんなが難しいと思っていることは、自分のマインドとエゴにしがみついた手を放すことが難しい…と思っているだけです。

それが光明を得ることが難しいとしている原因です。


マインドとエゴを空っぽにできたら、誰でも今すぐに光明な愛100%の本来の自分を思い出せます。

oshoは、それは段階を踏むのではなく、一瞬で思い出すと話しています。

わたしもそうでした。それは突然来ました、一瞬で一気に思い出しました。光明を得るという知識さえなかったので、なんのことやらもうビックリしました。でも不思議と自分が宇宙に溶け込み全てと一つになった瞬間、全てがわかりました。これを思い出すために生まれてきたんだ、とわかった瞬間でした。だから、oshoの話や千代能の一瞬という体験は嘘じゃない、とわかります。

わたしは千代能さんとは違って、なんの知識もなく、光明を目指していたわけでもありませんでした。ただ苦しみの原因であるマインドとエゴを手放すことを瞑想をしながらしていただけです、病の改善のために。

ですから、それを体験した後に、oshoの講話と出会いました。わたしはそれをうまく言葉にはできませんが、oshoは本当にピッタリなことを詳しくわかりやすく話されています。自分に起こった体験がなんであったのか、を詳しく知ることができてほっとしたものです。このようなお話をのこしてくださったoshoと、それを今でもサポートされているお弟子さん達に心から感謝しています。ありがとう。


今日は満月です。

水に映った満月ではなく、
空を見上げて本物の満月を見る。

無水無月
no water no moon

偽りのものではなく、
本物はいつも感動を与えます。

偽りの自分ではなく、
本来の自分はいつも周りに感動を与えています。

今夜は晴れるかな?

満月は見えるかな?

満月が見えなかったとしても、内側にある温泉(源泉)にちゃぷちゃぷつかってゆっくりのんびりしよう(-_^)

慣れてきたら24時間365日源泉につかりながら暮らせるようになります(-_^)


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


sammasatiサマサティ(正しく想起する  right remembrance)


花仙人



追記…

この千代能のお話はもっと詳しくoshoの講話で聴けますし読めます。

無水無月
no water no moon

日本語に翻訳された本はこちら。
f:id:hanasennin9:20160422060559j:plain
英語の講話のダウンロードPDFはこちら。


花仙人