花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

明け渡し(surrender)

明け渡し(surrender)


アティーシャはインドからチベットへと行きゴータマ・ブッダのそのままの教えを伝えました。(アティーシャのカードは以前ブログでもご紹介しました。)

ボーディダルマはインドから中国へと行きゴータマ・ブッダのそのままの教えを伝えました。

ボーディダルマが中国へ伝えたゴータマ・ブッダの教えは日本にも渡りました。

それは禅とよばれています。

禅は仏教とは違い、言葉による経典により学ぶことよりも、言葉を超越した体感によって光明を得ることを大切にします。

なぜならば、真理は言葉であらわすことはできないものですから、言葉で伝えることはできないのです。

知識を頭に入れても、真理を体感するという光明を得ることはできないということです。

ですから、1人1人が真理を体感により「思い出す」ことでしかわかることができないのですね。

以前ご紹介したカードの知識を捨てたナロパさんは、真理を知識ではなく、体感によって本物を知るために知識を全て捨てて、自分の内側にある真理を思い出すための内側の旅をはじめて光明を得ました。


真理を体感してわかることを大切にするゴータマ・ブッダと禅師たち。


人はすでに光明の状態ですが、頭の中がエゴ(欲)とその欲を手に入れるためのマインド(思考)でいっぱいになり、光明である「本来の自分(源泉)」をすっかり忘れてしまっています。


マインド(思考)やエゴ(欲)を持つことは地獄に生きているような苦しみの状態です。


しかし、本気でその苦しみのゲームをやめよう!と決意する時…自分の全てをかけて「本来の光明の至福な自分」を「思い出そう」とする時…

それは起こります(^-^)


瞑想の道の千代能や愛の道のミーラの光明を得た体験とはまた少し違う、導師と弟子の信頼によって起こる明け渡しの光明を得た体験。

今日はそんな自分の全てを明け渡すことで本来の光明な自分を思い出した、禅の光明の得方を体験したボーディダルマとその弟子のお話のカードの絵とoshoが講話でお話してくれた1部をご紹介します。


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


もしあなたが、どのような状況からも最大限の恩恵を達成したいと望むなら、トータルにかかわらなければなりません。それがあなたに鍵を与えてくれるでしょう。
(これはカードの解説です。)

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以下はoshoの講話の1部です。


菩提達磨(ボーディダルマ)はインドで光明を得た。

そして1人の弟子を探したが、その1人を見つけることができなかった。それゆえに彼は中国に行かなければならなかった…。

彼は鍵を持っていた。そして彼は老年にさしかかっていたが、しかも彼は正しい後継者を見つけることができなかった…。


彼は9年の間、洞窟のなかで待った。ただ待った…壁を見つめながら。

彼は大きな磁力を創りだしていた。この伝統をこれから先へ伝えることのできる1人の者を呼び寄せようとしていた。彼はこう言っていた。

「その者が来たら、その時にのみ、私はその者と顔を合わせよう。さもなければ私は壁に顔を向けつづける。」


そしてある日、まさにその人が来た。彼はボーディダルマの後ろに立った…。

やって来たこの男はなにも言わなかった。彼はただ待った。忍耐強く待った…そして2つの沈黙が出会った。

そして次の日、朝早く、この新参者は自分 の片手を切り落とし、それをボーディダルマに贈って言った。

「私の方を向いてください。さもなければ私は次に自分の頭を切り落とします!」

ボーディダルマはすぐに向きを変えた。向きを変えなければならなかった。9年の間、彼は誰をも見なかったのだ。彼は言った。

「そうか、お前は来たんだな!」

…弟子だけが自分の頭を差し出す用意のあるたった1人の者だからだ。




これらは象徴的な物語だ。

手とは、

「私は自分の行いをあなたに差しあげます。私を使ってください」

という意味だ。


手とは、

「私にはあなたのメッセンジャーになる用意があります。
あなたが伝えたいものをなんでも私は伝えましょう。
あなたが伝えたいものをなんでも私に与えてください。
あなたが与えようとして来られたものを、なんでも私に与えてください」

という意味だ。

手とは、ただ、

「私の行いはこの瞬間からあなたのものです。
私は私なりの行為者にはなりません。
もう私はあなたが言われたことだけをやります。これが私の手です」

という意味だ——これがその意味だ。


彼がほんとうに自分の手を切り落としたというのではない。それはばかげていただろう。そして彼は言った。

「私の方を向いてください、さもなければ私は自分の頭を切り落とします!」

…これがサレンダー(明け渡し)だ。


ボーディダルマは向きを変えた。

この男の目のなかを見た。

そして鍵が渡された。

ひとことも話されなかった。

その必要はなかった。

彼は後継者になった。

禅は生きた伝統のまま残った。


from osho talks
oshoの講話より
THE WISDOM OF THE SANDS, Vol.2, pp.148-150 


from osho transformation tarot
osho transformation tarotより


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


oshoはこう話します。


『禅の導師(master)は、ただの教師ではない。

どの宗教にも教師しかいない。彼らはあなたの知らないことを教え、信じるように求める。というのも、そうした体験を客観的現実として表す方法がないからだ。

教師にしても、それを知っているわけではない--信じたのだ。

彼らは自分が信じたことを誰か他の人に伝える。

禅は信じるということをする信者たちの世界ではない。信心深い者たちのためにあるのではない。

それは、すべての信仰、不信仰、疑い、理性、マインドを落とし、境界のない自分たちの純粋な存在へと入って行くことのできる、怖れを知らない魂たちのためにある。

だが、それは途方もない変容をもたらす。

だからこそ、私に言わせてもらえれば、他の者たちが哲学にかかわっている間に、禅は変態(メタモルフォシス)に、変容にかかわるのだ。

それこそが真正なアルケミー。卑金属から金へとあなたを変える。

だが、その言葉を理解しなければならない。

あなたの理性の働きと知的なマインドによってではなく、

愛にあふれたハートで…。

あるいは、それが本当かどうか気にすることなく、ただ聴くことによって…。

すると、突然、あなたがそれを見る瞬間がやってくる。

それは生涯をとおしてあなたを躱し続けてきた。

突然、ゴータマ・ブッダが「八万四千の扉」と読んだものが開く。』


(osho zen tarotの変容より)



oshoは禅の大切さをたくさんの講話でお話しました。

日本だけでなく世界中でも一休さん松尾芭蕉は有名な日本の禅の導師です。

臨済は中国の禅の導師であり、その臨済の禅の教えが日本に渡りました。以前ご紹介した白隠盤珪臨済宗の禅の導師です。

千代能や連月も女性の禅の尼僧です。

oshoのお話では、禅とはインドのゴータマ・ブッダの教えの仏教と中国の老子のタオの素晴らしい二つの教えが交ざりあって生まれたものであるそうです。


oshoは講話をたくさんしましたが、とてもたくさんのお弟子さんたちの質問にも丁寧にわかりやすく答えました。そのoshoの弟子の1人がこのような質問をしました。

「Osho、私は禅の哲学が理解できません。それを理解するにはどうしたらいいでしょうか?」
 
oshoはこう話しました。

「禅はけっして哲学ではない。禅に哲学に近づくように近づいたら、最初から間違ったスタートを切ったことになる。

哲学はマインド(思考)に関与している。
禅はマインド(思考)を完全に超えている。

禅はマインド(mind)を乗り越えるプロセス、マインドから遠く離れることだ。それは超越のプロセス、マインドを卓越することだ。あなたは禅をマインドによって理解できない、マインドにその機能はない。
 

禅はノーマインド(no-mind)の境地だ、そのことを覚えておくべきだ。

それはヴェーダーンタヴェーダ聖典ウパニシャッドの別名)ではない。ヴェーダーンタは哲学だ。あなたはそれを完璧に理解することができる。禅は仏教ですらない。仏教もやはり哲学だ。
 

禅はきわめて稀有な開花だ——それは意識の歴史に起こったもっとも奇妙なことの1つだ——それはゴータマ・ブッダの経験と老子の経験の出会いだ。

ゴータマ・ブッダは、最終的に、インドの遺産の一部だった。彼は哲学の言語を話した。彼はどこまでも明晰で、あなたは彼を理解することができる。実際、彼はあらゆる観念的・抽象的な質問を避けた。彼はとてもシンプルで、明晰で、論理的だった。

しかし、彼の経験はマインドに属するものではなかった。

彼は否定的な哲学をもたらし、あなたの哲学を壊そうとしていた。足に刺さった棘を別の棘で抜くように、ゴータマ・ブッダは別の哲学によってあなたのマインドから哲学を取り去ることに尽力した。いったん最初の棘が抜き去られたら、どちらの棘も捨ててしまえばいい、そしてあなたはマインドを超えてしまう。
 

だが、ゴータマ・ブッダの教えが中国に渡ったとき、とてつもなく美しいことが起こった、異種交配が起こった。

中国では、老子が自分のタオ(道)の経験を完全に非哲学的なやり方で、とても不条理なやり方で、とても非論理的なやり方で教えた。

しかし、仏教の瞑想者、仏教の神秘家が道教の神秘家と出会ったとき、彼らはマインドとマインドではなく、ハートとハートから、たちまちお互いを理解することができた。

彼らは同じ波長(vibe)を感じることができた、同じ内的な世界が開くのを見ることができた、同じ香りをかぐことができた。

そして彼らは近づき、その近づくことによって、お互いと出会い溶け合うことによって、なにか新しいものが育ちはじめた。

それが禅だ。

それはゴータマ・ブッダの美しさと老子の美しさの両方をもっている。それは両者の子どもだ。

このような出会いはそれ以前にも以後にも起こらなかった。
 

禅は道教でもなければ仏教でもない。

それは両者でありながらどちらでもない。

伝統的な仏教徒が禅を退け、
伝統的な道士が禅を退けるのはそのためだ。

伝統的な仏教徒にとって、それは不合理であり、
伝統的な道士にとって、それは哲学的すぎるが、

ほんとうに瞑想に関心を抱く者にとって、禅は1つの経験だ。それは不合理ではないし哲学的でもない、というのも、どちらもマインドの状態だからだ。それは超越的ななにかだ。」

(oshoの講話より、Walking in Zen, Sitting in Zen, #16 より抜粋 )
 

今日ご紹介したカードは、インドから中国に渡ったゴータマ・ブッダの弟子の1人であるボーディダルマが、明け渡す準備ができている弟子と出会い、明け渡しが起こったお話です。導師と弟子の出会いです。

9年間も壁に面して瞑想し続けたボーディダルマの波動は波紋のように広がっていき、その波長を捉えることができた人を引き寄せ、2人は出会うべくして出会ったのですね。

そこには魂レベルの深い繋がりの信頼があります。

導師が弟子へ、弟子が導師へと両者の深い信頼があるからこそ、魂を明け渡すように溶け合うことができるのですよね。

前回ご紹介したミーラもクリシュナ(神)を信頼して自分を明け渡し、その前にご紹介した千代能も存在(神)を信頼して顔を焼いてまでして明け渡し禅の尼僧に弟子入りしました。


わたしは宗教的な知識は全くありませんでしたし、今もありませんが、今から17年前に3度目の臨死体験により意識が戻った時に、

「わたしは生かされているんだ。」

とふと思い、深く感謝をし、

「わたしの全てを神さまにお渡しします、これからは神さまのために生きていきます。」

と朦朧としていましたが、はっきりとそう思ったのを覚えています。無宗教で神とお釈迦様の違いもわかっていなかった頃の無知なわたしがなぜかそう思ったのです(・・;)…。

それから、お釈迦さまが夢にあらわれたりして、あらゆる出来事が起こり、自然と内側の「本来の自分」を「思い出す」旅がはじまりました。マインドとエゴを捨てる旅と愛と感謝の旅でした。

「本来の自分」である源泉を「思い出した」後、宇宙の洪水が突然やってくるような「全ては一つ」の体験が一瞬にして起こり、この宇宙に自分が溶け込んだ時が完全な『明け渡し』となり(それは自然とそうなってしまう)、それ以後は(きっとそれ以前もσ(^_^;))新しい世界の学びの一年生になった感じで多くの導師たちに見守られながら、存在と一つになって、存在を信頼し「今」ここで、自分ができることを一つ一つこなして自然と共に普通に生きています。

たぶん今の「全ては一つ」の生き方が17年前に意識が朦朧としながらも神(存在)に自分の全てを明け渡すといった生き方なんだな〜と、今ならわかります。


全ては一つの体験が起こるまでは、病を治すために始めた瞑想で、光明を得るなどの知識は全くなく、ただマインドとエゴを手放すことだけしかわかりませんでした。そのような手探りの状態での内側の旅はやはり不安でしたから、内側の旅の最中は導師のような存在は弟子には安心感を与えるのかも?しれません。


自分のそのような体験から、わたしのように、もし、知らぬ間に内側の旅がはじまってしまい、外側の世界とはなにやら違うことが起こり戸惑っていらっしゃる方がたぶん存在されていると思いますから、そのような人達へ、不安になる必要はないことをお伝えしようと思い、内側の旅のことや光明のことなどをとても丁寧にわかりやすくお話されているoshoの講話の1部や本などをこのブログでご紹介させていただいています。


ゴータマ・ブッダや他の導師たちやoshoも話していますが、内側の「本来の自分(源泉)」を「思い出す」ことは心だけでなく、魂レベルの完全なる癒しの旅であるとわたしの体験からわかりました。


マインドとエゴをたくさん貼り付けた重くなった魂は生きながらにして低い地獄の次元に落ちていき苦しみますが、

マインドとエゴを手放した真っさらな無垢な軽くなった魂は苦しみ(重み)がなくなったため生きながらにして高い天国の次元に昇っていきます。


難しいことはわかりませんが、どんなに外側の状況を天国のように見えるように変えても、それは自分の理想の家や車や服や宝石や恋人やパートナーや家族などの形だけを手に入れても、その人の内側がエゴ(欲)を満たしたいという飢えがあり苦しんでいるならば、心は地獄です。

心が地獄から天国へとそれは苦しみから至福へと意識が変容するのは、自分がいかにマインドとエゴの苦しみを手放すか…だけだな、と体験からはわかります。

生きるための必要最低限の暮らしでも内側が満たされ至福なら、心は天国です。

苦しみも至福も自分次第なのですね。


わたしは内側を旅してマインドとエゴを手放すこと(瞑想)をしている年月の間は、それがゴータマ・ブッダや禅の教えであることとは知りませんでしたが、でも、それは確かにわたしを心と身体の苦しみや痛みから自分を助けるツールとなりました。

oshoは禅の教えが禅の僧たちだけでなく、今の時代のマインドとエゴに偏ったために苦しんでいる多くの人達を助けることになると伝えています。

わたしにはうまくそれを説明することができませんから、oshoの講話の1部ですが今日はもう少しoshoの禅のお話をご紹介します。



「禅を理解するために、哲学的な努力をしなくてもいい。

あなたは瞑想に深く入っていかなければならない。

そして瞑想とはいったいなにか?

瞑想とは
mind(マインド)からno-mindへ、
(思考から思考がないへ)
thoughtsからno-thoughtsへと飛び込むことだ。
(思いから思いがないへ)

Mindはthinking(考える)を意味する、
No-mindはpure awareness(純粋な覚醒)を意味する。

人はただ覚めている。そのとき初めて、あなたは禅を理解することができる——経験を通じて、いっさい知的な努力を通じることなく。」
 
(oshoの講話より、Walking in Zen, Sitting in Zen, #16 より抜粋 )
 
 
 
「禅はシビア(厳しい)だ。

それはとても困難な道だ。それはゲームをするのではなく、火をもてあそぶ。

いったん禅の世界に入ってしまえば、あなたはけっして同じままでいることはできない。全面的に変容されてしまうので、自分自身を思い出すことすらできない。

禅の世界に入っていく人と出てくる人はまったくの別人、別の存在だ。

そこに連続性はなく、あなたは自分の過去と断絶する。すべての連続性はマインドのものだ。

すべての自己認識(アイデンティティ)はマインドのものだ。すべての名前、すべての形はマインドのものだ。

マインドが落とされると、突然、あなたは過去と断絶する——過去だけでなく、時間との接続も失ってしまう。
 

それが禅の秘密のすべてだ——時間との接続が失われてしまう。

そのときあなたは「永遠」とつながる。

そして永遠は「今ここ」にある。

永遠は過去も未来も知らない。
永遠とは純粋な現在だ。

時間は現在を知らない——時間は過去と未来だ。

私たちは一般的に時間は三つのカテゴリーに分けられると考える——過去、現在、未来に。

これはまったく間違っている。

時間は二つのカテゴリーにしか分けられない——過去と未来に。

現在は時間の一部ではありえない。

見てみなさい、よく見てみるがいい。
現在とはいつのことかね? 

これが現在だと認識した瞬間、それはすでに過去になっている。「そう、これが現在だ」とあなたが言ったとたん、それはすでに去っている、それは過去になっている。

あるいは「これがいずれ現在になる」と言うにしても、それはまだ未来のことだ。

あなたは現在を認識できない、あなたは現在を指差すことができない、あなたはこれが現在だと言うことができない。

時間の世界に現在はない。」

(oshoの講話より、Dang Dang Doko Dang, #1 より抜粋 )
 
 
 
「禅は言う——仏性(本来の自分)はどこか遠くにあるものではない。あなたはまさにその上に坐っている。あなたがそれだ! 

だからどこかへ行く必要はいっさいない。

あなたはただ少しあるがままの自分(本来の自分)に注意深くならなければいけない。

それはすでに起こっている!
なに1つ達成しなくていいし、
なにひとつ修行などしなくていい。

1つだけ、あなたはあるがままの自分(本来の自分)にもう少し注意深くならないといけない。
 

ゆえに禅は言葉によって教えない。

ゆえに禅は目標(ゴール)によって教えない。

禅はあなたをじかに一撃する。

それは状況をつくる、それは方便を工夫する。
 

ある人が禅の導師(master)のもとにやって来てこう尋ねた、「私はブッダになりたいのです」すると導師は男をおもいきり叩いた。
 
その人は呆気にとられた。彼は外に出ると古い弟子の1人に尋ねた、

「あの方はどういうお方ですか?私はごく単純なことを尋ねたのに、あの人はひどく腹を立てたのです。私をおもいきり叩きました!まだ頬がひりひりしています。どうやったらブッダになれるのかと尋ねてはいけないのですか?あの人はずいぶん乱暴で暴力的ですね!」
 
すると弟子は笑った。彼は言った、

「あなたにはあの方の慈悲がわからないのです。あの方は慈悲心からあなたをきつく叩いたのですよ。それにあの方は高齢です、九十歳です。あの方の手のことも考えてみなさい——あなたの頬以上にひりひりしているでしょう!あなたはまだ若い。あの方の慈悲を考えてみなさい、あなたは愚か者です!さっさとお帰りなさい!」
 
しかし、その男は尋ねた、

「でも、それに込められた意味とは?」
 
すると弟子は言った、

「その意味は単純です。

ブッダがやってきてどうやったらブッダになれるのかと尋ねたら、他になにができますか?

相手を叩いて、自分がそれだと気づかせてやるしかありません。なんというばかなことを言っているのか!とね。」
 

バラの木がバラの木になろうとしたら、それは気が狂ってしまう。それはすでにバラの木だ。

あなたは忘れているのかもしれない。

禅は言う、

あなたは昏睡状態にある、
あなたは自分が誰なのか忘れている、
それだけのことだ、

と。

なにもしなくていい、思い出すだけでいい。

それがナーナクの言うスラティ、カビールの言うスラティだ——たんに思い出すこと。

あなたはただ自分が誰なのかを思い出さなくてはならない!
 

だから禅は言葉によって、教典によって、学理によって教えない、ダイレクトに指し示すことによって、新たな意識のレベルを唯一の答えとするゲームに、私たちを参加させることによって教える。

この物語に耳を傾けるなら、あなたは禅がどのように状況をつくりだすのかを理解するだろう。

禅はきわめて心理学的だ。
その問題が心理学的なのだ——
あなたはたんに忘れているにすぎない。
あなたはどこかに行ってしまったのではない。
あなたは眠りこけている。

禅は目覚ましの働きをする。
禅は
あなたを叩く、
ハートを叩く、
あなたを目覚めさせる。」
 
(oshoの講話より、Zen: The Path of Paradox, Vol. 3, #1より抜粋)
 
       

ボーディダルマがインドから中国へ行き、出会うべくして出会った明け渡しをした弟子がボーディダルマから言葉ではない鍵を受け取ることができたおかげで、ゴータマ・ブッダの

「自分が自分自身の光となりなさい(自分で自分を救う)そして本来の自分を思い出しなさい」

というシンプルなsammasatiサマサティの教えが生きたまま禅となり日本にも伝わりました。

人はみな光明な本来の自分(ブッダ=目覚めた人)であり、ただそれをマインドとエゴによって忘れているだけ…

思い出す=光明を得る Enlightenment

学んでいないため難しいことはわかりませんが、わたしはそれを17年間の体験によって実感でき大変助かっています。なんでもそうですが、実践のみですね(-_^)

これまでこの生きた教えをながーい年月伝え続けてくださったみなさんに感謝しています。

ありがとう(^-^)


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』

sammasatiサマサティ(正しく想起する  right remembrance)



花仙人



『A master in Zen is not simply a teacher.  In all the religions there are only teachers.  They teach you about subjects which you don't know, and they ask you to believe because there is no way to bring those experiences into objective reality.  Neither has the teacher known them - he has believed them; he transfers his belief to somebody else.  

Zen is not a believer's world.  It is not for the faithful ones; it is for those daring souls who can drop all belief, unbelief, doubt, reason, mind, and simply enter into their pure existence without boundaries.  But it brings a tremendous transformation.

Hence, let me say that while others are involved in philosophies, Zen is involved in metamorphosis, in a transformation.  It is authentic alchemy: it changes you from base metal into gold.  But its language had to be understood, not with your reasoning and intellectual mind but with your loving heart.  Or even just listening, not bothering whether it is true or not.  And a moment comes suddenly that you see it, which has been eluding you your whole life.  Suddenly, what Gautama Buddha called "eighty - four thousand doors" open.

(from osho zen tarot / transformation)


ZEN

「Osho, I cannot understand the philosophy of Zen. What should I do to understand it?」
 
『Zen is not a philosophy at all. To approach Zen as if it is a philosophy is to begin in a wrong way from the very beginning. A philosophy is something of the mind; Zen is totally beyond the mind. Zen is the process of going above the mind, far away from the mind; it is the process of transcendence, of surpassing the mind. You cannot understand it by the mind, mind has no function in it.
 
Zen is a state of no-mind, that has to be remembered. It is not Vedanta. Vedanta is a philosophy; you can understand it perfectly well. Zen is not even Buddhism; Buddhism is also a philosophy.
 
Zen is a very rare flowering – it is one of the strangest things that has happened in the history of consciousness – it is the meeting of Buddha’s experience and Lao Tzu’s experience. Buddha, after all, was part of the Indian heritage: he spoke the language of philosophy; he is perfectly clear, you can understand him. In fact, he avoided all metaphysical questions; he was very simple, clear, logical. But his experience was not of the mind. He was trying to destroy your philosophy by providing you with a negative philosophy. Just as you can take out a thorn from your foot with another thorn, Buddha’s effort was to take out the philosophy from your mind with another philosophy. Once the first thorn has been taken out, both thorns can be thrown away and you will be beyond mind.
 
But when Buddha’s teachings reached China a tremendously beautiful thing happened: a crossbreeding happened. In China, Lao Tzu has given his experience of Tao in a totally non-philosophical way, in a very absurd way, in a very illogical way. But when the Buddhist meditators, Buddhist mystics, met the Taoist mystics they immediately could understand each other heart to heart, not mind to mind. They could feel the same vibe, they could see that the same inner world had opened, they could smell the same fragrance. And they came closer, and by their coming closer, by their meetings and merging with each other, something new started growing up; that is Zen. It has both the beauty of Buddha and the beauty of Lao Tzu; it is the child of both. Such a meeting has never happened before or since.
 
Zen is neither Taoist nor Buddhist. It is both and neither. Hence the traditional Buddhists reject Zen and the traditional Taoists also reject Zen. For the traditional Buddhist it is absurd, for the traditional Taoist it is too philosophical, but to those who are really interested in meditation, Zen is an experience. It is neither absurd nor philosophical because both are terms of the mind. It is something transcendental.
 
(Osho, Walking in Zen, Sitting in Zen, Talk #16 )
 
 
To understand Zen you need not make a philosophical effort; you have to go deep into meditation. And what is meditation all about? Meditation is a jump from the mind into no-mind, from thoughts to no-thought. Mind means thinking, no-mind means pure awareness. One simply is aware. Only then will you be able to understand Zen – through experience, not through any intellectual effort.
 
(Osho, Walking in Zen, Sitting in Zen, Talk #16 )
 
 
Zen is severe. It is a very arduous path. It is not a game to play with, it is playing with fire. You will never be the same again once you enter into the world of Zen. You will be totally transformed, so much so that you will not be able to recognize yourself. The person who enters into the world of Zen and the person who comes out are two totally different entities. There is no continuity, you become discontinuous with your past. All continuity is of the mind; all identity is of the mind; all name, all form, is of the mind. When the mind is dropped you suddenly become discontinuous with the past – not only with the past, you become unconnected with time.
 
And that is the whole secret of Zen: to become unconnected with time. Then you become connected with eternity. And eternity is here-now; eternity knows no past and no future; eternity is pure present. Time knows no present – time is past and future. Ordinarily we think that time is divided into three categories: past, present and future. That is absolutely wrong. Time is divided only into two categories: past and future. The present is not part of time at all. Just watch, just see. When is the present? The moment you recognize that this is the present, it is already past. The moment you say, “Yes, this is the present,” it is already gone, it is past. Or if you say, “This is going to be the present,” it is still future. You cannot recognize present, you cannot point at present, you cannot indicate present. In the world of time there is no present.

(Osho, Dang Dang Doko Dang, Talk #1 )
 
 
Zen says: Buddhahood is not somewhere far away. You are just sitting on top of it. You are it! So there is no need to go anywhere; you just have to become a little alert about who you are. It has already happened! Nothing has to be achieved, nothing has to be practiced! Only one thing: you have to become a little more alert about who you are.
 
Zen teaches, therefore, not by words. Zen teaches, therefore, not by goals. Zen teaches by direct pointing. It hits you directly. It creates a situation, it creates a device.
 
A man came to a Zen master and asked, “I would like to become a Buddha.” And the master hit him hard.
 
The man was puzzled. He went out and asked some old disciple, “What kind of man is this? I asked such a simple question and he got so angry. He hit me hard! My cheek is still burning. Is it wrong to ask how to become a Buddha? This man seems to be very cruel and violent!”
 
And the disciple laughed. He said, “You don’t understand his compassion. It is out of his compassion that he has hit you hard. And he is old, ninety years old; just think of his hand – it will be burning more than your cheek! You are young. Think of his compassion, you fool! Go back!”
 
But the man asked, “But what is the message in it?”
 
And the disciple said. “The message is simple. If a Buddha comes and asks how to become a Buddha, what else is there to do? You can hit him and make him aware that you are it. What nonsense you are talking about!”
 
If a rosebush starts trying to become a rosebush, it will go mad. It is already the rosebush. You may have forgotten. Zen says you are in a state of slumber, you have forgotten who you are, that’s all. Nothing has to be done, just a remembrance. That’s what Nanak calls surati, Kabir calls surati – just a remembrance. You have only to remember who you are!
 
So Zen teaches not by words, not by scriptures, not by theories, but by direct pointing, by engaging us in a game in which the only answer is a new level of consciousness.
Listen to this story and you will understand how Zen creates situations. Zen is very psychological. The problem is psychological – you have simply forgotten; it is not that you have gone anywhere. You have fallen asleep. Zen functions as an alarm. It hits you, hits at the heart, makes you awake.』
 
(Osho, Zen: The Path of Paradox, Vol. 3, Talk #1)


花仙人