花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

臨死体験



人間社会は「死」と「セックス」に関しては長年避けてきました。

「生」に関しては積極的にたくさん話題となっているのですが…。

「生」は「セックス」によって生まれ、
「死」は「生」の1部であり生の終わり。

だから、「死」も「セックス」も「生」の1部であると思うのですが、なぜか「死」と「セックス」は避けているのですね。


oshoは講話でこう話します。

『死とセックスの回避ゆえに、
死とセックスの非常な無知が存在し、

その無知ゆえに、
二つのタイプの人間が現れた。

①狂ったように耽溺する者
②非常に嫌悪して逃避する者

死とセックスは、溺れるのでも、避けるのでもなく、理解されなくてはならない。』

(The tantra vision vol.2より抜粋)


「死」と「セックス」に関することで苦しんでいる人間はたくさんいるのに、その問題を解決して苦しみをなくすことよりも、その二つに関しては理解してはならないと社会は避けるようにいうのです。

この二つに関する人間の苦しみの問題を解決するためには、この二つに関してよく理解する必要があるのですね。


この二つのテーマはとても大切であり、とても一言やブログでは語りきれないものです。

oshoは講話の中で「死」や「生」や「セックス」に関して詳しく丁寧に話していますから、これまでご紹介したoshoの講話の本でもよいのですが、特に死に関する本のご紹介を今日のブログの1番最後に記しますね。セックス(タントラ)に関する本は次回ご紹介します。


今日は、きっとつまらないお話だとは思うのですがσ(^_^;)「死」つながりというのもあり、以前よりみなさんからのリクエストがたくさんあるわたしの臨死体験のお話をご紹介することにします。

このブログではわたしが30歳の時に3度心臓が止まり3度の臨死体験をしたお話をしたことがあります。

わたしが思うには、臨死体験はあくまでも臨死体験であり、「死」の体験ではないと思っています。なぜならば、「今」わたしの肉体はまだ生きているので死後のことはわからないので何とも言えないのですね(-_^)

この体験はあくまでもわたしの体験ですから、他の方の臨死体験が同じかどうかもわかりませんが、わたしの臨死体験によると、心臓が止まり意識が薄くなることは恐怖心は全くなく、その真逆で苦しみも痛みも全くない心地よい感じしかないことは3度の体験からわかったものでした。


死ぬことは恐くないんだ、
心地よいんだ、
とわかったのです。


それからは、怪我や病気は痛く苦しいので恐怖心を持ってしまうのですが、死に関しては恐怖心は全くなくなりました。


それは3度とも同じような体験でした。


まず、
心臓がものすごくゆっくりと鼓動し、止まっていくのがわかります。息はゆっくりとか細くしかできないのですが苦しくはなく、酸素が脳にまわらなくなるからか、意識が朦朧としてきます。そうなると苦しいとか痛いとかなどは麻痺した感じになり全くわからなくなり心地よくなります。頭の中が真っ白になります。


すると、
以前実家でかわいがっていたすでに他界した犬と、人の気配が全くなく植物がいっぱいな素敵な広大な野原を散歩しています。わたしはリードを持っていますが、犬がすごく強い力でわたしを引っ張り前へとどんどん歩いていくのでただただひっぱられるようについていきます。まるでわたしが道に迷わないように、植物がいっぱいはえている道なき道を、こっちよ、と道案内をするかのように。


パッと風景が野原から川岸に変わります。
川岸にたどり着くともう犬の姿は見当たりません。きっと川岸までの道案内をしてくれたのでしょう。

そこはあたり一面真っ白な光輝く空間です。見えるのはきれいに澄んだ水がさらさらと流れる川だけです。

わたしはすぐに川を対岸へと渡ります。
ひゅーと川から1メートルほど上を飛んで渡ります。なんとも気持ちいい感じでひゅーと飛んでいます。重力を全く感じなくてとっても身軽なのです。


真っ直ぐに対岸へと飛んでいるのに、360度どの角度も見たい方を見ることができるのです。でも、頭を動かして見ているのではないことがわかり、あ、わたしにはもう身体はないんだ、意識だけなんだな〜とその時にわかりました。


真っ白な光輝く空間の中、
きれいな水が流れる川の表面はその真っ白い光を反射してキラキラしています。そのなんともきれいなこと!感動でいっぱいになりました。


川の対岸まであと半分ほどという時に、飛び立った川岸の後方からわたしの名前を呼ぶ声がかすかに聞こえます。

わたしはふと後ろを振り返り、これ以上川を渡ってはいけない気持ちになりました。


すると、次の瞬間、
真っ暗闇の中を高い場所から急激にストーンと落ちるのです!

どーーーんっ!!!

すごい衝撃で落ちてしまいました。


この急速の落下と落ちた衝撃は2度と味わいたくない不快な恐怖体験です。


目を開けると看護師さんがわたしの名前を呼んでいました。


身体がとても重たく感じて重力があるんだな〜と思い、苦しく痛い身体の感覚がそこにはありました。


これがわたしの3度の臨死体験でした。


1度目と2度目の臨死体験直後は、肉体に入っていることがあまりにも辛く、なぜ川の途中で振り返り対岸まで渡り切らなかったのかを後悔して泣きましたが、

3度目の臨死体験直後は、同じく肉体の苦痛はありましたが、なぜか、前回もお話しましたが、無宗教で神さまとお釈迦さまの違いすらわからなかった無知なわたしが、

「わたしは全てによって生かされている。」

と深い感謝が身体の奥底から湧き上がり、

「わたしはこの身体も命も全て神さまにあげます。」

と発言をしたのです。
自分でもびっくりな発言でした。



その3度目の臨死体験のびっくり発言後からは、あらゆるサポートがあり、自然と内側への旅がはじまりました。

30歳から37歳までは肉体の病の癒しと同時に、臨床心理士さんによる心理カウンセリングを受け、臨床心理士さんとともに自分の内側にあるマインド(思考)とエゴ(欲)と感情に「気づき」「手放し」、自分の影との統合があり治療は完了しました。

カウンセリングの治療が終わると同時に瞑想と出会いました。瞑想も自分の内側にあるマインドとエゴと感情に「気づき」「手放す」ものでした。臨床心理士さんなしの独りでの内側の旅となりました。その37歳の瞑想の時に自分の内側深くにある「源泉」を見つけ「思い出し」ました。


「源泉」はお臍のあたりにある丹田ともよばれるもので、そこはとても心地よい空間です。 そこには永遠に枯れることのない温泉のような温かい湧き水が溢れ出ていて、おもわずその中にちゃぷんとつかってしまいました。


不思議と、臨死体験の時も心地よい至福感がありましたが、その源泉はまさしくその時の心地よい至福感と同じ体感だったのです。


わたしは4度目の臨死体験を瞑想中にしてしまったのか?と思いましたが、臨死体験の時とは違って、意識ははっきりしていて頭は冴え、目も開けて周りがちゃんと見えています。心はとても穏やかです。


臨死体験では、目が覚め意識が戻ると至福感は消え去りましたが、
源泉の体験は、目を開けて意識があっても至福感は消えずそのまま体感し続けるのでした。


37歳のその源泉を「思い出した」時から今までその感覚は消え去ることはありません。


臨死体験と源泉体験は同じ至福感ですが、意識があると至福感がなくなる、なくならないというその違いがありました。


源泉にちゃぷんとつかった37歳からさらに7年後の44歳の真冬に日向ぼっこをしていると、突然宇宙の洪水がやってきて、一雫が海に溶け込むように、自分が宇宙に溶け込む不思議な体験が起こりました。この「全ては一つ」の体験は、臨死体験と源泉体験と同じような至福感の体感があるものですが、

臨死体験と源泉体験が人間の大きさの至福感ならば、
全ては一つの至福感は宇宙全て、

というような至福感を超越した言葉では表せない感覚です。


この全ては一つの体験以後も、その至福感を超越したような体感は消え去ることはなくずーとあるのです。


はじめて二輪車をバランスよく乗りこなせたコツを得た時のように、1度それのコツを覚えると2度と忘れない…みたいな感じです。



わたしは何の宗教などの知識もなく、光明というような言葉すら知らずに、病は気からと言われるので、ただただ病の改善のためにマインド(思考)とエゴ(欲)をなくす心理カウンセリングと瞑想を14年間続け、生かされていることを感謝し続けただけですが、それは突然起こりました。

全ては一つの体験後に、調べてみて、源泉や全ては一つについてはじめて知りました。

それについて1番詳しく丁寧にピッタリな表現で話されている本がoshoのお話でした。


そして、なぜかその体験の至福感は臨死体験の時の至福感と同じ心地よいものでした。


毎日の暮らしは全くいつもと変わらず普通ですが、源泉や全ては一つを「思い出した」体験後の体感や意識は、それ以前とは全く違うものであり、苦しい偽りの自分ではなく、本来の自然のありのままの自分という感じで楽になれたのです。


こればかりは何度お話しても伝わらないものですから、体感して「思い出し」ていただくしかないのですが、同じような体験をされて、わたしが以前そうだった時のように、なにがなにやらわけがわからない人達のために、うまく説明はできていませんが、わたしの体験談を書きのこしておこうと思い書いていますσ(^_^;)詳しくお知りになりたい方はoshoの本が確かです。


わたしが体験してわかったことは、

源泉や全ては一つの感覚は人間はみないつも体感して知っているものだけれど、エゴ(欲)がありそれを満たしたいがためにマインド(思考)が働き過ぎているために「忘れて」いるだけなんだ。

だから、誰でもマインド(思考)とエゴ(欲)が自分の内側からなくなり、感謝の愛の気持ちで100%になれれば、一瞬でふっと「思い出せる」ものなんだ!

でした。


そしてoshoも同じことを講話の中で何度もそうお話をしています。

oshoだけでなく、全ての導師たちの全努力は、1人1人が自分の内側にあるhomeである「源泉」を「思い出し」、「全ては一つ」であることを「思い出す」ことにあると。

なぜならば、それにより1人1人が真に苦しみから解放されるからだ、と。



「源泉」と「全ては一つ」の両方を「思い出す」と、常に自分の内側の源泉から溢れ出るエネルギーで満たされ満腹のような感覚になります。

そのエネルギー(愛)はもうせき止めておくことはできずに、ただただ内側から外側に溢れ出てしまいます。

本当に花の香りのように、ただただ溢れ出てしまうのです。

せき止めておこうとすると、絶対に無理ですから苦しくなります。お腹がいっぱいになり破裂しそうになり苦しくなります。


お腹がいっぱいな時に、大好物なものを差し出されてももう食べるすき間もない場合は、いくら大好物なものでももう食べることはできなくなります。

ただ差し出された好意に感謝するだけになるような。


そんな感じで、愛も全く入るすき間さえなくなるので、愛を差し出されても、その好意には感謝しますが、その愛を入れることはできなくなります。


それは、愛して欲しい、という欲(エゴ)が全くなくなる、ということです。


愛して欲しいという欲(エゴ)があることにより、自分の内側を愛で満たして欲しくて、人間は他者を利用してぽっかりあいた穴を埋めてもらおうとして愛を奪おうとします。

お腹が空いているから、食べものを食べて満たそうとするのと同じことです。


でも、愛とは、常に自分の源泉から湧き出ていて、枯れてはいないのです。

ただ、愛に飢えているようなマインド(思考)が働くため、愛が欲しいというエゴ(欲)が生まれてしまい、自分の源泉で常に満たされていることを「忘れて」、他者からの愛を奪おうと働きかけます。


自分の内側にあるお臍のあたりにある「源泉」と「全ては一つ」の体感を「思い出す」と、常に満たされいて満腹状態であることを「思い出す」ため、愛が欲しいという欲(エゴ)がピタッとなくなってしまいます。


ただただ自分の源泉から愛のエネルギーが溢れ出て満たされ続けていることを「思い出し」ます。


あー!忘れてたー!これが普通だった!
と絶対に思うと思いますσ(^_^;)


ですから、愛の奪いあいのマインドゲームは本来の自然な状態を「思い出した」瞬間からピタッと終了してしまうのですね。


愛して欲しい(エゴ)ではなく、
180度真逆の
愛が溢れ出す愛だけになってしまいます。


それは愛したいというものでもありません。

ただただエネルギー(愛)が溢れ出続けるだけなのです。

花の香りがただただ周りに漂うような。


人間の間で、愛の奪いあいのマインドゲームがなくなり、愛をただ溢れさせる与えるだけになると、争いは必然的になくなるのです。


愛に飢える苦しみも全くなくなるのです。


至福感で満たされていると、
他者からの愛を欲しいとは全く思えなくなりますから。


自分の内側の「源泉」を「思い出し」、「全ては一つ」を「思い出す」ことは、至福感で常に満たされ続けている本来の状態を『体感』して「思い出す」ことなんですね。


もう、愛を奪いあう苦しみのゲームには参加できない状態に自然となります。

愛が欲しいという気持ちが全くなくなるから。

結果、誰とも争わず、自然と調和的になり、心は平和になります。


それは、マインド(思考)で作り上げた偽善者ではなく、真にせき止めることができない溢れ出る愛をただ自然に与え続けるだけになります。


愛を奪いあうような、そして自分に繋ぎとめておくようなセックスはなくなります。

ただ愛を与えるだけのセックスになります。

セックスによる問題もなくなります。


源泉と全ては一つを体感すると、生と死ははじめからなかったことがわかりますから、生と死に関する疑問や問題もなくなってしまいます。


マインド(思考)とエゴ(欲)のない状態の本来の自然な状態を「思い出す」だけで、あらゆる苦しみの問題は自然となくなるため解決していきます。


「生」も「死」も「セックス」も、自然な当たり前のものですが、人間のマインドとエゴによって飢えが生まれ苦しみを自ら生み出しているだけです。

マインドゲームにより苦しんでいるだけです。

マインドゲームをやめれば苦しみはなくなります。

実にシンプルです(^-^)

難しい…と感じるのは、エゴ(欲)を手放せないことだけです。

なぜ、自分はそのエゴ(欲)を手放せないのか?

なぜ愛に飢えているというマインドが働くのか?

自分の内側をみて、

それに「気づく」時、エゴは自然と消え去ります。

苦しみとさよならです。


まったくうまく説明できていなくて申し訳ないσ(^_^;)

体験したことをそのまま話すとこうなったσ(^_^;)

詳しくはoshoの講話の本を読んでみてください(^-^)



人間はみな源泉を内側に持っているから、常に満たされ続けています。

それをただ「忘れて」いるだけです。

本来の自然な状態を「思い出す」だけで、

愛の飢えの苦しみから永遠に解放されます。

人間関係の問題の苦しみから自分を楽にできます。



「思い出す」

正しく想起する、

sammasatiサマサティ(right remembrance)


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


oshoは本来の自分を『思い出す』ためには、瞑想と愛の二つが大切だと話します。

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『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』



花仙人



本のご紹介です( ´ ▽ ` )ノ

死に関するoshoの講話をまとめられたものです。
たくさんある講話の中からとても丁寧に探して集められたものだな〜と大変なご苦労であったであろうことと、たくさんの翻訳にoshoとoshoのお弟子さんに、ただただ感謝しかありません(^-^)ありがとうございます。

「死について41の答え」
生死 The art of living and dying

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