花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

タントラ 『魂の恋愛』

タントラ 『魂の恋愛』


「サラハの王の歌」の一つの詩


気高き文殊師利に礼拝す
限りあるものに勝利せし者に礼拝す

おだやかな水   風にあおられ
波やうねりに変わるよう
王はあまたの思いあつむ
ひとりなる   サラハの身に

目を細め見る愚か者
ひとつの灯りを二つに見る
見る者と見られしもの   二つならざるとき
ああ!      心は両者の本源におよぶ

家の灯りはともるとも
盲は闇に生きつづく
内にいだきし近き自然も
迷う者にはつねにはるか

あまたの川も   いたる海はひとつ
あまたの偽りも   うち勝つ真理はひとつ
ひとつなる太陽の昇るとき
いかなる深き闇も去りゆく


oshoは『サラハの歌』は大いなる美をたたえている、それはタントラの基盤そのものだ。と話しています。


さて、今日は長文となりますが男女の恋愛で苦しみ続ける人達にとって、とても大切なことだと思いますからアップします(^-^)。

タントラの導師の1人であるサラハが1人の光明を得た矢作の女性と出会い、この地上ではまれにしか起こらない「魂の恋愛」をした男女のお話のカードの絵とoshoが講話でお話してくれた1部をご紹介します。


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


学識のある人は、生命力のあふれている人のところに行かなければなりません。

人工のものは、〈真実なるもの〉のところに行かなければなりません。
(これはカードの解説です。)

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以下はoshoの講話の1部です。


ボーディダルマがまさに禅の祖師であるように、サラハ(Saraha)はタントラ(Tantra)の祖師となった。

ボーディダルマもサラハもゴータマ・ブッダの系統の弟子だ。サラハはゴータマ・ブッダよりおよそ2世紀後に生まれた。彼は枝分かれした一方の枝の直系だった。

一つの枝は、ゴータマ・ブッダからマハーカーシャパへ、マハーカーシャパからボーディダルマへと伝わり、禅が誕生した。

もう一つの枝は、ゴータマ・ブッダから彼の息子であるラーフラバドラ、ラーフラバドラからシュリーキールティ、シュリーキールティからサラハ、サラハからナーガールジュナへと伝わっていった。これがタントラの枝だ。


この『サラハの歌』は大いなる美をたたえている。それはタントラの基盤そのものだ。
あなたはまず、生にたいするタントラの姿勢、タントラの生のヴィジョンを理解しなければならない。


タントラに関するもっとも基本的なこととは、こういうことだ。

それはきわめて急進的、革命的、反逆的でもある…。
その基本的なヴィジョンとは…


世界は低いものと高いものとに分けられていないということ、一つのものだということだ。

高いものと低いものは手をつないでいる。

高次のものは低次のものを内にいだき、
低次のものは高次のものを内にたずさえている。

高いものは低いものの中に隠れているのだ。

だから、低いものを否定したり、非難したり、破壊したり、殺したりしてはならない。

低いものは変容されるべきものなのだ。
低いものは上方へと向かうことをゆるされなくてはならない。
すると低次のものは高次のものになる。

悪魔と神のあいだには、橋渡しできないような断絶などない。悪魔はそのハートの奥深くに神をいだいている。ひとたびハートがはたらきはじめると、悪魔は神になる。

それゆえ「悪魔 devil」という言葉の語源そのものが「神 devine」と同じものを意味しているのだ。devilという言葉はdevineから生じた。それはいまだ進化していない神であり、それだけのことだ。悪魔は神へと向かう途上にある。それは敵ではなく、種子なのだ。神は満開に花を咲かせている木であり、悪魔は種子だ。種子がなければ木は存在することができない。両者は深い親密な関係にある。

毒と甘露は同じエネルギーの二つの相だ。
あらゆるものがそうなのだ。
生と死も同じ…。
昼と夜、
愛と憎しみ、
セックスと超意識…。

タントラはけっしてなにものも非難してはならないと言う。なにかを非難することで、低いものを進化させていたなら手に入っていたであろう可能性を、あなたは断ち切っている。

泥を非難してはならない。

泥のなかには蓮の花が隠されているからだ。
蓮の花を生みだすために泥を使いなさい。
もちろん泥はまだ蓮の花ではないが、その可能性を秘めている。


サラハはタントラ・ヴィジョンの祖師だ。
それはとほうもなく重要だ。
人類の歴史の上でも、とりわけ現在という時点においては…。
なぜなら、新しい人間が生まれ出ようと奮闘し、新たな意識が扉をたたいているからだ。

そして来たるべき世界はタントラのものになるだろう。

というのも、もはや二元的な姿勢が人の心をとらえることはできないからだ。


そうしたものは何世紀にもわたってこころみられ、人間を不具にし、やましさを感じさせてきた。そして人間を自由にすることなく、囚人にしてしまった。

また、人間を幸せにすることもなく、とても不幸にしてしまった。そういったものは全てを非難する。

食べ物からセックスまで全てを非難する。
人との関わり合いから友情までなんでも非難する。
愛は非難され、
体は非難され、
心は非難される。

あなたが立つところは1インチも残されていない。

すべては奪い去られ、人間は宙づりになっている。ただぶら下がっているだけだ。

こうした人間の状況をこれ以上見過ごすことはできない。タントラはあなたに新しい展望をもたらすことができる。それゆえ私はサラハを選んだ。


サラハは私がもっとも愛している人の1人だ。サラハは人類にとってもっとも偉大な恩人の1人だ。かりに私が、人類の恩人を10人ほど指折り数えるとしたら、サラハはそのうちの1人になる。5人を数えるとしても、サラハを落とすわけにはいかない。


『サラハの歌』に入ってゆく前に、サラハの生涯についていくらか話しておこう。

サラハはヴィダルバに生まれた。ヴィダルバはマハーラーシュトラ州にある。プーナのすぐ近くだ。

マハーパーラ王の宮廷の、たいそう学識のあるバラモンの息子だった。とても聡明でその名声はやがて国中に広まり、王も彼のすばらしい知性に魅了されていたほどだった。

王はサラハに自分の娘を与えたいと思っていた。だが、サラハはすべてを放棄し、シュリーキールティの弟子となりサニヤシン(探究者)となった。


サラハがシュリーキールティをたずねたとき、シュリーキールティは最初にこう言った。

「『ヴェーダ』のすべて、学んだことのすべて、そのたわごとのすべてを忘れなさい。」

それはサラハにはむずかしいことだった。
だが彼はなんでもする用意ができていた。
サラハは学んだことすべてを落とし、ふたたび無学になった。

これはもっとも偉大な放棄の一つだ。ふたたび無知になるには大きな痛みがともなう。ふたたび無知になり、ふたたび子供のように無垢になることは、存在しうるもっとも偉大な苦行だ。だが彼には用意ができていた。

数年が過ぎ去り、サラハは学んできたことすべてをぬぐい去った。彼は偉大な瞑想者になった。




ある日、サラハは瞑想しているうちに、不意にヴィジョンを見た。そのヴィジョンとは、彼の真の師となる女性が街のにぎわいの中にいるというものだった。

シュリーキールティはサラハを道の上に押しやったにすぎない。だが真の教えは女性からくることになる。

さあ、これも理解すべきことだ。
けっして男性優位主義でなかったのはタントラだけだ。
実際、タントラに入ってゆくためには、知恵のある女性の協力を必要とする。
知恵ある女性がいなければ、タントラという複雑な世界に入ってゆくことはできない。


サラハはある女性が市場にいるヴィジョンを見た。

だから、まず第一に女性だ。
そして、第二に市場…。

タントラは市場で、生のまっただなかで力強く成長する。

それは否定の姿勢ではなく、完全なる肯定性だ。

サラハは立ち上がった。

シュリーキールティはたずねた、

「どこに行くつもりだね?」

するとサラハは言った。

「あなたは道を示してくださいました。私の学んだことをぬぐい去ってくださいました。あなたは仕事の半分をしてくれたのです。私の石板の汚れを落としてくれたのです。いまや私は、残りの半分をする用意ができています。」

笑顔を浮かべたシュリーキールティの祝福を受け、サラハは立ち去った。


サラハは市場へと向かった。
そして驚いた。
本当にヴィジョンの中で見た女性を見つけたのだ。
その女性は矢を作っていた。矢作の女だった。

矢作の女は低いカーストの女性だ。

サラハのような王の法廷に属していた学識あるブラーミンにとって、矢作の女のところに行くのは象徴的だ。

学識のある者は、生気あふれる者のところに行かなければならない。

作り物は本物のもとに行かなければならない。

タントラは言う。本物の人間を見つけるためには、根元へと向かわなければならない。

人工のものは、〈真実なるもの〉のところ に行かなければならない。


サラハはこの女性を見つめた。若い女性で、とても生き生きとし、生命力で光輝いている。矢柄を削り、右も左も見ることなく、矢を作ることに全身全霊で没頭している。

サラハはすぐに、彼女の現前になにか特別なものを、出会ったこともないものを感じた。

彼の師であるシュリーキールティでさえ、この女性の前では影が薄くなる。

まったくみずみずしいなにか、
まさに源泉からのなにか…。

サラハは注意深く見つめた。

矢が出来上がり、その女性は片方の目を閉じて、もう片方の目を開けながら、目には見えない的にねらいを定める動作をした。

サラハはメッセージを感じはじめていた。この動作は象徴的だと感じたが、まだまったくおぼろげで、あいまいだった。なにかを感じることはできたが、それがなんであるかは理解できなかった。

そこでサラハは、その女性に矢作を生業としているのかとたずねた。するとその女性は大きな声で笑った。野生的な笑い。そして彼女は言った。

「愚かなバラモン!あなたは『ヴェーダ』を捨てたのに、いまはゴータマ・ブッダの言葉『ダンマパダ』を崇めている。

それでどうなるの?

あなたは本を取り替えて、哲学を取り替えた。

でも、あなたは相変わらず同じ愚か者だわ。」

サラハはショックを受けた。
彼にそんなふうに言った人はいなかった。

教養を詰め込まれていない女性にしかそんなふうには言えない。

だがそれでも、なにかがとても生き生きとしていた。そしてサラハは魅きつけられるのを感じていた。彼女は大きな磁石であり、彼は鉄のかけらでしかなかった。

彼女はまた笑って言った。

「ゴータマ・ブッダの真意は行為をとおしてしかわからない。言葉や本ではなくてね。

あなた、もう充分じゃない?

まだこんなものにうんざりしてないの?

役にもたたない探求で、これ以上時間をむだにしてはだめよ。私といっしょにおいで!」


そしてなにかが、コミュニオン(交感)のようなものが起こった。以前のサラハには感じたことがない感覚だった。

その瞬間に、彼女がやっていたことのスピリチュアル(霊的)な意味がサラハに明らかになった。

左も、右も見ることなく、ただ真ん中を見た…。

はじめて彼は、中道にあるということ--両極の軸から逃れること--でゴータマ・ブッダがなにを意味しているのかを理解した。


はじめは哲学者、いまは反哲学者、一つの極端から別の極端に移っていた。

はじめはあることを崇めていたが、いまはちょうど反対のものを崇めていた。

だが、崇めることは続いている。

左から右へ、右から左へと移動することはできるが、それでは助けにならない。

あなたは左から右、右から左へと動く振り子のようになってしまう。

振り子が右に向かっているときには、
左に向かう勢いをたくわえている。

左に向かっているときには、
また右に向かう勢いをたくわえている。

そうして時計は続いていく。
世界は続いていく。

真ん中にいることは、
振り子が右でも左でもなく、
ただ真ん中にぶら下がっているということだ。

そのとき時計は止まり、
世界は止まる。

時間はもう存在しない。
無時間の状態。


彼は師から何度もその話を聞いていた。それについて読んだことがあった。思いをめぐらし、黙想したことはあった。真ん中にあることが正しいのだということを、他人と議論したこともあった。

真ん中に在ることが正しい、と、

サラハはそれをはじめて実際に目にした。

それが本当にそこにあった。

その女性は、
左も、右も見ることなく、ただ真ん中を見た…。

真ん中に焦点を合わせていた。

本や知識からではなく、行うことでしか本当に学ぶことはできないことを、サラハは知った。


真ん中とは、超越が起こるところだ。

それについて思い、黙想し、生のなかで見つめてごらん。


ゴータマ・ブッダはこのように言う。

お金に賛成することはお金にとりつかれていることであり、
お金に反対することもお金にとりつかれていることだ。

ちょうど真ん中にあることが知恵というものだ。


彼女はあまりにも完全に没頭していた。
あまりにも全面的に行為のなかにいた。

それで彼女はとても光輝いて見えた。
とても美しく見えた。

彼女はふつうの女性だが、
その美はこの世のものでなかった。
その美は全面的な投入によるものだった。

その美は彼女が両極のどちらかに偏る極端主義者でないことからきていた。

その美は真ん中にいること、
バランスがとれていることによるものだった。
優美さはバランスから生まれる。


サラハは肉体的に美しいだけでなく、
霊性の美しさをもった女性にであった。

自然にサラハは明け渡した。
サレンダー(明け渡し)が起こった。



全面的に投入し、彼女のしているすべてのことにわれを忘れ、サラハははじめて理解した。これが瞑想なのだと…。

瞑想とは、
特別な時間に坐ってマントラを繰り返すことでもなく、教会や寺院やモスクに出かけることでもない。

それは生の中にあること、
あたりまえのものごとをやり続けることだ、

だが、あらゆる行為において深淵なるものが啓示されるほどの投入をもって…!

これまでも熱心に瞑想を努力していたが、はじめてサラハは瞑想とはなにかを理解した。



瞑想をはじめて理解し、さらにサラハは仏教の象徴(シンボル)である、片目を閉じてもう片方を開けるのは象徴であることを思い出した。

ゴータマ・ブッダは言う…。

心の半分は論理的に判断し、
もう半分は直観するものだという。

左脳は理性、論理、論証的な思考、分析、哲学、神学--言葉につぐ言葉、論証や三段論法や推論--の機能をもっている。

右脳は直観的、詩的だ。インスピレーション、ヴィジョン、直截的(アプリオリ)な意識、直截てきな認識。論証するのではなく、ただ知るにいたる。推論するのではなく、ただわかってしまう。それが「直截的な認識」という意味だ。それはただある。


真理は右側の心によって知られ、
左側の心によって推論される。


推論は推論でしかない。
それは体験にならない。


サラハは突然、その女性が片目を閉じていることを了解した。
彼女の理性、論理の目を閉じる象徴となるよう、片目を閉じていた。
そして愛、直観、気づきの象徴となる、もう一方の目を開けていた。


片目を閉じてねらいが定められているのは、未知なるもの、目にみえないもの、知ることのできないもの、1なるものだ。それが的だ。

どのようにして「存在」と1つになるのか?

不二がその的だ。

それは主体と客観が消え去るところ、
我と汝が消え去るところだ。


交感(コミュニオン)は、

我と汝の分割がなくなり、
主体と客観が消え去ったとき、
我も汝もないとき、
探求者も探求されるものもないとき、

統一、調和のある時、

はじめて起こる。


サラハはこのことを悟り、
この女性の行為を見つめて真理が了解されたとき、
その女性は彼を「サラハ」と呼んだ。

彼の名前はラーフラだったが、その女性は彼をサラハと呼んだ。

「サラハ」とは美しい言葉だ。「サラハ」とは「矢を射し者」という意味だ、

彼が女性の行為、その象徴的なしぐさの意味を悟り、その女性が与えようとしたもの、示そうとしたものを読みとって解き明かした時、彼女はとほうもなくうれしそうだった。彼女は踊りあがって彼を「サラハ」と呼び、そしてこう言った。

「さあ、今日からあなたはサラハと呼ばれることになるでしょう。あなたは矢を射たわ。私の行為の意味を理解して、あなたは射ぬいたのよ。」

サラハは彼女に言った。

「あなたはどこにでもいるような矢作の女ではありませんでした。ただの矢作の女だと思ったことをおわびします。私をゆるしてください。心からおわびします。あなたは偉大な師であり、私はあなたによって生まれ変わりました。昨日までの私は本物のバラモンではありませんでした。今日からはそうです。あなたは私の師であり、母であり、新たな誕生を与えてくれたのです。私はもう同じではありません。だからあなたは正しい。あなたは私の古い名前を落とし、新しい名前を授けてくれました。」

過去にたいする愛着をいっさい持たないため、きっぱりとした断絶が必要だ。あなたは過去と不連続にならなくてはならない。

ラーフラはサラハになった。


言い伝えによると、その女性は隠れた覚者にほかならなかった。彼女の名は、スクナータという。

スクナータという覚者の女性は、サラハという大いなる可能性を秘めた人を助けるためにやってきた。

なぜ男の覚者ではなく、女な覚者がサラハの目の前にあらわれたのだろう?

それはタントラでは、ちょうど人が女性から誕生するしかないように、弟子の新たな誕生も女性からくるものだと信じられているからだ。

実際、すべての導師(master)は父親というよりも母親に近い。彼らには女性的な質がある。ゴータマ・ブッダもマハーヴィーラもクリシュナもそうだ。女性的な優美さ、女性的な円満さを目にすることができる。その目の中をのぞきこんでも、男性的な攻撃性は見つからない。

誕生するものはすべて女性エネルギーから生まれる。男性エネルギーはきっかけとなることはできるが、誕生を与えることはできない。

導師はあなたを、何ヶ月も、何年も、ときには何生にもわたって、その子宮のなかで守り育てなければならない。あなたがいつ生まれる用意がととのうか、けっしてわからない。

導師は母にならなければならない。
導師はあなたに愛を降り注げるように、とほうもない女性エネルギーをたたえていなければならない。

その愛の信頼がなければ、あなたは偽りの自分を破壊することをゆるさないだろう。その信頼をとおして、あなたはやがて偽りの自分を少しづつ切り取ってゆき、ある日突然偽りのあなたは消え去る。新たなるものが誕生する。


矢作の女性はサラハを受け容れた。

実は、彼女は待っていたのだ。

導師は弟子を待っている。

古来の伝統では「弟子が導師を選ぶ前に、導師が弟子を選んでいる」という。

スクナータは女性の姿をとり、サラハがやってきてみずからを通じて変容するのを待ち、身を隠していたのだ。


導師は知っている。
あなたの存在の可能性そのもの、潜在性そのものを見ぬくことができる。

導師はあなたの未来を見ることができる。起こりうることを見ることができる。

あなたはまだ覚醒しておらず眠っている状態なのに、なぜその人が自分の導師であるとわかるのか?

あなたが導師のことを感じはじめるとしたら、それは彼があなたのハートにすでに入りこみ、あなたのエネルギーと戯れているということだ。あなたが導師を感じはじめるのは、そのためだ。

弟子が導師を選ばないうちから、
導師はすでに弟子を選んでいる。


スクナータはサラハを受け容れた。
彼女はサラハが来るのを待っていた。

2人は火葬場に移り、一緒に暮らしはじめた。

なぜ火葬場なのか?

ゴータマ・ブッダは言う、

「死を理解しなければ、生を理解することはできない。死なないかぎり生まれ変わることはない。」

サラハ以来、多くのタントラの弟子たちが火葬場に住むようになった。サラハが創始者だ。


サラハとスクナータのあいだには大いなる愛が存在した。男と女な愛ではなく、導師と弟子の愛だ。

どのような男女の愛が達しうるよりもまちがいなく高く、より親密なもの、まちがいなくより親密なものだ。

なぜなら、男女の恋愛は肉体のものにすぎないからだ。

せいぜいのところ、それはときおり心までとどくくらいのものだ。さもなければ肉体的なものにとどまっている。


弟子と導師--それは魂の恋愛だ。


サラハはソウルメイトを見いだした。
彼らは、この地上ではまれにしか起こらないとほうもない愛、大いなる愛のなかにいた。


スクナータはサラハにタントラを教えた。
女性だけがタントラを教えることができる。

女性だけがタントラのグループリーダーになれる。それは男性にはむずかしい。

そう、ときには男にも可能だが、その場合、彼はとても女性的でなければならない。

女性はすでにそうだ。
女性にはすでにそうした質が、愛に満ちた、愛情深い質がある。女性は生まれつきそうした心づかいを、愛を、思いやりのある感性をもっている。


サラハはこの矢作の女性の導きのもと、タントリカになった。

彼はもう瞑想してはいなかった。
あるとき彼はすべてのヴェーダ、教典、知識を捨てた。
今度は瞑想さえも捨ててしまった。

歌って踊った。

歌が彼の瞑想だった。
ダンスが彼の瞑想だった。

いまや祝祭(セレブレーション)が彼のライフスタイルのすべてになっていた。


火葬場に住んでお祝いしている!
ただ死だけが起こるところで暮らし、喜びにあふれて生きている!
これこそタントラの美しさだ。

それは反対のもの、相反するもの、矛盾するものを1つに結びつける。

火葬場に行けば、あなたは悲しく感じるだろう。喜びにあふれていることは、あなたにはむずかしい。

だが、そこで楽しめないとしたら、あなたが考えている喜びなどみんな見せかけだ。

そこで楽しめるなら、喜びが本当に起こっている。

もう死が起ころうと生が起ころうと、誰かが生まれようと死んでゆこうと、なんのちがいもない。

サラハは歌やダンスをはじめた。

彼はもう深刻ではなかった。
タントラはそうではない。

タントラは遊びに満ちたものだ。

そう、それは真撃ではあるが、深刻ではない。

それはとても喜びにあふれたものだ。

戯れがサラハの存在に入ってきた。

タントラは戯れだ。

なぜなら、タントラは愛が高次に進化した姿だからだ。

愛は戯れだ。



戯れがサラハの中に入ってきた。
愛する者はつねに遊びの精神がある。
遊びの精神が死ぬと、あなたたちは夫や妻になる。
そうなるともう恋人たちではない。
なにか美しいものが死んでしまう。
もう生き生きとしていない。

ただの見せかけ、偽善になる。


サラハの歓喜(エクスタシー)の波動(ヴァイブレーション)、現前そのものがあまりにも力強かったため、伝染性があった。人々はサラハの歌や踊りを見にくるようになり、参加する用意があるものは、高みに触れるということが起こっていた。


あなたが変容をとげるとき、
そのふるまいも変容をとげる。


その逆は真ではない。


最初にふるまいを変えると、
あなたが変わるというのではない。

そうではない。

最初にあなたが変容をとげると、
ふるまいは自動的に、ひとりでに変わる。


タントラは、行為やふるまいや人格ではなく、存在に信をおく。


行いを直接変えることができた人がいるだろうか?そのふりをすることができるだけだ。

あなたという存在が変容をとげると、
あなたの行いも変容する。


あなたの存在が変容すれば、
一瞬にして天国にたいする用意がととのう。

あなたが天国に行くのではなく、
天国があなたに降臨する。


あなたの存在が変容しなければ、
あなたはさらにいっそう偽りになってゆく。


あなたという存在と、
偽りの人格という、
2人の自分が、自分の内側にあると、精神分裂する。そのようなばらばらな状態では、不安や苦しみは当然だ。
それこそが地獄だ。


自分の内側には2人はいらない。
1人という全一(トータル)なとき、
あなたは真に自由になる。真に至福だ。


サラハの歌を聞いたものたちは自由を得た。

娘をサラハに与えようとしていた王でさえ、火葬場にやってきてサラハの歌を聞いて自由を得た。

『サラハの歌』は、深く瞑想されるべきものだ。

私はこれら40の詩が、ひとつひとつの詩があなたのハートのなかの開花となり、あなたの存在のなかで40の花になることをのぞんでいる。

王の存在のなかでそうなったように。

王は自由を得た。

あなたもそうなれる。

サラハは的を射ぬいた。

あなたもまた的を射ぬくことができる。

あなたもサラハになれる。矢を射し者に…。



from osho talks
oshoの講話より
THE TANTRA VISION, Vol.1


from osho transformation tarot
osho transformation tarotより


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


生も死もセックスも恐れたり溺れたり嫌悪するものではないことをサラハはその真理を行いを通して知りました。

それは、
形だけ坐って瞑想することや、
本など言葉による知識では理解することができないものでした。


真に理解するためには、行いをとおすことが必要であることをサラハは光明を得ている女性スクナータを実際に見て感じて気づきました。


陰陽のネガティブでもポジティブでもない、その真ん中の中庸であるとき、

振り子が左右に動くことがなくなり、真ん中で動きが止まったとき、

はじめて「意識」は高次へと昇っていくことができます。

それは低次の肉体の愛から、
高次の慈悲の愛へと昇って高めることが可能になるのです。

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肉体の愛セックスにただ落ちて溺れるだけか、
肉体の愛セックスから上に昇り高次の愛を知るか、

それは個人の選択の自由ですが、
タントラは肉体の愛セックスを嫌悪したり溺れるだけではなく、そこから高次の愛へと昇れることを伝えています。


「生」は「セックス」によって生まれ、
「死」は「生」の1部であり生の終わり。


oshoは講話でこう話します。

『死とセックスの回避ゆえに、
死とセックスの非常な無知が存在し、

その無知ゆえに、
二つのタイプの人間が現れた。

①狂ったように耽溺する者
②非常に嫌悪して逃避する者

死とセックスは、溺れるのでも、避けるのでもなく、理解されなくてはならない。』

(The tantra vision vol.2より抜粋)


正しく想起する、

sammasatiサマサティ(right remembrance)


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』



花仙人



この講話を翻訳された本があります。サラハの歌をoshoは講話のなかでとてもわかりやすくお話しています。弟子たちからの恋人や夫婦の問題などにも丁寧に答えています。

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英語のダウンロードPDFはこちらです。


花仙人