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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

苦しみから真の愛へ

osho タロット 本 book サマサティ
苦しみから真の愛へ


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マインド(思考)の愛は、
「憎しみ」と「愛」という二極の間を動く。

マインド(思考)には必ず二元性がつきまとう。

もし誰かをマインド(思考)で愛していたら、他方の極は避けられない。

隠すことならできる。
抑圧することならできる。
忘れることならできる。

いわゆる文明人たちはそうしている。

だがそうすると、
人は鈍重になる、死んだようになる。


もし恋人と争うことができなかったら、
もし恋人と怒ることができなかったら、

その愛は真生なものではなくなる。


もしその怒りを抑圧したら、
その抑圧された怒りはあなたの1部となる。
その抑圧された怒りのせいで、
愛の中でも、
あなたは全面的にゆだねること(let go)ができない。

怒りはつねにそこにある。

あなたは怒りを抱えている。
あなたは怒りを抑圧している。


もし私が怒っていて、それを抑圧したら、
たとえ私が愛しているときでも、
その怒りはそこにある。
それによって私の愛は死んでしまう。

もし私の怒りの中で真正でなかったら、
愛の中でも真正ではありえない。

真正な人間は、どちらの場合でも真正だ。

もしその一方で真正でなかったら、
もう一方も真正ではありえない。



世のいわゆる道徳というもの、
そして文化、文明といったものは、
愛を完全に死んだものにしてしまった。

しかもそれは愛の名において起こってきた。

つまりこうだ。

もし誰かを愛したら、怒ってはいけない。
もし怒るようなら、その愛は偽りだ。
愛があるときには争ってはいけない。
愛があるときには憎んではいけない。

もちろんそれは、一見論理的だ。
もし愛していたら、どうして憎むことができるだろう。

だから我々は憎しみの部分を切り落とす。
だが、
憎しみの部分が切られると、
愛もまた不能になる。

それはちょうど人間の片脚を切り落としておいて
「さあ進め!今、あなたは走れる。自由に走れる」
と言うようなものだ。

だが、片脚が切り落とされていては、進むことができない。


マインド(思考)の愛では、
憎しみと愛とは、ひとつの現象の二極だ。
一つのコインの裏と表だ。

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もし憎しみを切れば、愛は死んで、不能になる。

だからこそ、どの家庭もみな不能になっているのだ。

またそうなるとゆだねることが恐くなる。

愛していても、完全にゆだねることができない。恐いからだ。

もし完全にゆだねたら、
隠し抑圧してきた怒りが、暴力が、憎しみが、顕れてくるかもしれない。

そこで絶えず、それを抑えつける必要がある。

奥底で絶えずそれと戦う必要がある。

戦っていたら自然になれないし、
自在無碍になれない。

あなたはただ「愛しているふり」をする。

そのように装う。

そしてあなたが装っていることは、
みんなが知っている。

妻が知っている。
夫が知っている。
子供たちが知っている。
友達が知っている。

誰もが装っている。

そして生全体が偽りになる。


これがマインド(思考)の愛だ。

マインド(思考)の愛は、
「憎しみ」と「愛」という二極の間を動く。




マインド(思考)を超える愛がある。

マインド(思考)を超えるためには、必要なことが2つある。


○瞑想の中に入ること。

○自分の中のノーマインドの境地に触れること。


すると、
対極のない愛が現れる。

その愛には「興奮」も「情熱」もない。

その愛は静かなものだ。

さざ波ひとつない深い平安だ。

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(水平軸が二元性の対極のある愛。
垂直軸が対極のない愛。

振り子が止まりマインドの両極の真ん中(中庸)に止まるとき、
ノーマインドになる、
すると対極のない愛が現れる。
それは沈黙の静かな至福の愛。

超えた愛とはノーマインドの時にしか現れない、開花しないということ。)


ゴータマ・ブッダやイエスのような人間もまた愛する。

だがその愛には「興奮」も「熱狂」もない。

その熱狂は対極からやってくる。
その興奮は対極からやってくる。

二つの対極が『緊張』を生む。

彼らの愛は静かな現象だ。

ノーマインドの境地に到達した人だけが、
その愛を理解する。


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イエスが道を歩いていた。暑い昼間のことだった。彼は疲れていた。そこで一本の木の下で休んだ。その木が誰のものかイエスは知らなかった。それはマグダラのマリアのものだった。マグダラのマリアは娼婦だった。

マリアは窓からこの非常に美しい男を見た。
この世に生を享けた者の中でももっとも美しいひとりだった。彼女はひきつけられた。ひきつけられただけではなく、情熱を感じた。彼女は外に出てイエスに語りかけた、

「私の家にいらっしゃい。なぜこんなところに休んでいるんです。さあ、お入りなさい。」

イエスは、彼女の目に情熱を、愛を、いわゆる愛を見た。

イエスは言った、

「今度ここを通りかかって、また疲れを感じたら、あなたの家へ行きましょう。でももう疲れは充分癒された。もう動けるようになった。どうもありがとう。」

マリアは侮辱を感じた。
彼女はそれまで誰ひとり招いたことがなかった。人々は、はるばる遠方から、彼女をただひと目見るためにやって来た。王たちでさえ彼女のもとへとやって来た。

それなのに、この乞食は彼女を拒もうというのだ。

イエスはただの乞食、流れ者だった。

それが今、彼女を拒もうという。
そこでマリアは言った、

「私の愛がわからかいのですか。
これは愛のいざないです。
さあいらっしゃい!
私を拒んではいけません。
あなたのハートには愛というものがないのですか。」

イエスは答えて言った、

「私もまたあなたを愛しています。
ところが、
愛を装ってあなたのもとへやって来る者たちは、誰もあなたを愛していません。
あなたを愛せるのは私だけです。」


それはイエスの言うとおりだった。

だからその愛は『質』が違っている。

その愛には対極がない。
その愛には対象物がない。

だから、
緊張に欠けている。
興奮に欠けている。

彼は愛に興奮していない。
彼は愛に熱狂していない。

彼にとって、
愛とは関係性ではない。

愛とは存在の状態だ。


これがマインド(思考)を超えた愛だ。
ノーマインドの愛だ。

中庸の沈黙の音の至福の愛だ。


マインド(思考)を超え、
ノーマインドの境地に到達すると、
愛は花咲く。

その愛には反対物がない。

もはや対極性は消え去る。

『全ては一つ』だ。

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マインド(思考)の中では、
「全てが二つ」に分かれている。

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だが、もしマインド(思考)の内にとどまるならば、

偽物ではなく、
真正であることだ。

恋人に怒りを感じるとき、真正であれ。

怒っているとき、真正であれ。

抑圧がなければ、後に、愛の瞬間が来たとき、

つまりマインドが他極へと動いたときに、

あなたは自在無碍にあふれ出す。


だから、マインド(思考)の内にいるときは、戦いもその1部だと思うことだ。

対極性の中で動くのはマインド固有の力学だ。

だから、
自分の怒りに真正であれ。
自分の戦いにおいて真正であれ。

そうすれば、
愛においても真正になる。


だから、恋人や夫婦には、真正であれと言いたい。

もしあくまでも真正であったら、
ある不思議な現象が起こる。

つまり、
両極の中を行きつ戻りつするこの馬鹿馬鹿しさに、きっと『うんざり』する。

だから真正であれ。

さもないと、『うんざり』することすらできない。


抑圧されたマインド(思考)は、
自分が対極性に囚われていることに真には気づかない。

彼や彼女は真には怒らない。
彼や彼女は真には愛さない。

だから彼や彼女には、
マインドの真の体験がない。

だからこそ私は、

「真正であれ。」

と言うのだ。


偽物であってはいけない。真実であれ!


真正であることには、それ自身の美しさがある。

本当に怒っているとき、
真正に怒っているとき、

恋人や夫婦はそれを理解してくれる。

許されないのは、
偽りの怒り、
あるいは怒っていないふりだ。

真正であれ。
そうすれば愛するときも真正だ。

この真正の愛はあなたに報いる。

この真正な生を通じて、
あなたは『うんざり』する。

「自分はいったいなにをやっているのか、
なぜ振り子のように一極から他極へと行ったり来たりしているのか。。。」

あなたはきっと嫌になる。

そうして初めて

「マインドを超えよう、
他極性を超えよう。」

と決心する。



真正な男、真正な女であれ。

どんな偽りも許さず、装うことをやめ、
真実であれ。

そして真実を苦しむのだ。

苦しむのはいいことだ。

苦しむことは、真の訓練であり、修養だ。

苦しむのだ!

怒りを苦しみ、
愛を苦しみ、
憎悪を苦しむのだ。

そして一つおぼえておくように、
決して偽らないこと。


もし愛を感じなかったら、そのときには

「自分は愛を感じない。」

と言うのだ。

愛しているふりをしない。
装ったりしない。


もし怒っているなら、そのときには

「自分は怒っている。」

と言うのだ。

そして怒るのだ。


マインドの愛を生きているとき、
きっと苦しみも多いだろう。
だが苦しむのだ。

その苦しみを通じて「新しい意識」が生まれる。

愛と憎しみの馬鹿馬鹿しさに気づく。


あなたは
同じ人間を憎み、
同じ人間を愛し、

そして一つの円の中を動き続ける。

その円がはっきりとわかるようになる。

苦しみを通じて初めてはっきりとわかる。


苦しみから逃げてはいけない。

マインドの愛しか知らないあなたには、
真の苦しみが必要だ。

それは火のようなものだ。

あなたを焼く。

偽りはすべて焼け、
真実はすべて残る。

これが実存主義者のいう「本来性」だ。

本来的であれば、
もうこれ以上、
マインドにとどまることはできない。

非本来的であれば、
何生も、何生も、マインドにとどまることになる。


あなたはきっと二元性に『うんざり』する。

だが装うことなく、真に二元性の中にいなかったら、どうして二元性にうんざりできるだろう。

そのときあなたにはわかる、

マインドによるいわゆる愛とは病気にほかならないと。。。


マインドそのものが病気だ。

マインドに属するものは病気となる。

マインドを超え、
二つに分裂していない状態、
自分が一つである状態、

そこに初めて、

別の愛が開花する。


イエスはそれを愛とよんだ。
ゴータマ・ブッダはそれを慈悲とよんだ。

それは区別のためだ。
どうよばれようと、なんの変わりもない。


反対物のない愛、それは可能だ。

だが
「その愛」が現れるのは、
「この愛」を超えたときだけだ。

ノーマインドになるのは、
マインドを超えたときだけだ。

中庸にあるのは、
二極の両端へ振り子が動くのをやめたときだけだ。

沈黙になるのは、
音がなくなったときだけだ。

愛と至福だけになるときは、
憎しみと愛の二元性のマインドを超えたときだけだ。


反対物のない愛、それは可能だ。

憎しみと愛の二極の両極へ動くマインドの愛に苦しみ疲れ切ったら『うんざり』する。

マインドを超える決心ができる。


それを超えるために大事なのは、
真正であることだ。

憎んでいるときでも、
愛しているときでも、
怒っているときでも、

どんなときでも、
装わずに、
真正であれ、
真実であれ。

真実だけが超越される。

真実でないものは超越できない。


from osho talks
oshoの講話より

Vigyan bhairav tantra
ヴィギャン バイラヴ タントラ
「源泉への道」


この講話の日本語に翻訳された本はこちらです。

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英語のPDFダウンロードはこちはです。


Vigyan Bhairav Tantra, Vol 1&2

The Book of the Secrets: A New Commentary, The original series of 80 discourses were simply called ”Vigyan Bhairav Tantra”. For publication as books they were divided up into 5 volumes, called the ”The Book of the Secrets Volume 1 - 5” (16 discourses each).The books were later published as ”Vigyan Bhairav Tantra Volumes 1 and 2”,(40 discourses each). The two volumes also came with a deck of 112 cards to represent the various meditations.

vol.1
Talks given from 01/10/72 pm to 01/03/73 pm English Discourse series
vol.2
Talks given from 25/03/73 pm to 08/11/73 pm English Discourse series


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マインドの愛の

「憎しみと愛の両極を行ったり来たりするスリルと興奮の恋愛を楽しみたい!」

というエゴ(欲)があるうちは、どうかそのままお楽しみください(-_^)

人生は一度きりしかないのですから、
自由に生きてください(-_^)


選択は個人の自由でいいのです(^-^)


でも、それに疲れ切って『うんざり』したならば、
昨日と今日のブログでご紹介したoshoの講話にあるようなことをお試しになってみてください(-_^)

本にはもっと詳しく丁寧にわかりやすくoshoは話しています。


わたしは恋愛だけでなく、子供のころから、この世の人間たちの二元性のマインドのあり方に馴染めず、人間社会になかなか適応できなくて苦しみ、ほとほと『うんざり』して疲れ果て3度も臨死体験をするほど心身ともにボロボロになった過去があります。

臨死体験後、生かされていることに深く感謝をし、外側から内側への旅へと方向転換があり、無宗教で無知ですから独自のやり方で瞑想をしたり祈る毎日を送っていると、自分の内側にある『源泉』にひょっこり辿り着き『全ては一つ』の宇宙の洪水の体験が起こりました。

それは静かな沈黙の至福の愛の体感でした。
それはoshoが話すように2度となくなることはありません。

なぜならば、その状態が人間の本来の自然な状態だからです。

その状態を『忘れて』いるのは、
マインド(思考)とエゴ(欲)が頭の中にいっぱいあるからです。

マインドとエゴが自分の内側からなくなり、
ノーマインドになった時、
その本来の自然な状態を一瞬で『思い出し』ます。

ノーマインドは沈黙の音の至福な愛の状態です。


ノーマインドになれば、
昨日ご紹介したゴータマ・ブッダ
今日ご紹介したイエスの
静かな愛を体感します。

それは誰もが知っている、
本来の自然な状態の沈黙の至福の愛です。
ただ忘れているだけです(^-^)

それを『思い出せ』たら、

あらゆる二元性のマインド(思考)を超越し振り子が止まり中庸になるので、

問題を根元から根こそぎ取り去るため苦しみはなくなり、

憎しみと愛を繰り返す苦しみのマインドの恋愛からも一瞬にして卒業できることは私の体験からも確かです(-_^)



正しく想起する、

sammasatiサマサティ(right remembrance)


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』



花仙人