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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

所有すること=愛を失うこと

本 book サマサティ osho
所有すること=愛を失うこと


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


美しい顔、
美しい肉体、

あなたはそれを見つめる。

あなたは愛を込めて見つめていると思う。

なぜ、あなたはそれを見つめているのか。

そこから何かを得たいと思っているのか。

何かを得たいと思っているならば、
それは「情欲(lust)」だ。

愛(love)ではない。

それを利用したいと思っているならば、
それは「情欲」だ。

愛ではない。


あなたの考えていることは、

どうやってその身体を使うか、
どうやってそれを手に入れるか、
どうやってその肉体を自分の幸福の道具にするか、

ということだ。


「情欲」とは、
○得ること。
○どうやって何かを自分の幸福のために使うかということ。
○どうやって何かを取るか。
○自分が重要。
○相手を自分のための道具にする。
○相手を犠牲にする。
○攻撃性。

「愛」とは、
○与えること。
○自分の幸福はまったく眼中にないこと。
○どうやって何かを与えるか。
○相手が重要。
○自分を相手のための道具にする。
○自分を犠牲にする。
○明け渡し。


情欲と愛の二つは正反対だ。


Lust means how to use something for your happiness.

Love means your happiness is not at all concerned. 

Really, lust means how to get something out of it and love means how to give something. 

They are diametrically opposite.


「愛」とは、

どうしたらこの人を幸福にしてあげられるか、

ということだ。

大事なのは自分ではない。
大事なのは相手だ。


口で何を言っても意味がない。
情欲を抱いていても、愛の名において語ることがある。
その言葉にたいした意味はない。


だまされてはいけない。


内側を見てごらん、
そうすればわかるだろう…

自分は今までの生涯に、
一度も愛を込めて人や物を見つめたことがない…

と。


情欲に満ちた目で見つめると、
どんな人間も物体になる。

だからこそ情欲に満ちた目は嫌がられるのだ。

誰も物にはなりたくない。


妻を情欲の目で見つめる、
他の女性を情欲の目で見つめる、
女性たちは傷つく。

夫を情欲の目で見つめる、
他の男性を情欲の目で見つめる、
男性たちは傷つく。

自分の子供を情欲の目で見つめる、
他の子供を情欲の目で見つめる、
子供たちは傷つく。


それは、

生きている人間を、
死んだ道具に変えるということだ。

どうやって「使う」かと考えるということは、
その人間を殺すことだ。

だからこそ、
情欲の目は嫌がられ、醜いのだ。


一方、


愛を込めて誰かを見つめると、
その相手は高められる。
相手はかけがえないものとなる。
突然相手は人間となる。


人間は交換できない。
物は交換できる。

「物」とは交換可能だという意味だ。
「人間」とは交換不可能だという意味だ。

「人間」はかけがえのない存在だ。


実際、物資的なもの、無感覚なものでも、愛を込めて見つめればそれは人間となる。

愛を込めて見つめれば、
その愛が「鍵」となり、
どんな物でも人間に変容する。

愛を込めて一本の木を見つめれば、
その木はひとりの人間になる。

あなたが乗っている自分の車を愛していたら、その車はかけがえのないもの、つまり人間になる。

それは世界で一つだけのかけがえのないものとなり、それは他の全く同じ種類の車であっても、もうそれは自分にとっては同じではなく特別だから交換不可能だ。

すでにひとつの関係性が、
あなたとその車の関係性ができている。

もしその車のどこかがおかしかったら、ほんの小さな音でも、それがわかるほど…。


もし、愛の関係があったら、どんなものでも人間になる。

もし、情欲の関係があったら、そのとき人間は物になる。

それは人間のなしうる中でも
この上なく「悲人間的」な行為だ。



夫婦というものはみな互いに地獄を創り合っている。

互いに相手を所有しようとしているからだ。

所有できるのは物だけだ。

人間はだめた。

人間を所有することはできない。

物なら所有できる。

にもかかわらず、あなたは人間を所有しようとする。

その企てを通じて人間は物となる。

それが愛ではなく情欲の地獄となる。


もし男が女を物にしたら、女は対抗する。

女は敵となる。

そして女も男を物にしようとする。

その男女の2人の関係性が地獄となる。


もし親が子供を物にしたら、子供は対抗する。

子供は親の敵となる。

そして子供も親を物にしようとする。

その親子の関係性が地獄となる。


他者を自分の幸福のために利用しようとして企てはじめた瞬間から、それはもう愛ではない。地獄の関係のはじまりとなる。


愛しあっている恋人が結婚をしても相手を所有しようとしなければ愛はある。
2人は天国にいる。

しかし、

愛しあっている恋人が相手を失いたくないと思い永遠に所有したいというエゴ(欲)があって結婚をした場合、所有するという契約の結婚の場合、そこにはもう愛はない。
2人は地獄にいる。


こうして夫婦というものはみな互いに地獄を創り合っている。


家族を持ちたい(所有したい)というエゴ(欲)のためだけに、世間体のためだけに、結婚をして子供を生み、自分の子供を所有しようとする親は、そこにはもう子供への愛はない。
親子の関係は地獄を創り出す。

愛していない子供を養うために働くことが苦しみとなり、義務となるため重荷となり、愛せないどころかますます子供を憎むようになる。

愛されない親に所有されている子供たちは傷つく。

生きていることを否定され続けて生きる気力を失う。

生きていてもいいことを肯定しようとし、
なんとか親に愛してもらおうとして、理不尽なことや不本意なことも、無理をしてやろうとして疲れ果てストレスをためる。親に利用されていることがわかっていたとしても…。
だから、傷つく。


所有欲にとりつかれている親は、
子供を愛することはできない。


所有するということは愛を失うことだ。


人間を所有することはできない。
所有しようとするとき、地獄がはじまる。
そこには愛がないからだ。

人間を物として所有する、
それは人間のなしうる中でも
この上なく「悲人間的」な行為だ。



人を物に変えるという行為は、
人道に外れている。



だが愛に満ちていたら、
そのときには、
対象がなんであろうと、
祝福が可能となる…祝福が起こる。



2人の恋人が一緒にいる。
突然2人は自分自身を忘れてしまう。

相手がそこにいる。
やがてあなたがいなくなり、
完全に不在となったとき、
相手もまたいなくなる。

2人の間に祝福が起こる。

これこそ恋人たちの感じているものだ。

その祝福が起こるのもまた、
知らず知らず無意識的に瞑想しているからだ。


恋人同士が一緒にいるとき、
だんだんと2人とも消えていく。
一つの純粋な存在が残る。

エゴ(欲)もなく、
葛藤もなく、
一つの交感(コミュニオン)として。

この交感(コミュニオン)の中で人は至福を感じる。


この至福は相手から与えられるものではない。

この至福がやってくるのは、知らず知らずのうちに深い瞑想的技法に落ち込んでいるからだ。

それは意識的にも実行できる。

意識的に実行すれば、もっと深く進む。

というのも、もはや対象に囚われることがないからだ。

それは毎日起きている。



愛する相手に対して、人はまったく無力になるものだ。

誰かを愛するとき、人はいつもまったくの無力を感じる。それが愛の苦悩だ。

自分にいったいなにができる。
なんでもしてやりたい。

愛する者に宇宙全体を与えたい。
だが自分になにができる。

もし
「自分にはこれこれができる」
などと思うようなら、
あなたはまだ愛に入っていない。

愛はまったく無力だ。
完璧に無力だ。
この無力こそが美だ。
この無力の中で、
あなたは自分を明け渡すからだ。

誰かを愛するときには、
きっと無力を感じる。

誰かを憎むときなら、
なにかをすることができる。

誰かを愛するときには、
完全に無力だ。

いったいなにができるだろう。

できることといえば、つまらなくて、意味のないことばかりだ。けっして充分ではない。

なんでもしてやりたいと思いながら、
なんにもできないと感じるとき、

マインド(思考)は止まる。

この無力の中で明け渡しが起こる。

あなたは空っぽだ。

だからこそ愛は深い瞑想となる。

もし誰かを愛したら、瞑想はいらない。

でも誰も自分を明け渡すほど愛さないから、
瞑想が必要となる。



どこまでも相手を思いやり、
相手の幸福を思いやることによって、
自分を完全に忘れ、
相手だけがそこに残るとき、
突然あなたは至福に、祝福に満たされる。

なぜか。

自分のことを思わないとき、
あなたは空虚になる。
空っぽになる。

内側に空間ができる。

内側がノーマインドになる。

内側に想念がなくなる。

「自分になにができるか、
どうしたら相手がもっと幸福になれるか。」

という想念は、もう存続できなくなる。

あなたにできることはなくなる。

あなたにできることはなにもない。


もし自分になにかができると思うようだったら、
あなたはまだ自分のことを考えている。

それはエゴ(欲)だ。



人を愛するとき至福を感じるのは、
相手のせいではない。
愛のせいだ。

なぜ愛のせいなのか。

愛に満ちていたら、
そのときには、
対象がなんであろうと、
祝福が可能となる…祝福が起こるからだ。



だが、あなたは囚われてしまう。

この祝福が起こるのはAのせいだ。
Aがそばにいるからだ。
Aが愛してくれるからだ…。

と思い込んでしまう。

そして考える、

「Aを所有しよう。
Aがそばにいなければ、
2度とこの祝福は得られない。」

そして嫉妬深くなる。

もし誰かがAを所有したら、きっとその人間は幸せになり、自分は苦しむだろう。

それであなたは、Aを絶対に他人に所有させまいとする。

「Aは自分だけで所有しよう、
自分はAを通して別世界を一瞥できたのだから。」

だが所有しようとすれば、
その美のすべて、
祝福のすべては破壊される。


恋人が所有されるとき愛は終わる。

恋人はただの物になってしまう。

利用することはできるだろう。

だが、祝福は2度と訪れない。

その祝福が訪れたのは、

相手が人間だったときだ。

2人の人間が出会っていた。

1人の人間と1つの物ではなかった。


所有したとたん、
それは不可能になる。


マインド(思考)は所有しようとする。

マインド(思考)は貪欲にも考える、

「ある日、自分に至福が起こったからには、
毎日それが起こってほしい。だから所有しよう。」

だが、至福が起こるのは、
所有していないからこそだ。

そして、
至福が起こるのは、
相手のせいではない。
自分のせいだ。

繰り返そう。

「至福は自分のせいで起こる。」

相手の中に自分を明け渡しているからこそ、至福が起こるのだ。


それは、

バラの花が相手でも起こる、
岩が相手でも起こる、
木々が相手でも起こる、

なにが相手でも起こる。


それが起こる状況をいったん知ったら、
どこでも起こる。

自分のいないことを知り、
そして深い愛の中で、
自分の意識が相手へ、
木々へ、
空へ、
星々へ、
誰々へ、
と向かったとき…

意識全体が相手へと注がれたとき、
自分のすべてを明け渡したとき、

自己(私)はあなたから去る、
あなたから離れる。

自己(私=マインドとエゴ)の不在の中に祝福がある。




自己の不在=ノーマインド
ノーマインド=沈黙の至福=愛
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from osho talks
oshoの講話より

Vigyan bhairav tantra
ヴィギャン バイラヴ タントラ
「源泉への道」


『「ヴィギャン バイラヴ タントラ」という言葉、
それは「意識を越えていく技法」という意味だ。

これは五千年前のものだ。
すべてが網羅された完璧なものだ。
山々と同じほどに古いこれらの技法は
永遠の命を持っている。』


『あなたの内側には、
〈存在〉とつながっている一点(源泉)、
〈存在〉と一つになっている一点がある。

いったんこの中心を知れば、
自分が我が家にいるということがわかる。

〈存在〉はあなたの母となる。』


この講話の日本語に翻訳された本はこちらです。

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英語のPDFダウンロードはこちはです。


Vigyan Bhairav Tantra, Vol 1&2

The Book of the Secrets: A New Commentary, The original series of 80 discourses were simply called ”Vigyan Bhairav Tantra”. For publication as books they were divided up into 5 volumes, called the ”The Book of the Secrets Volume 1 - 5” (16 discourses each).The books were later published as ”Vigyan Bhairav Tantra Volumes 1 and 2”,(40 discourses each). The two volumes also came with a deck of 112 cards to represent the various meditations.

vol.1
Talks given from 01/10/72 pm to 01/03/73 pm English Discourse series
vol.2
Talks given from 25/03/73 pm to 08/11/73 pm English Discourse series


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  





「所有」することは「愛」ではない。

「愛」とは相手に『自由』を与えること。





あなたは誰の物でもない。

あなたははじめから自由なんだよ。





わたしは自由を愛する。

だからあなたの自由を愛する。





わたしは所有しない。

手の中はいつも空っぽ(^-^)

全ては一つの愛があるだけ。





真に自由の愛の至福になるために、

正しく想起する、

sammasatiサマサティ(right remembrance)


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』



花仙人