花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

愛は行為ではない

愛は行為ではない


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osho


愛は行為ではない。

愛は行なうものではない。


もし行なうとしたら、
それは愛ではない。

愛の中にはなんの行為もない。


『愛は「存在 being の状態」』であって、
「行為」ではない。


愛は存在の状態。Love is a state of being.
愛は行為ではない。Love is not an act.


同じことを24時間続けるのは無理な話だ。

もし愛を「行なって」いるのであれば、
当然のことながら、
24時間それを行なうことはできない。

どんな行為であっても疲れてしまう。
どんな行為であっても飽きてしまう。

そして行為の後では必ず息抜き(リラックス)が必要となる。

もし愛を「行なって」いるとしたら、
その息抜き(リラックス)は憎むことだ。

なぜなら、

逆のことしか息抜き(リラックス)にならないからだ。

(二元性の両極端〈表と裏〉は愛と憎しみ怒り)
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だからこそ、
人の愛はいつも憎しみと混じり合っているのだ。

同じ人間を、
今この瞬間に愛しながら、
次の瞬間にはもう憎んでいる。

同じ人間が、
愛と憎しみの両方の対象となる。

これこそが恋人たちの葛藤だ。

愛が「行為」であるからこそ、
このような苦悩が存在するのだ。


だから、
理解すべき第一点。

『愛は行為ではない。』

愛することならできるが、
愛を行なうことはできない。

「愛を行なう」というのは不条理だ。



またそこには別の意味がある。

つまり、

『愛は努力ではない。』

もし努力だったら疲れてしまう。


『愛は「心 heart の状態」』であって
「努力」ではない。


愛は心の状態。Love is a state of heart.
愛は努力ではない。Love is not an effort.


愛を人間関係として考えてはいけない。
愛を「心の状態」として考えるのだ。

愛しているということ、
それは「心の状態」だ。


この「心の状態」は、
焦点が1人に向けられていることもあれば、
焦点がないこと、つまり全体に向けられていることもある。

焦点が1人に向けられているとき、
それは愛と呼ばれる。

焦点が全体に向けられているとき、
それは祈り(prayer)となる。

そのときあなたはただ愛している…

誰彼を愛するのではなく、ただ愛している。
ちょうど今、「呼吸」をしているようなものだ。


もし「呼吸」が努力だったら、
あなたはきっと疲れてしまうだろう。

そして一休み(リラックス)が必要となり、
そのうちきっと死んでしまうだろう。

もしそれが努力だったら、
時々忘れてしまうこともある。

そうしたら死んでしまう。


愛とはまさに「呼吸」のようなものだ。


もっと高次元の呼吸だ。


呼吸をしなかったら、
身体は死ぬ。

同じように、

もし愛さなかったら、
精神(スピリット)はけっして生まれない。


だから、
愛を魂の呼吸と考えるといい。


愛していれば、
魂は活動的になり、生き生きする。

それは、

呼吸をしていれば、
肉体は活動的になり、生き生きするように。



こんなふうに考えてごらん。

もし私が、

「私のそばにいるときだけ呼吸をしなさい。
ほかのところで呼吸をしてはだめだ。」

と言ったとしたら、
あなたは死んでしまう。

すると、

今度ここにやって来るまでには、
あなたはもう死んでしまって、
私のそばで呼吸するどころではない。



それが人の中で起こっている。

人は所有してしまう。

愛の対象を所有してしまう。

人は愛する者に言う、

「私だけを愛しなさい。
ほかの人を愛したりしないで。」

すると、
もうその愛は退化し、
相手は愛することができなくなる。

愛は不可能になる。


それはなにも

「すべての人を愛しなさい。」

ということではない。

「心を愛深い状態にしなさい。」

ということだ。

それはちょうど「呼吸」のようなものだ。


たとえ敵がそこにいようと、
あなたは呼吸を止めたりしない。


それがイエスの語った言葉、

「汝の敵を愛せよ」

の意味だ。


一見矛盾している。

だが、

もし愛することが

「行為」ではなく、
「心の状態」であるならば、

もはや敵も味方もない。

あなたはいつも愛の状態だから、
あなたはいつも愛の中にいる。

愛の中には一切のネガティブはない。

愛の中は100%愛だけだ。

だから、

愛の「心の状態」にあるとき、
敵を憎むという「心の状態」は一切なくなる。

すると、

もはやあなたの中に敵はいない。

「汝の敵を愛せよ」



このことを、別の面から見てみよう。

世の中には、
いつも憎んでばかりいる人がいる。

そんな人が愛を示そうとすると、
非常な「努力」が必要だ。

その愛は「努力」だ。
その「心の状態」はいつも憎しみだ。


世の中には、
いつも悲しんでばかりいる人がいる。

そんな人にとって、
笑いは「努力」だ、
自分との闘いだ。

その笑いは作られた笑いだ…

嘘の、
無理じいの、
とってつけた笑いだ。

自然発生的ではなく、
人工的なものだ。

その笑いは「努力」だ。
その「心の状態」はいつも悲しみだ。


世の中には、
いつも怒ってばかりいる人がいる。

特定の物や人に対して怒っているのではなく、
ただ怒っている。

すると愛は「努力」となる。
その「心の状態」はいつも怒りだ。


一方、


愛が「心の状態」となったら、
怒りは「努力」となる。

怒りを「行なう」ことならできるが、
怒ることはできない。

だから、

人工的に創り出すしかない。
偽りの怒りだ。


もし、ゴータマ・ブッダが怒ろうとするならば、
大きな「努力」が必要となり、
またそれは偽りとなる。

それにだまされるのは彼のことを知らない人だけだ。
彼を知る人はわかっている…

その怒りは偽りであり、
描かれたもの、創り出されたものだと。

その怒りはけっして内側からやって来たものではない。

ゴータマ・ブッダのような人間、
イエスのような人間は、
人を憎めない。

憎むためには「努力」がいる。

憎しみを示そうとするときには、
それを「行なう」しかない。



ところが、
多くの人たちの場合、
憎むことにはなんの「努力」もいらない。

だが、

愛するためには「努力」がいる。

だから、

愛することが「行為(行なう)」となる。


だから、
要は「心の状態」を変えることだ。


では、
どうしたら「心の状態」が変わるのか。

どうしたら愛していられるか。


それは時間の問題ではない。

「どうしたら24時間愛していられるか…」

という時間の問題ではない。


もし、
一瞬でも愛していられたら、
一瞬でも愛の「心の状態」でいられたら、
それで十分だ。


瞬間というものは、
つねに一つであって、
二つということはない。


一つの瞬間が去れば、
次の瞬間が現れる。


あなたの手許にはつねに一つの瞬間しかない。

だから、
どうやって一瞬の間、
愛するかがわかったら、
もうその「鍵」は自分のものだ。


24時間とか一生涯の時間のことを考える必要はない。


ただ一瞬の愛…

『一瞬をいかに愛によって満たすか』

これがわかれば、

次の瞬間が現れたとき、

それをまた『愛によって満たす』ことができる。


それは時間の問題ではない。

それは一瞬の問題だ。


一瞬は時間の1部ではない。

一瞬に「過去と未来」はない。

一瞬は『今』この時だ。


どうやって愛とともに一瞬に入るか…


それがわかったら、
あなたはもう永遠の中に入っている。

もはや時間ではない。

永遠は『今』この一瞬だ。



ゴータマ・ブッダはこの『今』に生きている。

多くの人たちは時間の中に生きている。

時間というのは、
「過去」を考えること、
「未来」を考えることだ。

「過去や未来」を考えていたら、
『今(現在)』はない。

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多くの人たちは「過去や未来」を考えるのに忙しくて、
『今(現在)』がなくなっている。

だが、
『今(現在)』こそが唯一の『実在』だ。


『今(現在)』は、
「過去」はもはや存在しないし、
「未来」はまだやって来てはいない。

「過去や未来」のどちらも存在していない、「過去や未来」は「非実存」だ。


『今(現在)』この一瞬、
この微細な一瞬こそが、唯一の『実在』であり、
今この一瞬に、どうやって愛するか、がわかったら、
もうその「鍵」は自分のものだ。

二つの瞬間が同時に現れることはけっしてない、
もう時間のことを気にする必要はない。


一瞬はつねに『今』というかたちをとる。

『今』は何種類もあるわけではない。

この一瞬は同じものだ、

過ぎ去った一瞬となんの違いもないし、
また、
後に続く一瞬ともなんの違いもない。

この微細な『今』一瞬はつねに同じだ。


24時間や一生涯など時間のことは考えなくていい。
そうすれば、
『今(現在)』の瞬間について考えることもなくなる。



さらにもう一つ。

マインド(思考)には時間が必要だが、

生きるのに時間はいらない。

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『今』この瞬間にはマインド(思考)は不可能だ。

それは、

もし『今』この瞬間に存在したかったら、
マインド(思考)をやめることだ。

マインド(思考)は「過去」と「未来」に関わっている。

マインド(思考)は『今』に関わってはいない。

いったい『今』においてなにが考えられるだろう。

考えたとたん、それは「過去」になってしまう。


一輪の花がある。

「これは美しい花だ」

とあなたは言う。

その言葉はもう『今(現在)』ではない。

その言葉はもう「過去」になっている。

マインド(思考)の中で「なにかをつかんだ」とき、
それはもう「過去」になっている。

『今(現在)』においてあなたは存在できるが、
考える(マインド)ことはできない。

花とともに『在る』ことならできるが、
花について「考える(マインド)」ことはできない。

思考(マインド)には時間がいる。


別の言い方をすれば、
マインド(思考)とは時間だ。

考えなければ時間は存在しない。



だからこそ瞑想の中では無時間性が感じられる。

だからこそ愛の中では無時間性が感じられる。



瞑想は愛であり、
愛は瞑想だ。

愛はマインド(思考)ではない。

瞑想の中でマインド(思考)は消え去る。

マインド(思考)が消えたときが愛だ。

瞑想とは、
マインド(思考)を消し去り愛だけになることだ。

愛はマインド(思考)ではない。
想念の停止だ。

マインド(思考)がないとき、
あなたはただ存在する!


恋人とともにいるとき、
あなたは愛について考えない、
恋人について考えない。

まったくなにも考えない。

もし考えているなら、
あなたは恋人と一緒にいるのではなく、
どこかよそにいる。

思考(マインド)したら
『今』からいなくなる。
あなたはそこにいない。


だからこそ、
あまりに思考(マインド)にとらわれている人間は、
愛することができないのだ。


思考(マインド)にとらわれている人間は、
たとえ根源的な神的源泉に到達したとしても、
たとえ神に出会ったとしても、
きっと神について考え続けるだろう。

そして存在 being 神を完全に逃がしてしまう。

ひたすら考えに考えに考えたとしても、
それはけっして事実にはならない。


愛の瞬間は無時間の瞬間だ。

無時間とはマインド(思考)がまったくない状態だ。

マインド(思考)がまったくない状態が愛だ。

ノーマインドの状態が愛だ。

マインド(思考)があるときは、
愛ではない状態だ。

愛とは無時間でノーマインドの状態だ。

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愛は、時間ではなく、『今』だ。

『どうやって「今」ここの一瞬で愛していられるか』

だ。




from osho


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愛は「行為」ではなく、
愛は「努力」ではなく、

愛は「心の状態」。

それは、

愛を「する doing」状態ではなく。
愛で「ある being」状態。

「行為」や「努力」は doing の活動だからマインド(思考)。

マインド(思考)というdoingの動きのある活動は、
「過去と未来」の「時間」であり、

「時間」の中に愛は存在 being しない。

なぜなら、

「過去と未来」は『今』ここに「実在」していない「幻想(マインド〈思考〉の中の世界)」だから。

愛は実在、
愛は『今』この瞬間の「実在」。

だから、
愛の中にはマインド(思考)はない、
愛はノーマインドの状態。

愛はdoingではなく、
愛はbeing。



二元性の両極にマインド(思考)という振り子が行ったり来たりする「動き」があるとき、
「動き」があるときは「時間」があります。

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時計の振り子が動いているときは、
時計は動き時間がすすみます。

過去から未来へと時間はすすみ、
過去と未来という思考(マインド)があります。

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このマインド(思考)の振り子が両極に動いているときは、
愛は存在していません。


愛が存在するときは、
このマインド(思考)の振り子が真ん中にピタッと止まって中心に定まったときです。


マインド(思考)がピタッと止まると、
ノーマインドになります。

動きが止まると、
中心に定まります。


中心に定まったとき、
愛が存在します。


そして、
中心に定まったとき、
愛の梯子が目の前にあらわれます。

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愛の梯子を昇るも昇らないも自由です。


もし、
愛の梯子を昇っていくならば、
三つの愛を学んでいく愛の旅がはじまります。

というお話を以前ご紹介しました。

oshoはその三つの愛や愛の梯子である7つのチャクラ(自分の内側にある地図)について詳しく丁寧にわかりやすく講話の中でお話しています。


今日ご紹介したoshoのお話は、前回のブログ『憎しみがなくなるとき』と合わせて読まれると、わかりやすいと思います。


なぜ、
人は愛と憎しみを行ったり来たりして苦しむのか…

なぜ、
人は愛すると疲れたり努力をして無理があるのか…


そんな、なぜ?をoshoはわかりやすくお話しています。


なぜ?がわかれば、

苦しみから解放されたり、
同じ間違いを繰り返さなくなり、
愛することを恐れなくなり、
etc…

うまくいかなかった恋愛関係や、
恋愛だけでなく
家族関係や、
社会の中の人間関係などの、

なぜ?がわかったりします。



人間社会は、
これほど人間関係で苦しむ人たちがたくさんいるのに、
その問題解決への教えをしないままにして、
あらゆる恐怖心を持たせたままでいます。


恐怖心こそ、
心身ともの健康を悪化させている根源です。


まだ愛する心の準備ができていない、
心が傷ついている状態で、

恐怖心を減らすために、
無理に愛そうとしたり、
傷を他者に癒して欲しくて愛してもらおう、
としたりすると、

それがさらに悪循環を生み出してしまいます。


前回の希望のカードのお話のように、
癒しが必要な者同士が一緒になっても、
傷は癒されることはなく、
二人で一緒にさらに苦しみを生む…
という転落の場合もあるのです。


大切なことは、
恐怖心を癒しなくすことです。


だからといって、
愛することを無理はしないことです。

愛とは「行為」ではないことを理解することですね(^-^)


愛であるbeingには、
恐怖心がなくなれば、
憎しみがなくなれば、
自然と愛のbeingの本来の自分の状態に戻るのですから。

癒しは大切です。


人間社会は、
人間の第1チャクラと第2チャクラをひどく傷つけることをし続けているため、多くの人たちは「恐怖心」を持ってしまっている…
恐怖心をなんとかしようとして愛するという「行為」をして人間関係が悪くなり…
というお話をご紹介しました。

この「恐怖心」を癒しなくすことで、
愛を「行為」することがなくなり、
したがって憎しむことがなくなり、
自然と愛することが無理なくできるようになったりします。

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まずは、
自分自身を癒してあげる、
という、
自分自身を愛する、
というところからはじめると、

無理なくいつか、
他者をも愛することができるようになります。


oshoは話します。

『まず自分を自分でなんとかしなさい。

それから他者のことを考えればいい。

1人1人が自分で自分をなんとかできたら、

この地球に不幸な人は1人もいなくなる。

だから、

まずは自分を自分でなんとかしなさい。

自分を自分で癒し愛で溢れさせなさい。

あなたがあなたの花を咲かせるのだ。

あなたの花の芳香を流すのだ。

すると、
1人1人が花の芳香を流す地球となる。

1人1人が至福になる。

地球は楽園となるだろう。

だから、まずは、
あなたはあなた自身をなんとかしなさい。

他者のことは自分をなんとかした後に考えなさい。

病気の医者では患者を治せない。

医者がまず健康である必要がある。

まずは、
あなたが健康になり、
あなたの花を咲かせることだ。

あなたの花の芳香が愛そのものだ。

そしてその愛は癒しの最良の薬だ。

地球は1人1人の愛の芳香で満ちるだろう。』



わたしは植物療法を学んでいて、
植物に助けられて病が改善したし、
植物が大好きで、
地球にいっぱいの植物があふれていることを想像したりもしますが、

oshoは地球の1人1人の人が花となることが可能であることをお話しています。

わたしもそれは自分の体験からも
可能だと思っています。



自分を癒すことをし続けると、
マインドとエゴをポイポイ捨て続けると、
いつか、突然、
本来の自然な状態の愛100%の本来の自分になってしまいます。

自分でも予想していないその瞬間が
ひょっこりやってきます。


自分を癒すことは、自分を愛すること、
自分を愛することは、
他者を自然に呼吸するように愛することになる。


二元性の愛と憎しみを繰り返す苦しみが終わる、
二元性を超えたとき、
本来の愛100%の自分を『思い出す』


真に自由の愛の至福を『思い出す』

sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する、

『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love




花仙人




死と生の神秘をタントラの生理学7つのチャクラを通してoshoはお話しています。
弟子たちからの恋人や夫婦の問題などにも丁寧に答えています。

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英語のダウンロードPDFはこちらです。

The Tantra Vision, Vol 1&2





そして、今日ご紹介したoshoのお話は、
Vigyan Bhairav Tantra
ヴィギャン バイラヴ タントラ
『第三の眼』(日本語の翻訳の本)
の講話からの1部です。

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英語のPDFダウンロードはこちはです。


Vigyan Bhairav Tantra, Vol 1&2

The Book of the Secrets: A New Commentary, The original series of 80 discourses were simply called ”Vigyan Bhairav Tantra”. For publication as books they were divided up into 5 volumes, called the ”The Book of the Secrets Volume 1 - 5” (16 discourses each).The books were later published as ”Vigyan Bhairav Tantra Volumes 1 and 2”,(40 discourses each). The two volumes also came with a deck of 112 cards to represent the various meditations.

vol.1
Talks given from 01/10/72 pm to 01/03/73 pm English Discourse series
vol.2
Talks given from 25/03/73 pm to 08/11/73 pm English Discourse series



花仙人

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