花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

一休さん(瞑想)

一休さん(瞑想)


前回のブログで、oshoだけでなく全ての導師たちがつねに瞑想的な生き方が大切なことであると話していることをご紹介しました。

瞑想的というのは、

マインド(思考)が空っぽなノーマインド(無思考)であり、

エゴ(欲)がまったくない状態で、

眠っているような無意識ではなく、

目覚めている意識で生き、

緊張はなくリラックスした沈黙の状態です。


無意識であるときは、ミスや失敗や同じ間違いを繰り返したりしてしまいます。

意識しているときは、周りがよく見えたり、感覚が冴え渡っているので、ミスや失敗や同じ間違いをする手前で、それに『気づく』ことができ、問題となる前にそれを回避できたりします。


たとえば、無意識に歩いているとします。
『歩く』ということ以外の他の何かを考えながら、マインド(思考)を働かせながら歩いていると、身の周りの状況に注意散漫になり、回避できるはずの障害物にぶつかったりしやすくなります。

足の小指を家具の角にぶつけて痛い思いをしたことがある人は多くいると思いますが、それは『歩く』以外のことに気を取られていて、注意散漫、つまり無意識になり、意識していないことになります。

これは瞑想的な生き方ではないというものです。

瞑想的な生き方とは、たとえば、

歩くときは歩くことだけに意識する、
食べるときは食べることだけに意識する、
眠るときは眠ることだけに意識する、
遊ぶときは遊ぶことだけに意識する、
料理するときは料理だけに意識する、
掃除するときは掃除だけに意識する、
etc…


「過去」も「未来」も考えず、

『今』行っていること以外の他のことを考えずに、

『今』行っていることをトータル(全一)にすること。


マインド(思考)にとらわれて、
考え事をし、
無意識な注意散漫にはならない、

ノーマインド(無思考)の空っぽになり、
リラックスをしながら、
周り全体に意識をしながら
感覚を冴え渡らせ、
油断なく意識して生きること。


毎日の暮らしの中で、
坐って瞑想をしていないときにも、
瞑想的な生き方をすることで、
瞑想がより深まっていきます。

24時間瞑想の状態で生きる、

それは、

24時間光明の状態で生きる体験に近くなります。

それを続けることにより、
光明 enlightenment を得る瞬間が起こるかもしれません。


わたしの体験からはそれは起こりましたのでここに書き残しています。


『今』この瞬間をトータル(全一)に生きることは瞑想です。


光明を得ることに興味がない人でも、

無意識ではなく、
意識して生きることにより、

ミスや失敗や同じ間違いを繰り返したりする苦しみが少なくなっていくことを体験していくと思います。


アニメ一休さんでも有名な、
禅の導師一休はきびしい導師だったそうです。
しかし、たくさんの弟子たちを光明へと導きました。

今日は導師一休の瞑想的な生き方についての
お話のカードの絵とoshoが講話でお話してくれた1部をご紹介します。


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


あらゆるものに注意を向けなさい。
「大きい」、「小さい」はありません。
すべてに神性があります。

あらゆるところにあなたは神を見出すことができるのです。

(これはカードの解説です。)

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以下はoshoの講話の1部です。


ある期間修行してきた弟子が禅の導師一休に会いにきた。

雨が降っていたので、中に入るときに彼は履物と傘を外に置いた。

彼が挨拶をし終えると、一休は履物のどちら側に傘を置いたのかとたずねた。

さあ、なんという問だろう…?

あなたは、導師(マスター)が神について、クンダリーニの上昇、チャク ラの開き具合、あなたの頭の中で起こっている光についてたずねるのを期待する!あなたはオカルトや秘教のようなものについて尋ねる。

だが、一休はごくありふれた問いをたずねた。

キリストの聖人はそれをたずねないだろう、
ジャインの僧はそれをたずねないだろう、
ヒンドゥーの導師はそれをたずねないだろう。
それは真にブッダとともにあるものによってできる問いだ、ブッダの中に…真のブッダである者に。

一休は履物のどちら側に傘を置いたのかとたずねた。

さあ、履物と傘が霊性とどのような関わりがあるのだろう?

もし同じ質問があなたに尋ねられたら、あなたは困るだろう。この男はまったく導師(マスター)ではないと感じるだろう。

なんという問いだろう?
どんな哲学がそこにあるのだろう?


だが、その中には途方もなく価値のあるなにかがある。


彼は神について、クンダリーニについて、チャクラについて尋ねたかね?それは無意味だ、まったく意味がない。


しかし、その問いには意味がある。


その弟子は思い出せなかった--自分の履物をどこに置き、傘をどちら側に置いたか、誰が気にするだろう?誰が傘にそんなに注意を向けるのか?誰が履物を考えるのか?誰がそんなに気をつけるのか?


だがそれで充分だった--
その弟子は拒絶された。

一休は言った。

「そうであれば、行ってさらに七年間瞑想するがいい。」

その弟子は言った。

「七年!」

「このささいな落ち度のために?」 

一休は言った。

「これは小さい落ち度ではない。

落ち度に大小はない。

お前はまだ瞑想的に生きていない。

ただそれだけだ。

行きなさい、

さらに七年間瞑想しなさい、

そしてまた来なさい。」


これは仏教の本質的なメッセージだ、

注意を向けなさい、
すべてにおいて気をつけなさい。

これはささいなことで、
あれは非常に、
非常にスピリチュアルなことだと、
ものごとの間に違いを設けてはいけない。

あなた次第だ。

注意を向けるがいい。
気をつけるがいい。

そうすればあらゆることがスピリチュアルになる。

注意を向けなかったら、
気をつけなかったら、

あらゆることが非スピリチュアルになる。


霊性はあなたによって分け与えられるもの、
それは世界へのあなたの贈り物だ。


一休のような導師(マスター)が
自分の傘に触れると、その傘は、 
あらゆるものがそうでありうるのと同じように神性を得る。


瞑想的なエネルギーは錬金術的だ。

それはより低い金属をより高い金属に変容しつづける。

瞑想的になればなるほど、
それだけあなたは神をあらゆるところに見る。

究極ピークではあらゆるものが神性を得る。



A disciple had come to see Ikkyu, his master. 

The disciple had been practising for some time. 

It was raining, and as he went in, he left his shoes and umbrella outside. 

After he paid his respects, the master asked him on which side of his shoes he had left his umbrella.

Now, what kind of question...? 

You don’t expect masters to ask such nonsense questions – you expect them to ask about God, about kundalini rising, chakras opening, lights happening in your head. You ask about such great things – occult, esoteric.

But Ikkyu asked a very ordinary question. 

No Christian saint would have asked it, no Jain monk would have asked it, no Hindu swami would have asked it. It can be done only by one who is really with the Buddha, IN the Buddha – who is really a Buddha. 

The master asked him on which side of his shoes he had left his umbrella. Now, what do shoes and umbrellas have to do with spirituality?

If the same question was asked to you, you would have felt annoyed. You would have felt that this man is no master at all. 

What kind of question is this? 
What philosophy can there be in it?

But there is something immensely valuable in it. 

Had he asked about God, about your kundalini and chakras, that would have been nonsense, utterly meaningless. But this has meaning. 

The disciple could not remember – who bothers where you have put your shoes and on which side you have put your umbrella, to the right or to the left. Who bothers? Who pays so much attention to umbrellas? Who thinks of shoes? Who is so careful?

But that was enough – the disciple was refused. Ikkyu said, 

”Then go and meditate for seven years more.”

The disciple said,

”Seven years?” 

”Just for this small fault?

Ikkyu said, 

”This is not a small fault. 
Faults are not small or big – you are just not yet living meditatively, that’s all. 

Go back, meditate for seven years more, and come again.”


This is the essential message of Buddhism: 

Be careful, careful of everything. 

And don’t make any distinction between things, that this is trivia and that is very very spiritual. It depends on you. 

Pay attention, be careful, and everything becomes spiritual. 

Don’t pay attention, don’t be careful, and everything becomes unspiritual.

Spirituality is imparted by YOU, it is your gift to the world. 

When a master like Ikkyu touches his umbrella, the umbrella is as divine as anything can be. 

And if you touch even God, God will become trivia. It depends on your touch.

Meditative energy is alchemical. 

It transforms the baser metal into gold; it goes on transforming the baser into the higher. 

The more meditative you become, the more you see God everywhere. 

At the ultimate peak, everything is divine. 




from osho talks
oshoの講話より

from osho transformation tarot
osho transformation タロットより

Take It Easy, Vol 2

Talks on Zen Buddhism

Talks given from 25/04/78 am to 10/05/78 am English Discourse series

CHAPTER12. IN THE HOUSE OF THE MOON

10 May 1978 am in Buddha Hall

英語のダウンロードpdfはこちら。



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sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』


瞑想と愛 (^-^)  meditation & love




花仙人

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