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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

瞑想meditationとは何か?

osho 瞑想 おしゃかさま&はな サマサティ
瞑想meditationとは何か?
 
 
 
瞑想や瞑想的な生き方…とoshoは話しますが、
瞑想って何でしょうか?
瞑想的な生き方ってどんなでしょうか?
 
以前このブログでも、わたしが行っている瞑想をご紹介しましたが、
 
今日はoshoの講話から瞑想って何?をご紹介します。
 
瞑想をはじめたばかりのときはoshoが話すことにまだピンとこなかったのですが、毎日瞑想と瞑想的な生き方をしていると、ある日、
 
「あ!」
 
みたいな、ピンとくることがあり、
 
コツを掴むと、それ以降はずっとその状態のままで24時間在ることが自然とできるようになります。
 
oshoも瞑想はコツだ、と話しています。
 
瞑想は頭ではまったく『理解』できないものであり、
 
瞑想は毎日行うことである日突然「コツ」を得るものだな〜と自分の長年の瞑想体験から『理解』できました。
 
練習を繰り返しているうちに、なんでも「コツ」を得て上達していくあれと同じことです。
 
瞑想の「コツ」を得るには、
知識はまったく役に立たないのですσ(^_^;)
 
わたしのような無知でアホでも、
瞑想の「コツ」は得ることができたのです。
 
ただ瞑想をすることのみでしか、
瞑想を『理解』することはできません。
 
光明enlightenmentを得ることも同じです。
 
知識ではなく、「コツ」です。
 
「コツ」は言葉では説明できないようなものです。
 
だから、「コツ」を得るには、
誰かの説明を聞くよりも、読むよりも、
自分で体験するしかないのです。
 
実践のみ。
 
ですから、瞑想や光明enlightenmentを得るには、
知識というマインド(思考)はまったく役に立たないのです。
 
実践のみです。
 
瞑想とは、
マインド(思考)とエゴ(欲)を全て手放し、
自分の内側を空っぽのノーマインドにして、
二元性の両極に偏らず真ん中の中庸に在ることの「コツ」を掴むことをサポートする一つのツールです。
 
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○瞑想的な生き方
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瞑想とは…
 
 
何もしていないとき--肉体的にも、精神的にも、どのレベルにおいても--すべての行為が止み、自分がただ単に在り、存在そのものであるとき、それが瞑想だ。
 
それを為すことはできない。
 
修練することはできない。
 
それは、『理解』しなければならないだけだ。 
 
 
 
「ただ在る」ための時間が得られるときには、すべての行為を落としなさい。
 
考えることも行為であり、
集中することも行為であり、
黙考することもまた行為だ。
 
たとえほんの一瞬でさえ、何もせず、ただ自分の中心に完全にくつろいでいられるなら…それが瞑想だ。
 
 
ひとたびそのコツを会得すれば、
好きなだけその状態にいられるし、
ついには1日24時間その状態にとどまることもできる。 
 
 
ひとたびあなたの本性が乱されない方法に気づけば、徐々に自己の本性が妨害されず、しかも注意深くありつづけながら、物事をすることができるようになる。それが瞑想の第2の部分だ。
 
最初は、いかにして「ただ在る」かを学ぶ。
 
それから、単純な行為を学ぶ。
自分自身の中心に定まったまま、
床を掃除したり、
シャワーを浴びたりする…。
そうしているうちに、より複雑なこともできるようになる。
 
 
たとえば、私は話をしている。
だが、私の瞑想は乱されない。
私は話しつづけられる。
だが、私の〈中心〉にはさざ波ひとつ立っていない。
そこはまったくの静寂だ。
完全に静まりかえっている。 
 
 
だから、瞑想は行為に対立しない。
 
 
それは、生から逃避しなければならないたぐいのものではない。
 
 
それは、生の新しい道を教えるにすぎない。
あなたは台風の目(サイクロンの中心)となる。 
 
 
あなたの生はつづく。それどころか、それは以前より強烈に継続する。
 
より一層の喜びと、
より一層の明晰さと、
より一層のヴィジョンと創造性を伴って。
 
それでいて、あなたはただ「丘の上のものみ」として、超然と、自分のまわりで起こっているすべてを見ている。
 
あなたは行為者ではない、「見守る者」だ。
 
見守る者、観照者になることこそが、瞑想における秘密のすべてだ。  
 
 
行為がそれ自体のレベルにおいて継続することには、何の問題もない。
木を切り、井戸から水を汲み出すというように、あらゆることをしてもよい。
 
 
だが、ひとつだけ許されないことがある。
 
「自分の中心に定まっている」
 
という質が失われてはならない。
 
 
この『気づき』、この注意深さは、まったく曇らず、揺るぎないままであるべきだ。
 
 
 
 
ユダヤ教には、ハシディズムと呼ばれる反逆的な神秘派がある。その創始者バール・シェムはたぐいまれな存在だった。
 
真夜中に川から戻ってくる。それが彼の日課だ。夜になると、川はまったく静まりかえっているからだ。彼は、つねにそこで坐っていた。何もせず、ただ自分自身を見守り、その「見守る者」を見守りながら…。今宵、家に戻る道すがら、彼はある金持ちの屋敷を通り過ぎた。扉の横には、ひとりの見張り番が立っていた。 
 
見張り番は不思議だった。というのも、この男は毎晩いつもきっかりこの時刻に戻ってくるからだ。彼は外に出てきて、言った。 
 
「邪魔して悪いのですが、私はこれ以上がまんできません。毎日、昼も夜も、あなたがつきまとっているのです。あなたの仕事は何ですか。なぜ川へ行くのですか。私は何度も後をつけてみましたが、何もありません。ただ数時間坐り、真夜中に帰ってくるだけです。」 
 
バール・シェムは言った。 
 
「あなたが何度も後をつけてくるのはわかっていた。夜はとても静かだから、足音が聞こえる。毎日、その門の後ろに隠れるのも知っている。だから、あなたが興味を持っているだけではない。私もまた、あなたに興味がある。あなたの仕事は何かね。」 
 
「私の仕事ですって。私はただの見張り番です。」 
 
「なるほど。あなたは、キーワードを与えてくれたようだ。私の仕事も同じだ。」 
 
見張り番は言った。 
 
「わかりません。見張り番なら、家とか宮殿などを見張るはずです。砂の上に坐って、何を見張っているのですか。」 
 
「ちょっとした違いがある。あなたは屋敷に侵入しようとする外側の誰かを見張っているが、私はたんにこの『見守る者』を見張っている。この『見守る者』は誰か。これが一生をかけての努力だ。私は自分自身を見張っている。」 
 
「それは奇妙な仕事ですね。どんな報酬があるのですか。」 
 
バール・シェムは言った。 
 
「すばらしい至福、すばらしい喜び、はかりしれない祝福。それは、充分すぎるほどに報酬がある。ほんの一瞬であっても、それに比べればどんな財宝も無に等しい。」 
 
見張り番は言った。 
 
「不思議だ。私は一生見張りつづけているが、そんなすばらしい体験に出会ったことはありません。明日の夜、一緒に行きますから教えてください。私はどう見張るかは知っているのですし…それは、たんに別な方向が必要なだけのように思われます。あなたは違った方向を見張っているのでしょう。」
 
 
 
 
そこにはひとつのステップしかない。
そして、そのステップとは方向、次元のものだ。
 
私たちは外側に焦点を合わせる。
あるいは、外側に対して目を閉じ、内側の意識全体に中心を定める--そして、あなたは知る。あなたは知る者、あなたは 『気づき』 だ。それを失うことはけっしてない。ただ無数のものごとのなかで、『気づき』を、もつれさせているにすぎない。
 
あらゆるところから 『気づき』を取り戻し、
自分自身の内側で休ませなさい。
 
そうすれば、あなたは我が家に辿り着いている。 
 
 
瞑想の本質的な核心、その真髄は、
いかに『観照』するかを学ぶことにある。 
 
 
カラスが鳴く…あなたは聴いている。
 
ここには2つのもの、
「主体」と「客体」がある。
 
だが、そこに両者を見ている『観照者』が見えないだろうか。
 
カラス、
聴く者、
なおかつその両者を見守る誰かがいる。
 
これは非常に単純な現象だ。
 
あなたは木を見ている。
あなたがいて、木がある。
 
だが、もうひとつ発見できないだろうか。
 
自分が木を見ていることを、
そしてまた、木を見ている自分を見ている『観照者』が、あなたのなかにいることを…。
 
 
見守ること、『観照』することが瞑想だ。
 
 
何を見守るかは問題ではない。
 
 
木を見守ってもよい。
河を見守ってもよい。
雲を見守ってもよい。
子供たちが遊ぶのを見守ってもよい。
 
見守ることが瞑想なのだ。
 
何を見守るかは要点ではない。
 
対象は問題ではない。
 
観察の質、
気づき、
油断なく醒めているという質--
 
これが瞑想だ。 
 
 
いいかね。瞑想とは、『醒めて気づく』ことだ。
 
 
『気づき』ながらすることは何であれ瞑想だ。
 
 
行為が問題なのではなく、
行為に持ち込む質が問題なのだ。
 
油断なく醒めて歩けば、
歩くことが瞑想となる。
 
油断なく醒めて坐れば、
坐ることが瞑想となる。 
 
『気づき』をもって聴けば、
鳥のさえずりを聴くことが瞑想となる。
 
油断なく醒め、注意深ければ、
心の内なる騒音を聴くことが瞑想となる。
 
そのポイントのすべては、
 
「眠りのなかで動くべきではない」 
 
ということだ。
そうなれば、何をしようと瞑想となる。
 
 
 
『気づき』の第一歩は、「肉体」に注意することだ。
 
徐々に、
それぞれの仕草、
それぞれの動作に
油断なく醒めてくる。
 
そして気づくにつれて、奇跡が起こりはじめる。
 
以前していた多くのことが単純に消え失せる。
 
体は一層くつろぎ、ますます調和してくる。
 
深い平和が体のなかにひろがりはじめる。
 
妙なる音楽が体のなかで脈打つようになる。 
 
 
 
そうなったら、「思考」に気づきはじめなさい。
 
同じことが思考にも為されなければならない。
 
それは肉体より微妙で、もちろん、より危険でもある。
 
思考に気づくようになれば、自分の内部で起きていることに驚くだろう。
 
いつでもいいから、起きていることを書きとめてみれば、人は非常な驚きに見舞われるだろう。それが、自分の内側で起きていることだとは信じられない。 
 
そして、10分後に読んでごらん。
内側に狂ったマインド(思考、想念)を見るだろう。
 
私たちが気づいていないため、この狂気全体が潮流のように流れつづける。
 
それは、何をしていようと影響を及ぼす。
何もしていなくても影響を及ぼす。
それは、あらゆることに影響を及ぼす。 
 
 
その総計があなたの人生だ。
 
だから、この狂人が『変容』されなければならない。
 
 
そして、『気づき』 の奇跡とは、ただ気づくこと以外には何もいらないというところにある。 
 
 
まさに「見守る」という現象が、それを変える。
 
 
徐々に狂気は消え、ゆっくりと、「思考」が一定の型のなかに落ちつきはじめる。
 
もはや混沌はない。
 
それは、秩序あるものとなる。
 
そうなれば、再び、より深い平安に包まれる。
 
そして体と心がくつろいでいるとき、
人はそれらが協調し合っていることを知る。
 
そこには橋がある。いまや、体と心は別方向に走っていない。それらは別々な馬に乗ってはいない。そうして、はじめて、そこには調和がある。
 
 
そして、この調和は計り知れないほど第3ステップへの働きかけを助ける。
それは、自分の「感覚、感情、気分」に気づくようになることだ。 
 
 
それはもっとも微妙な層で、もっとも困難だ。
 
だが「思考」に気づけるようになれば、もう一歩だ。
 
もう少し強烈な『気づき』がいる。
そうなれば、自分の「気分、感情、感覚」を反映しはじめる。
 
ひとたびこの3つすべてに気づけば、
それらはすべてひとつの現象のなかに連結される。
 
そして、この3つが全体としてひとつであるとき--完璧に共に機能し、共にハミングしていれば、この3つすべての音楽が感じられる。それはオーケストラとなる。
 
 
そのとき、「第4のもの」が起こる。
 
 
あなたが為すことはできない。
それは、ひとりでに起こる。
それは全体からの贈り物であり、
この3つを済ませた者に対する恩恵だ。
 
 
「第4のもの」とは、
人を覚醒させる究極の『気づき』だ。
 
 
人は『気づき』に対して気づくようになる。
 
それが、「第4のもの」だ。
それは人をブッダ--覚者--にする。
 
その覚醒のなかでのみ、
人は至福のなんたるかを知ることになる。
 
 
 
肉体は快感を知り、
マインド(思考)は幸福を知り、
ハートは喜びを知り、 
「第4のもの」 は至福を知る。
 
 
 
至福がサニヤス--探求者たること--の目的であり、『気づき』がそこへ至る道だ。 
 
 
 
注意深く、見守ることを忘れない。
 
見守って…見守って…見守っていることが大切なのだ。
 
しだいに、
「見守る者」がより固定し、
定着し、
不動になり、
そして変容が起こる。
 
見守っていたものごとが消え失せる。 
 
そのときはじめて、
「見守る者」自身が見られるものとなる、
観察者自身が観察されるものとなる。
 
あなたは、我が家に辿り着いたのだ。 
 
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oshoの講話『新瞑想法入門』より
        
Meditation: The First and Last Freedom : A Practical Guide to Meditation
 
 
 
 
我が家…自分の内側にある『源泉』
 
その『源泉』を『思い出す』…サマサティ
 
瞑想は『源泉』を『思い出す』ことをサポートする1つのツールです。
 
 
 
 
sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。
 
 
『The last word of Buddha was, sammasati. 
 
Remember that you are a buddha – sammasati.』
 
 
瞑想と愛 (^-^)  meditation & love
 
 
 
 
花仙人