花仙人の日記

『全ては1つ』を「思い出す」sammasati

どの子供も社会によって破壊されている

どの子供も社会によって破壊されている



前回ブログでご紹介した、

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この記事に書かれているようなことは、
今にはじまったことではなく、

家庭内暴力児童虐待は昔からずーっとあります。

社会による精神的な暴力も昔からずーっとあります。

昭和の学生運動はそんな家族への、社会への若者たちの怒りの爆発だったのではないでしょうか。

怒りを外側へと爆発させることができない人間は、そのエネルギー全てを自分の内側に向けて自殺へ使います。

日本は世界からみても自殺者がとても多い国です。


わたしは長年他国で暮らす機会がありましたから、日本で生きている日本人をみていると本当に耐えに耐え続けて、我慢強くてすごいなーと感心します。

でも、そんな日本でも学生運動があったのですから、そのような勇気ある勇敢な1面もあるのだな〜と思いました。


社会のあり方が正しいとか間違っているとかの判断をし裁くことはしませんし、その適切な答えはないと思いますが、

昔も今も人間たちが苦しんでいるのは事実であり、だからこそ、今現在、家庭内暴力児童虐待や自殺者が多いということが数字でもあらわれていることが事実です。




「社会」というのは「人間」によって作られていますから、

どの子供も「社会」によって破壊されている

というのは、

どの子供も「人間」によって破壊されている

ということです。




破壊された子供たちがそのまま大人になり、
破壊された大人たちが社会を作り、
破壊された大人たちからまた子供が生み出され、
また子供たちが破壊され…

破壊された子供たちがそのまま大人になり、
破壊された大人たちが社会を作り、
破壊された大人たちからまた子供が生み出され、
また子供たちが破壊され…

という連鎖がずーっと続いています。




いつかどこかで、この破壊の苦しみの連鎖を絶たなければ、人間の大人も子供も破壊され続ける苦しみからいつまでたっても解放されません。



社会全体を変えることはできませんし、
他者を変えることはできません。

なぜなら、社会は人間によって作られていて、他者も人間です。

人間には心があり、
その心は手で触って動かすことはできません。

人間の心が動く時は「感動」した時だけです。

心が動いて、はじめて、人間は肉体を動かします。

人間は心が嫌だと感じる方向へは
なかなか肉体が動かないものです。


ですから、人間がすすんで動く時は、
「感動」した時だけです。


もちろん、暴力によって恐怖心を与える支配やコントロールによっても確かに肉体は動きますが、それにはやはり心に無理があります。

無理があるというのは、
「肉体の動き」と「心の思い」が同じではなく、違うこと「分裂」している時です。

心はそちらに行きたくないのに、
周りからの抑圧や支配により
肉体はそちらに行かなくてはならない時、

1人の人間の内側で分裂が起こります。

この「分裂」が苦しみです。



1人1人の人間の内側には『源泉』と呼ばれる魂が宿っています。

この魂(『源泉』)の声に従って生きている時、人間は至福を感じます。

しかし、

この魂(『源泉』)の声以外の誰かの指示や命令に従わなくてはならない時(その他者の指示や命令が正しいとか間違っているとか関係なく)、人間はみな「分裂」の苦しみを味わいストレスを感じます。


魂である『源泉』の中にはエゴ(欲)は一切ありません。

ですから、自分や他者のエゴ(欲)に従わなくてはならない時はすごいストレスとなり苦しみます。

魂である『源泉』は愛100%のエネルギーです。

ですから、自分や他者の愛によって生きている時は苦しみは一切なくストレスもありません。ただただ至福感があるのみです。



社会全体を変えることはできませんし、
他者を変えることはできません。

しかし、

人間は自分自身を変容させることはできます。



社会や他者のエゴ(欲)を満たすために自分を犠牲にして生きることをやめることはできます。

そして、

自分の魂である『源泉』の愛に従って生きる至福の生き方という本来の自然な状態の自分に戻る、という変容は誰でもできます。



いつ?どこで?

『今』「ここ」で。



キーワードは『今』「ここ」で、
now here です。



現実には「過去」も「未来」もないのですから、
『今』現在しか存在しませんから。



自分や他者のエゴ(欲)を満たすためにマインド(思考)に従って生きることは支配やマインドコントロールであるから苦しみます。

しかし、

自分や他者の全ての1人1人の人間が、自分の魂である『源泉』の愛で生きることは、苦しみであるエゴ(欲)やマインド(思考)の支配やマインドコントロールから「自由」になることです。

これが真の「自由」です。

自分や他者のエゴ(欲)とマインド(思考)を支配しコントロールすることは「自由」とはいいません。
それを「束縛」といいます。



あなたは破壊されたまま「束縛」を好んで生きて苦しみ続けますか?

それとも、

破壊された自分を癒し、真の「自由」を生きる至福の自分へと変容しますか?



他者のエゴ(欲)を満たすために自分が犠牲になることは愛ではなく苦しみです。


自分と他者に自由を与えることが愛です。



わたしは自由を愛します。
支配やマインドコントロールは好みません。

ですから、どちらの選択をするのも、
1人1人個人の自由選択に任せます。



今日は破壊ではなく愛を生きるためには…というoshoの講話の1部をご紹介します。


*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


質問…

社会は恵まれない人に対して責任がありますか?


osho…

ない。

まったくない。

社会はそもそも人びとを破壊しておいて、その上で、責任について話し始める。

どの子供も社会によって破壊されている、

彼の本性から気をそらされている、

彼が成るべきであったものから、気をそらされている。

存在が定めた、彼のあるべき姿から、気をそらされている。


最初に社会は彼の気をそらす、
彼の邪魔をする。

そして、

彼の気がそらされたなら、こうした偉大な公僕たちがやって来て言い始める、社会には責任があるのだ、と。


これは非常に狡猾なゲームだ。


まず、人を病気にさせておいて、そして、その後、あなたの責任をあなたの奉仕、義務、人間性、慈愛を満たそうとして…

薬を与える。

しかし、そもそも、なぜその人を打ったのか?


すべての子供はとても無垢に生まれるのだから、もしあなたが、彼らをあるがままのひとりにしておけたなら…


あなたが彼らを愛しているなら、
そして愛は責任ではない。


思い出したのだが、短い逸話がある。

ヒンズー教の僧侶がひとり旅をしていた。

一番高い場所にあるヒンズー教の聖地バディリ・ケダール ヒマラヤに向かう旅だ。それは長い旅で、退屈で、ちょうど彼の前にひとりの少女がいた。彼女は12歳か13歳以上でない。彼女が背負っていたのは少年だ。太って重い。

その出家僧はとても疲れていて、
その少女を追い越す際に彼は少女に言った。

「娘よ、疲れていることだろうね。たいそうな重荷を運んでいるから。」

少女はとても怒って言った

「重荷?重荷を運んでいるのはあなたでしょ、これは私の弟よ。」


愛は責任ではない。
愛は義務ではない。
愛はあなたの喜びだ。

だからあなたの愛からできることを何でもしなさい。

しかし、
あなたのキリスト教(宗教団体)からでなく、
あなたの主義からではなく、
責任感からではなく、だ。


さもなければ、
あなたは決してあなたの息子(子供)を許せないだろう。

そして、
あなたの息子(子供)も決してあなたを許せないだろう。


「義務」は汚い言葉だ。


義務からは決して何もしてはならない、

なぜならあなたはしぶしぶそれをしているからだ。

そうなると、それを誰のためにしていようと、あなたは侮辱していることになる。



子供はそこにいる、まるで花のように。

あなたはどんな責任をバラに持っているだろうか?

そう、水をやり、多少の肥料をやる。

しかし、それは責任ではない。

それはあなたの喜びだ…

なぜなら、あなたのバラはより大きく、そして、より芳香を増すだろうから。

あなたがしていることは、
あなたが得るであろうものと
比較したら何でもない。

あなたはどのような慈愛も
バラの茂みに与えてはいない。

実のところ、バラの茂みがあなたに慈愛を与えはじめる。

あなたは何をしたのか?

ただ少しの水と肥料を与えては世話をした。

そしたら、バラの茂みはすべての感謝とすべての花と共にやって来て、そして、あなたの家全体が芳香につつまれる。

突然、あなたは、もはや普通の家にはいない。
あなたは宮殿にいる。
あなたは楽園にいる。

そして、同じことが子供たちに起こる。

彼らもまた花なのだ。

彼らを養う、
しかしそれは
あなたの義務からではなく、
あなたの愛からだ。


もし愛がないなら、
どうか、
何もしないでほしい。 


さもなければ、あなたは
その子を破壊するだろう。


愛は唯一の安全だ。

子供は傷つきやすい。

慎重に扱うべきだ。

責任とはあまりに大きな言葉だ。

そして、重過ぎる。


義務はただ醜い。


子育てをなぜ喜び祝わないのだろう?

子供をひとりの人へと育てる過程になぜ喜びを持たない?


むしろあなたは彼(子供)をキリスト教徒(宗教団体の1人)にしようとしている。あなたは彼(子供)を教会に引きずって行く。あなたは彼(子供)に神を信じるよう強いる。

あなたは彼(子供)の中に恐怖を作り出している。

「もし、信じないのなら、お前は地獄に落ちるぞ。」と

あなたは彼(子供)の中に欲を作り出している。

「もしお前が教会の方針に従うならお前は千倍の報酬を得るだろう、死後、天国で。」

あなたは彼(子供)の全人生を破壊するだろう。

そしてあなたはいい気分になるだろう、

自分は責任を果たしたと。


これは責任ではない。

これはただの無責任だ。


感応は、ただ、あなたの、
愛のハートからのみ来るべきだ。

もしあなたが子供を愛していたら、
子供に彼自身の真実を見つけてほしいはずだ。

あなたは彼(子供)に借りものの真実で生きて欲しくはないはずだ。

あなたの子供なのに借りものの真実で生きる…


あなたはいったい何をしているのか?

彼(子供)を乞食にしようというのか?


あなたは自分の子供が彼の理屈に逆らって彼の意思に逆らって従順であっては欲しくないだろう。

あなたは子供に教えるだろう。

「服従は美徳ではない、
不服従も美徳ではない、

お前は選ばなければならない

私たちはお前に、
私たちが理解したことを何でも提供できる、

しかし、それは完全ではない、

絶対確実ではない。

私たちは生で体験してきたこと、

すべてを並べてあげられる、

そして、

それを選ぶか選ばないかは

お前次第だ。


お前はお前自身にならなくてはならない。

ただ私の息子(子供)であるのではなく、だ。」


彼(子供)はあなたを通じてやって来る。

しかし、彼(子供)はあなたのものではない。

あなたは通路だった…

しかし、もし道路が

道路を歩く人びとにあれこれ要求を始めたら、ちょっと考えてみてごらん。

どれほどより困難な人生になることだろうか。

道路を旅行しだしたとたん、
その道路は言う

「止まれ!今からどこに行くんだ?」

そして両親とは、道路以外の何ものでもない。




Question…
DOES SOCIETY HAVE A RESPONSIBILITY TO ITS DISADVANTAGED PEOPLE?


osho…

No. 
None. 

Society has destroyed people in the first place and then starts talking about responsibility. 

Each child is being destroyed by the society, 
distracted from his nature, 
distracted from what he was going to be, 
what existence has meant him to be.


First the society distracts him, disturbs him, 
and when he is disturbed
then these great public servants start coming and saying that the society has responsibility. 

This is a very cunning game.

First make a man sick and then run to fulfill your responsibility, service, duty, humanity, compassion, 

and bring medicine. 

But why hit the person in the first place?


All children are born so innocent that if you can just leave them alone to be themselves...

If you love them, and love is not a responsibility...


I am reminded of an small anecdote. 

One Hindu monk was traveling towards the highest Hindu sacred place, Badri* Khedar*, in Himalayas. It is a long journey, tedious. And just in front of him, a small girl, not more than twelve or thirteen years old, was carrying a boy, fat and heavy. 

The sannyasin was too much tired and just when he was passing the girl, he said to the girl,

"My daughter, you must be tired. You are carrying so much weight." 

The girl was very much angry. She said, 

"Weight? You are carrying weight. This is my brother."

Love is not a responsibility. 
Love is not a duty. 
Love is your joy. 

So out of your love do whatever you can do, 

but not out of your Christianity, 
not out of your ideology, 
not out of a sense of responsibility. 

Otherwise you will never be able to forgive your son, 

and neither your son will be able to forgive you ever. 


Duty is a four-letter dirty word. 


Never do anything for the sake of duty, because you are doing it reluctantly. 

And whomsoever you are doing, you are humiliating. 


Children are there just like flowers. 

What responsibility you have towards the roses? 

Yes, to give water, some manure, 
but that is not responsibility. 

That is your joy, 
because your roses will be bigger and more fragrant. 

What you are doing is nothing in comparison to what you are going to get. 

You are not doing any compassion on the rosebush. 

In fact the rosebush is being compassionate towards you.

What you have done? -- just put a little water, manure, taken care. 

And the rosebush comes with all its thankfulness, with all its flowers, and your whole house becomes fragrant. 

Suddenly you are no more in an ordinary house; you are in a palace, you are in paradise.

And the same happens with children. 

They are also flowers. 

Nourish them, but that is not your responsibility, 
that is your love. 


If there is no love, 
please don't do anything. 


Otherwise you are going to destroy the child. 


Love is the only safety. 

The child is too fragile. 

Handle it with care. 


Responsibility is too big a word and too heavy.


Duty is just ugly. 


Why not rejoice in nourishing the child? 

Why not enjoy in making him an individual? 

But you are trying to make him a Christian. You are dragging him to the church. You are forcing him to believe in a God. 

You are creating fear in him. 

If you don't believe, you will go to hell. 

You are creating greed in him. 

If you follow the church line, you will be rewarded thousandfold in heaven after death. 

You will destroy his whole life, 

and you will feel great that you have done your responsibility.


This is not responsibility; 

this is simply irresponsibility. 


A response should come only out of your loving heart. 

If you love the child, 
then you would like the child to find his own truth. 

You would not like him to live on a borrowed truth. 

Your child and living on a borrowed truth. 

What are you doing? -- making him a beggar? 

You will not like your child to be obedient against his reason, against his will. 

You will teach the child that 

”obedience is not a virtue. 
Neither disobedience is a virtue. 

You have to choose.

We can offer you whatever our understanding is, which is not perfect, which is not infallible. 

We can place everything that we have experienced in life, and it is up to you to choose or not to choose. 

You have to be yourself, 

not just my son. ”


He has come through you, 

but he does not belong to you. 


You have been a passage, 

but if roads start claiming people who walk on the roads, just think how much more difficult life will become. 

Once you travel on a road, the road said, 

"Stop! Now where are you going?"

And what are parents except roads?


from osho talks
oshoの講話より

The Last Testament, Vol 2 

Interviews with the World Press

Talks given from 21/08/85 pm to 21/09/85 pm 

English Discourse series
30 Chapters

Chapter #3
Chapter title: None

23 August 1985 pm in Jesus Grove


この講話の英語のダウンロードpdfはこちら。


この講話の1部のYouTubeはこちら。
日本語字幕もあります。

osho: Dose society have a responsbility to its disadvantaged people

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*  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  〜   *  


親たちも、
無垢な赤ちゃんで生まれてきました。

みんな無垢なまま
何一つ持たない裸のまま生まれてきました。

誰かが悪いということではないのです。



破壊された子供たちがそのまま大人になり、
破壊された大人たちが社会を作り、
破壊された大人たちからまた子供が生み出され、
また子供たちが破壊され…

破壊された子供たちがそのまま大人になり、
破壊された大人たちが社会を作り、
破壊された大人たちからまた子供が生み出され、
また子供たちが破壊され…

という連鎖がずーっと続いています。



社会や他者に助けを求めても、
助けはないことが
メシア(救世主)はやってこないことが
もう今の人間には『理解』できています。


だから、あきらめ自殺を選ぶのですよね。


しかし、この苦しみの連鎖から、
自分は自分を助け出すことはできるのです。


いつ、どこで?

『今』「ここ」で。

now here


この苦しみの連鎖に

『気づき』、『理解』し、『手放す』

苦しみの連鎖を自分からやめる、

これが今1人1人の人間が唯一できる、

愛の変容です。

真に自分と他者に自由を与える愛です。


自分だけが自分のメシア(救世主)です。


社会や他者を変えることは不可能ですが、

自分を自分で変容させることは可能です。


1人1人が自分を救いだせたら…


周りに働きかける必要はなく、
この世界は自然と楽園になります。


まずは自分からです。


他者と暴力で戦うか…
自分を愛し癒すか…


破壊された自分を愛し癒して自由になっていいのです。


他者への暴力ではなく、
健全なやり方で怒りを吐き出し、

自分を癒すことだけでなく、

どんな小さいことでもいいので、
自分が楽しい!と感じることもはじめてみましょう。


破壊による怒りによってネガティブに傾いた自分をポジティブへと傾け、

ネガティブでもなく、
ポジティブでもなく、
その両極の真ん中(中庸)に在ること、

自分の本来の自然なバランスを取り戻しましょう。


自分のエゴ(欲)により他者を犠牲にするのではなく、
自分が他者のエゴ(欲)の犠牲となるのではなく、

自分の至福には自分で至ることにエネルギーを使い、

1人1人が自分の人生を生きることができる真の至福となりますように…


世の中にはたくさんの癒し方があります。
その中の一つに瞑想もあります。


ご自身にあった癒し方は必ずあります。



sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。


『The last word of Buddha was, sammasati. 

Remember that you are a buddha – sammasati.』


瞑想と愛 meditation & love



花仙人