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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

意識の成長の旅⑥

意識の成長の旅⑥
 
 
(カテゴリにある二元性シリーズと意識の成長の旅シリーズを読まれていることを前提に書いていますので、読まれていない人には意味不明な説明になっていると思います…)
 
 
先月の2月26日は
魚座新月でしかも日食でした。
 
知り合いの占星術の方のお話しでは
この星の配置の日(あたりの日に)
本当には必要のない持っている全てのものを
全て『手放し』
真っさらな 0(ゼロ)の状態となると
苦しみがなくなる…
のだそうです。
 
なんだかこのブログでご紹介しているお話しのようなことと同じことを話されていました。
 
 
なにか『手放し』はありましたか?
 
 
わたしの場合は
このブログの意識の成長の旅シリーズの中の
第6チャクラの第3の眼で
見えたり聞こえたりすることで
子供のころからのなでなでのことや
見えている『魂(源泉)』のことなどの
光明 enlightenment までの実体験のお話しは
死ぬまで封印して秘密にしておこう…
と思っていた封印を『手放し』たことかな。
 
それはごく数人の知り合いにしか話していなかったことだけど
もしかしたら
こんなお話しでも
もしかしたら
みんなの苦しみが楽になる?『気づき』のきっかけになれれば…かな…
と思い
思いきってブログで全宇宙に大告白大会してみたりしましたσ(^_^;)
 
 
光明 enlightenment が起こったことを
カミングアウトするのも
あれなんだけどσ(^_^;)
さらに『魂(源泉)』の構造とかを
カミングアウトするのも
もう…(・_・;…あれだからさσ(^_^;)
 
f:id:hanasennin9:20170302094020j:image
 
『魂(源泉)』にかんしては
 
 
*     *     * 
 
あなたは愛だ。
 
愛は「対象」に「依存」するのではなく、
あなたの「主体」から放たれる輝きだ。
 
あなたの「魂」が放つ輝きだ。
 
この放出される輝きが広大なほど、
あなたの魂はより大きい。
 
愛の翼を大きく広げるほど、
あなたの存在の天空はさらに広大になる。
 
You are love.
 
Love is not dependent on the object, 
but is a radiation of your subjectivity – 
 
a radiation of your soul. 
 
And the vaster the radiation, the greater is your soul. 
 
The wider spread are the wings of your love, the bigger is the sky of your being.
 
from osho talks
 
The Rebellious Spirit
CHAPTER 5 : God has no hands
12 February 1987 pm in Chuang Tzu Auditorium
 
 
*     *     *
 
 
と、
oshoもお話ししていることだし
封印を『手放し』て
カミングアウトしてみました。
 
 
ま、今の地球の現実では
女だしアホだしブスだし…
の三拍子そろったおめでたいわたしはσ(^_^;)
まったく誰にも見向きもされないから
何を話してもスルーされるから
逆に
無視されているぶん
光明 enlightenment 後はさらに
怖いもんなしになるから何でも伝えられる(^-^)/
ブログだし独り言だからいいかな…
みたいなσ(^_^;)
 
もし
誰かが読んでいて…
たった1人でも
ご自身で自分を苦しみから救いだせる人がいたら
よかったな…
と思えるから…
 
みたいな小さな声でひそかに応援なんかしてみていますσ(^_^;)
 
 
男の人だと
光明 enlightenment が起こっても
カミングアウトしたら
きっとすごく嫉妬されたりして
大変になると思うから…
 
光明 enlightenment 後は
エゴ(欲・自我)がないから
それは
「私(自分)」がもうないから
嫉妬されることはなんとも思わないのだけど
 
他者に嫉妬させることは
他者に苦しみを与えることになるから
なるべく他者に苦しみを与えないように…
という思いはあるから…
 
世界中を見ても、
日本の禅寺を見ても、
「過去」を振り返って見たら
男の人が光明 enlightenment したことを
カミングアウトするのは(・_・;…
いろいろあったようなので…
 
 
わたしはおしゃかさまからの司令により
必然でカミングアウトしましたが
(それでも2年間は司令を無視し続けたダメな弟子ですがσ(^_^;))
男の人でも女の人でも
光明 enlightenment が起こっても
無理にカミングアウトする必要はないから…
 
 
oshoは無理やりなことはぜーたいにさせない
甘くあまく甘あまな超優しい導師だから(-_^)
カミングアウトしなくても
なんにも言わなかったけど…
 
おしゃかさまはね…(~_~;)…
 
いやいや…
わたしがあまりにもぐーたらなもんでσ(^_^;)
 
 
というわけでσ(^_^;)
瞑想 meditation は大好きで
自発的にしてきたことだけど、
やはり
生まれる前から決まっていた
導師oshoに弟子入りしそのおかげで
苦しみの輪サンサーラから永遠の離脱ができ
光明 enlightenmentの体験が起こったと
わたしは感じるから…
 
導師oshoだけでなく全ての導師たち
全ての存在への
恩返しとしては…
 
実体験と同じだった
oshoの長年の講話をみなさんにご紹介することかな…
 
アホだからメッセンジャーくらいのことしかできないからさσ(^_^;)
 
 
子供のころから見えていた
人間のお腹のお臍のあたりにある
『魂(源泉)』が
愛と光の波動であることは
なんとなく感じてわかっていたけど
導師oshoもそうお話するし
 
なにしろ
導師oshoからいただいた
わたしの弟子の名前が「愛と光」だったから
 
愛と光の波動である
 
『魂(源泉)』のお話しは
やはり
見えてるまんまカミングアウトするのかな…
 
と奥深いところからわかったから
下手な絵や文で申し訳ないが
ブログでご紹介なんかしてみたよσ(^_^;)
 
 
死ぬまで封印しようと思っていた
封印を開封してみたよσ(^_^;)
 
 
ご紹介だから
ほんと
こんな不思議なお話しを
信じるとかの必要はありませんからねσ(^_^;)
 
 
ぜひ
ご自身で光明 enlightenment を体験してみて
そうだったのか〜!
と『理解』が起こった
 
ご自身の実体験を『信頼』されることが
なによりも大切なことですからね(-_^)
 
読んだら忘れてやってくださいσ(^_^;)
 
『気づき』のきっかけになれれば…
みたいなブログなので…
 
ま、そんな2月26日の
魚座新月の日食の封印の『手放し』でした。
 
 
知り合いによると
日食ですから
この日だけでなく
この日から約半年間くらいは
全てを『手放し』真っさらな 0(ゼロ)の状態になる
ことをサポートする効果があるのだそうです。
 
人間と同じ素粒子で作られている
素粒子兄弟の宇宙の星全体から
そのようなサポートや応援が入っているのだとしたら
なんだか勇気が持てる感じもします(-_^)
 
 
『手放す』って
「過去」から「今ここ(現在)」まで
人間がどうしてもつかんで放せないモノを
『手放す』ってことでもありますよね。
 
それをつかんで『手放せない』から
苦しみは続くのですが…
 
 
わたしの長年の実体験からは
瞑想 meditation は
 
その絶対に『手放す』ことができない
と思い込んでいた
 
「過去」から「今ここ(現在)」まで持ち歩いた
自分が生み出した
自分の内側にある
苦しみの原因(種)である
◯ マインド(思考)
◯ エゴ(欲・自我)
『気づく』
『観る(観照)』
『手放す』
 
ことが
 
人間の一部分である
皮膚を無理やり引き剥がす
痛みではなく
 
人間の一部分ではない
とってつけたような服を脱ぎ去るように
痛みのない
自然な感じで
 
起こっていき
 
その全てを『手放せ』
真っさらな 0(ゼロ)になり
 
自分の内側のお腹のお臍のあたりにある
『魂(源泉)』を再び「感覚」で『思い出し』
 
『宇宙全ての存在』と『1つ』であることを
再び「感覚」で『思い出し』ました。
 
それこそが
苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱であり
光明 enlightenment でした。
 
 
*     *     *
 
瞑想とは、
すべての
障害、
思考、
感情、
感傷を
退かせること以外のなにものでもない。
 
それらがあなたと存在との間に壁を築く。
 
それらが落ちるやいなや、
あなたは突然、
自分が全体と調和していることに気づく。
 
調和しているだけではなく、
自分が全体だということにほんとうに気づく。
 
 
1個の水滴が蓮の葉から海に滑り落ちるとき、
それは自分が海の一部だということに気づくのではない。 
 
自分が海だということに気づくのだ。
 
そして、
それに気づくことが、
究極のゴールだ。
 
それを超えるものはなにもない。
 
from osho talks
oshoの講話より
 
*     *     *
 
 
 
とoshoや多くの導師たちが伝え続けている瞑想 meditation。
 
今日は
2月26日の日食もあったこともあり
『手放し』をサポートする瞑想 meditation…
わたしの長年の実体験からも
 
無理なく
副作用や後遺症なく
安心で安全に
 
知識も必要なく
マントラや魔術も必要なく
お金も必要なく
(0円で0になる(^-^)/)
 
自分の身体さえあれば
いつでもどこでもできる
 
光明 enlightenment に導く
完全なる癒しの
1つのツールだな〜
と思う
瞑想 meditation の
歴史?
みたいな5千年前からのお話しを
少しだけoshoの講話からご紹介します。
 
 
 
*     *     *
 
 
3つのクォンタムリープ
 
 
質問…
 
Osho、
ゴータマ・ブッダとともに、
宗教はクォンタムリープを遂げました。
 
神は無意味になり、
瞑想が重要になりました。
 
いま、ゴータマ・ブッダから25世紀を経て、
再び宗教があなたの臨在のなかでクォンタムリープを遂げつつあり、
宗教性になろうとしています。
この現象について話していただけますか。
 
 
 
osho…
 
宗教にクォンタムリープをもたらした功績は、
ゴータマ・ブッダより25世紀前のアディナタにさかのぼる。
 
彼は初めて、神のいない宗教を説いた。
 
神なしで宗教がありうるとは
世界のどこでも思われていなかったので、
それは途方もない革命だった。
 
神はすべての宗教、キリスト教ジャイナ教、回教の不可欠な部分--中心--でありつづけてきた。
 
だが、神を宗教の中心に据えると、
人間はただの周辺にすぎなくなる。
 
神を世界の創造主として思い描くと、
人間は操り人形にすぎなくなる。
 
だからこそ、
ユダヤ教の言語、ヘブライ語では、
人間はアダムと呼ばれている。
 
「アダム」とは泥という意味だ。
アラビア語では、人間は「アドミ」と呼ばれ、
それは「アダム」に由来しているが、
それもまた、泥という意味だ。
 
一般的にキリスト教の言語となった英語では、
ヒューマンという言葉は「ヒューマス」に由来し、
ヒューマスとは泥という意味だ。
 
 
もちろん、
もし神が創造主であったら、
神はなにかで創らなければならない。
彫像のように、人間を造らなければならない。
 
だから、
神はまず泥で人間を造り、 
人間に命を吹き込む。
 
 
だが、
もしこれが事実であれば、
人間はすべての尊厳を失う。
 
そして、
もし神が人間と他のあらゆるものの創造主だとしたら、
その思いつき全体が気まぐれだ。
 
というのも、
神は人間と宇宙を創造する前の永劫のときを、
いったいなにをして過ごしていたのかね?
 
 
キリスト教によると、
神が人間を創造したのは、
イエス・キリストのわずか4,004年前にすぎない。
 
ということは、
彼はその永遠のときを、
いったいなにをしていたのか? 
 
だから、
気まぐれのように思えるのだ。
理由はなにもありえない。
 
というのも、
神が存在を創造しなければならなかった理由があるということは、
神よりも高度な力がある、
神に創らせるだけの理由があるということを意味するからだ。
 
あるいは、
彼のなかで突然、
欲望がわいてきたということもありうる。
 
それもまた、
哲学的にみて、それほど深遠ではない。
 
なぜなら、
永遠にわたって、彼は無欲だったことになるからだ。
 
そして、
無欲であることはあまりにも至福に満ちているから、
永遠の至福の体験から世界を創造したいという欲望が彼のなかでわいてくることなど、
思いも及ばない。
 
家を建てたかろうと、
首相になりたかろうと、
世界を創造したかろうと、
欲は欲だ。
 
そして、
神に欲があるとは、思いも及ばない。
 
だから、
唯一残るのは、
彼は気まぐれ、常軌を逸しているということだけだ。
 
そうだとしたら、
理由は必要ないし、
欲もいらない…ただの出来心。
 
 
だが、
もしこの全存在が気まぐれによるものだとしたら、
それはすべての意味、
すべての意義を失う。
 
そして、
明日には彼のなかで、
全宇宙を破壊しよう、
消滅させようという、
別の気まぐれがわいてくるかもしれない。
 
だから、
私たちは、
すべての力をもってはいるが
正気ではない、
気まぐれな、
独裁的な
神の手の内にある操り人形にすぎないのだ。
 
 
このことを
5千年以上も前に思いつくとは、
アディナタは
ひじょうに深い瞑想者、観照者だったにちがいない。
 
そして、
神といっしょだと、
世界に意味はないという結論に達していたにちがいない。
 
もし私たちが世界に意味があってほしいと思うのなら、
そうであれば、
神は始末されなければならない。
 
彼はすばらしく勇気のある人にちがいない。
 
人びとはいまだに教会で、
寺院で祈っている。
 
それなのに、
あの人、アディナタは、
私たちより5千年も前に、
人間、
そして、
人間の内側と人間の意識に起こるであろう
どんな革命よりも高度なものはなにもないという、
ひじょうに明確な結論に達していたのだ。
 
 
 
これが最初のクォンタムリープ--神は始末された。
 
 
 
アディナタはジャイナ教の最初のマスターだ。
 
ゴータマ・ブッダはアディナタの25世紀後に登場するから、
功績はゴータマ・ブッダのものではない。
 
だが、
もうひとつ別の功績はゴータマ・ブッダによるものだ。
 
アディナタは神を始末したが、
瞑想をしかるべき場所にうまく置けなかった。
 
逆に、
彼は
苦行、
禁欲、
体を痛めつけること、
断食、
裸のままでいること、
1日1回の食事、
夜には飲みものをとらないこと、
夜には食べないこと、
ある一定の食べものしかとらない
ということを生みだした。
 
彼はすばらしい哲学的結論に達していたが、
その結論は哲学的なものにすぎず、
瞑想的なものではなかったようだ。
 
 
神を始末したら、
どんな儀式もありえない、
どんな礼拝もありえない、
どんな祈りもありない。
 
なにかで代用しなければならない。
 
 
彼は禁欲で代用した。
 
 
というのも、
人間はみずからの宗教の中心になったのだから、
自分を浄化しなければならないからだ。
 
彼の概念における純粋さというのは、
人間は世界とのつながりを絶たなければならない、
自分自身の体とのつながりを絶たなければならない
ということだった。
 
 
これが事の全体を歪めてしまった。
 
 
彼はひじょうに意義のある結論に達していたが、
それは哲学的概念にすぎないままだった。
 
 
アディナタは神を始末したが、
真空状態を残し、
ゴータマ・ブッダがそれを瞑想で埋めた。
 
 
アディナタは神のいない宗教をつくり、
ゴータマ・ブッダは瞑想的な宗教をつくった。
 
 
瞑想はゴータマ・ブッダの貢献だ。
 
体を痛めつけることが問題なのではない。
 
 
問題は、
もっと沈黙すること、
もっとくつろぐこと、
もっと穏やかになることだ。
 
 
 
それは、
意識の自分自身の中心に行きつく旅であり、
自分自身の意識の中心は全存在の中心だ。
 
 
 
再び25世紀が経った。
 
神のない宗教というアディナタの革命的な概念が、
禁欲と自虐という砂漠にまさに失われてしまったように、
 
瞑想--
なにか内なるもの、
自分以外の誰にも見ることのできないなにか、
自分がどこにいるのかはあなたにしか分からない、
自分が進んでいるのかどうかはあなたにしか分からない--
というゴータマ・ブッダの考え方も、
もうひとつ別の砂漠に失われてしまった。
 
それが組織宗教だった。
 
 
最初のうちはそれでよかった。
 
ゴータマ・ブッダが生きていた間は、
光明 enlightenment に行きついた人びとがたくさんいた。
 
だが、
ゴータマ・ブッダが死に、
そうした人たちも死ぬと、
 
人びとの瞑想を助けるはずの
組織そのものが
聖職者たちの手に落ち、
 
彼らは瞑想を助けるどころか、
ゴータマ・ブッダの像のまわりに
儀式をつくりはじめた。
 
ゴータマ・ブッダがもうひとつ別の神になったのだ。
 
アディナタは神を始末し、
ゴータマ・ブッダは神が存在することをけっして認めなかったが、
 
この聖職者たちは、
神なしでは存在しえなかった。
 
 
そこで、
創造主である神はいないだろうが、
ゴータマ・ブッダが神の地位についたのだ。
 
 
他の者にとっては、
ゴータマ・ブッダを崇拝し、
ゴータマ・ブッダを信仰し、
ゴータマ・ブッダの信条に従い、
彼の教義に合わせて人生を生きるしかない。
 
そして、
 
ゴータマ・ブッダ組織
模倣のなかに失われた。
 
 
だが、
彼らはみな、
基本的なことを忘れてしまった。
 
それが瞑想だったのだ。
 
 
私の全努力は、
宗教のない瞑想を創ることだ。
 
神が中心にいる宗教はどうなったか、
私たちは見てきた。
 
アディナタの革命的な概念、
神のない宗教がどうなったか、
私たちは見てきた。
 
ゴータマ・ブッダ--
神のいない、
組織化された宗教がどうなったか、
私たちは見てきた。
 
 
いま、
私の努力は--
まさに彼らが神を消滅させたように--
宗教も消滅させることだ。
 
どのような意味でも忘れ去られることがありえないように、
瞑想だけを残す。
 
それに置き換わるものは、
他になにもない。
 
神もいないし、
宗教もない。
 
宗教ということで、
私は、
組織化された
教義、
信条、
聖職
のことを言っている。
 
 
そして、
初めて、
私は宗教が
完全に個人的なもの
であってほしい。
 
 
というのも、
組織されたすべての宗教が、
神がいようといまいと、
人類を誤った方向に導いてきたからだ。
 
 
そして、
唯一の原因は、
組織にある。
 
 
組織には
瞑想性に逆らう
独自のやり方があるからだ。
 
組織は、
実際には政治的な現象だ。
宗教的ではない。
 
それは権力と権力欲の、
もうひとつ別の道だ。
 
 
さて、
キリスト教の聖職者たちはみな、
いつの日か少なくとも
司教になりたい、
枢機卿になりたい、
法王になりたい
と願っている。
 
これは
新しい階級制、
新しい官僚制であり、
精神的なものであるために、
誰も異議を唱えない。
 
あなたは司教かもしれない、
法王かもしれない、
なんでもいいだろう。
 
あなたは誰かの人生の邪魔をしようとしているわけではないから、
異議を差しはさめない。
抽象的な概念にすぎないのだ。
 
 
私の努力は、
聖職を完全に壊すことにある。
 
それは神とともに居残った。
神のない宗教とともに居残った。
 
いま、
唯一の道は、
どんな聖職もありえないようにするために、
私たちは
神と宗教の両方を始末しなければならないということだ。
 
 
そのときこそ、
人間は完全に自由だ。
 
 
自分自身の成長の責任はすべて自分にある。
 
 
私の感じでは、
人は自分の成長に責任をもてばもつほど、
その責任を後回しにするのがむずかしくなる。
 
もし自分が惨めなら、
その責任は自分にあることになるからだ。
 
緊張していたら、
その責任は自分にある。
 
リラックスしていなかったら、
その責任は自分にある。
 
苦しんでいたら、
その原因は自分なのだ。
 
 
なにか儀式を頼みにいけるような、
神、聖職はない。
 
 
あなたは自分の惨めさとともに、
独り取り残される。
 
そして、
惨めでありたい人などひとりもいない。
 
 
聖職者たちは、
あなたがたに
アヘンを与えつづける、
希望を与えつづける。
 
「心配することはありません。
それはあなたの信仰心を、
あなたの信頼を試すためのものにすぎないのです。
この惨めさと苦しみを静かに、
我慢強く通り抜けることができたら、
死後のあの世で、
あなたはすばらしい報いを得ることになるのです」。
 
もし聖職がなかったら、
あなたは自分がどうあろうとも、
その責任は自分にあり、
他の誰にもないことを理解しなければならない。
 
 
そして、
「自分の惨めさの責任は自分にある」
という感触が、
扉を開く。
 
そうなったら、
あなたは
この惨めな状態から抜けだす技法と手段を探しはじめる。
 
それが、
瞑想とはなにかということだ。
 
 
それは、
惨めさ、
苦しみ、
苦悩、
苦悶
のまさに反対の状態だ。
 
 
実存
平和で、
至福に満ちて開花している境地、
あまりにも静かで、
時間が存在しないから、
なにかそれ以上によいものがありうるとは思いも及ばない。
 
そして、
瞑想的な心の境地よりも優れているものはなにもない
 
 
 
 
だから、
これが3つのクォンタムリープだと言っていい。
 
アディナタは、
神が人間にとってあまりにも重荷になっている、
成長を助けるのではなく、
重荷になっていることに気づき、
神を落とした--
だが、
彼は神をなにかに置き換えることを忘れた。
 
人は惨めなとき、苦しみのさなか、なにかを必要とする。
 
これまではいつも神に祈っていた。
 
あなたは神を取りあげたのだ、
人の祈りを取りあげたのだ。
 
そして、
今度惨めになったとき、
その人はどうすればいいのかね? 
 
ジャイナ教に瞑想の場はない。
 
 
神は落とされたと見るのは、
ゴータマ・ブッダの洞察だ。
 
今度は、
その隙間が埋められなければならない。
 
さもなければ、
その隙間が人間を壊してしまう。
 
彼は瞑想をはめ込む--
ほんとうに真正ななにか、
全存在を変えることのできるなにかだ。
 
 
だが、彼は気づいていなかった--
起こってみなければ気づきようのないことがあるから、
おそらく彼は気づくことができなかったのだろう--
 
組織はあってはならないということ、
聖職はあってはならないということ、
神がいなくなったのであれば、
宗教もなくならなければならないということだ。
 
だが、
彼は許される。
 
彼はそんなことは考えたこともなかったし、
そのことを知る助けとなる過去の出来事もなかったのだ。
それは彼の後に登場してきた。
 
 
ほんとうの問題は聖職者だ。
そして、
神は聖職者の発明だ。
 
聖職者を落とさない限り、
神を落とすことはできない。
 
だが、
聖職者はつねに新しい儀式を見つけだす。
新しい神をつくり上げる。
 
 
 
 
私の努力は、
あなたを瞑想とともに独りにすることだ。
 
あなたと存在との間にどんな仲介者も入れずに。
 
瞑想に入っていないとき、
あなたは存在から切り離されていて、
それがあなたの苦しみだ。
 
魚を海から取りだし、
岸に放り投げるのと同じだ--
 
彼は海に属しているのだから、
経験するその惨めさと苦しみと拷問、
海に戻りたいという熱望と努力。
 
彼は海の一部だから、
離れてはいられない。
 
 
どんな苦しみも、
あなたは存在と一体になっていないということ、
魚は海にいないということを示しているにすぎない。
 
 
瞑想とは、
すべての
障害、
思考、
感情、
感傷
を退かせること以外のなにものでもない。
 
それらがあなたと存在との間に壁を築く。
 
それらが落ちるやいなや、
あなたは突然、
自分が全体と調和していることに気づく。
 
調和しているだけではなく、
自分が全体だということにほんとうに気づく。
 
1個の水滴が蓮の葉から海に滑り落ちるとき、
それは自分が海の一部だということに気づくのではない。
 
自分が海だということに気づくのだ。
 
そして、
それに気づくことが、究極のゴールだ。
 
それを超えるものはなにもない。
 
 
 
 
だから、
アディナタは神を落としたが、
組織を落とさなかった。
 
そして、
神がいなかったために、
その組織が儀式をつくり上げた。
 
ゴータマ・ブッダは、
ジャイナ教に起こったこと、
儀式主義になってしまったことを見て、
神を落とした。
 
彼はすべての儀式を落とし、
瞑想という1点に絞って力説した。
 
だが、
彼は、
ジャイナ教で儀式をつくり上げた聖職者たちが
瞑想でも同じことをするだろうということを忘れていた。
 
そして、
彼らはそうした。
 
ゴータマ・ブッダそのものを神にしたのだ。
 
彼らは瞑想について語るが、
基本的に、
仏教徒はゴータマ・ブッダの崇拝者だ--
 
彼らは寺院に行き、
そこにはクリシュナやイエスの代わりに
ゴータマ・ブッダの像がある。
 
ゴータマ・ブッダの後、
5百年間、ゴータマ・ブッダの像はなかった。
 
仏教寺院には、
ゴータマ・ブッダがその下で光明 enlightenment を得た樹が大理石に彫られ、
ただの象徴として、
あるだけだった。
 
ゴータマ・ブッダはそこにいなかった。
樹だけだ。
 
 
 
あなた方は驚くだろうが、
私たちが今日目にするゴータマ・ブッダの像は、
ゴータマ・ブッダの人となりに似ているものではまったくなく、
アレクサンダー大王の人となりに似ている。
 
アレクサンダー大王はゴータマ・ブッダの3百年後にインドにやって来た。
 
それまで、ゴータマ・ブッダの像はなかった。
 
聖職者たちは探し求めた。
写真はないし、絵はないし、どうやってゴータマ・ブッダの像をつくればいいのか? 
 
ところが、
アレクサンダーの顔は見たところほんとうに超人的だったし、すばらしい人となり、ギリシア人の顔、体格を備えていた。
 
彼らはゴータマ・ブッダの顔と体の面影として、
アレクサンダーを採りいれた。
 
だから、
仏教寺院で礼拝されている像はすべて、
 
ゴータマ・ブッダとはなんのかかわりもない。
 
だが、
聖職者たちは像をつくらなければならなかった--
神はいなかった、
儀式はむずかしかった。
 
瞑想のまわりに儀式というのは、
むずかしかった。
 
彼らは像をつくり、こう言いはじめた--
 
すべての宗教がやりつづけているのと同じ方法で--
 
ゴータマ・ブッダを信じなさい、
ゴータマ・ブッダを信頼しなさい、
そうすれば、あなたは救われる、
と。
 
 
 
革命は両方とも失われた。
 
 
 
私は自分のやっていることが失われてほしくない。
だから、
過去において革命が持続し、
成長するのを妨げてきた、
こうしたすべての物事を落とすために、
私はありとあらゆる手を尽くしている。
 
 
私は、
個人と存在との間に
誰も立ちはだかってほしくない。
 
 
祈りはない、聖職者はいない。
 
日の出に対面するには、
あなただけで充分だ。
 
日の出がいかにすばらしいかを説明してくれる人など、
あなたには必要ない。
 
 
 
 
老子は毎朝、
よく丘に散歩に出かけたと言われている。
 
ある友人が彼にたずねた。
 
「いつか、私もご一緒していいですか? 
とくに明日だと、都合がいいのです。
あなたにとても関心を抱いている客がいて、
山のなかで2時間、
あなたといっしょにいられる機会が得られれば、
とても喜ぶことでしょう」
 
老子は言った。
 
「かまわないよ。
ただ、単純なことだけど、
ひとつだけ覚えておかなければいけないことがある。
 
私はなにも言ってほしくないのだよ。
 
私には私の目があるし、
あなたにはあなたの目があるし、
彼には彼の目があるし、
私たちは見ることができるわけだからね。
なにも言う必要はないのだ」
 
友人は同意した。
だが、
途中で陽が昇りはじめると、
客は忘れてしまった。
 
湖のほとりで、
それはとてもすばらしく、
すべての色彩が映え、
鳥がさえずり、
蓮の花が咲き、開いていて、
彼は我慢することができなかった。
忘れてしまったのだ。彼は言った。
 
「なんとすばらしい日の出だろう」
 
彼が条件を侵したので、
もてなしている主人はショックを受けた。
 
老子はなにも言わなかった。
 
そこではひと言も発せられなかった。
 
帰宅してから、彼は友人を呼んで言った。
 
「あなたの客は2度と連れてこないでほしい。
彼はおしゃべりがすぎる。
日の出がそこにあった、
私はそこにいた、
彼はそこにいた、
あなたはそこにいた--
なにか、
なにか意見を、
なにか解釈を
口にする必要があるかね?」
 
 
そして、
これが私の態度だ。
 
 
あなたはここにいる、
あらゆる個人がここにいる、
全存在が手に入る。
 
 
あなたに必要なのは、
沈黙し、
存在を聴くことだけだ。
 
 
どんな宗教も必要ない、
どんな神も必要ない、
どんな聖職も必要ない、
どんな組織も必要ない。
 
 
私は断固として個人信頼している。
 
 
そのように個人を信頼した人は、
これまでひとりもいなかった。
 
 
だから、
すべての物事を取りのぞくことができる。
 
 
いま、
あなたに残されているのは、
 
瞑想の境地だけだ。
 
 
それは、
まさに完全な沈黙の境地という意味だ。
 
 
瞑想という言葉は、
それを重く見せてしまう。
 
 
ただ、
単純で無垢な沈黙と呼んだほうがいい。
 
 
そうすれば、
存在が
そのすべての美をあなたに開く。
 
 
そして、
それが成長しつづけるにつれ、
あなたも成長しつづけ、
あなたが自分の潜在能力のピークそのものに達する瞬間がやって来る--
 
 
それを
ブッダフッド、
光明 enlightenment エンライトンメント、
バグワッタ、
神性、
なんと呼んでもいい。
 
 
それには名前がないから、
どんな名前でもかまわない。
 
 
from osho talks
oshoの講話より
 
 
The Last Testament, Vol 5
Chapter #16
Chapter title: None
30 December 1985 am in Kulu/Manali, India
 
[NOTE: This discourse will be in the book "India Coming Back Home", which has not been published, as of August 1992.]
 
 
INTERVIEW BY AAJ KA ANAND
 
WITH GAUTAM BUDDHA RELIGION TOOK A QUANTUM LEAP.
GOD BECAME MEANINGLESS AND ONLY MEDITATION WAS IMPORTANT.
NOW, TWENTY-FIVE CENTURIES AFTER BUDDHA, AGAIN RELIGION IS TAKING THE QUANTUM LEAP IN YOUR PRESENCE AND BECOMING RELIGIOUSNESS.
PLEASE TALK ABOUT THIS PHENOMENON.
 
 
The credit of bringing a quantum leap in religion goes back twenty-five centuries before Gautam Buddha to Adinatha, who for the first time preached a religion without God. It was a tremendous revolution because nowhere in the whole world had it ever been conceived that religion could exist without God.
 
God has been an essential part -- the center -- of all the religions: Christianity, Judaism, Mohammedanism. But to make God the center of religion makes man just the periphery. To conceive of God as the creator of the world makes man only a puppet.
 
That's why in Hebrew, which is the language of Judaism, man is called Adam. 'Adam' means mud. In Arabic man is called 'admi'; it is from Adam, again it means mud. In English, which has become the language of Christianity by and large, the word human comes from 'humus' and humus means mud.
Naturally if God is the creator he has to create from something. He has to make man like a statue, so first he makes man with mud and then breathes life into him. But if this is so man loses all dignity, and if God is the creator of man and everything else, the whole idea is whimsical because what has he been doing for eternity before he created man and the universe?
 
According to Christianity he created man only four thousand and four years before Jesus Christ. So what was he doing all along through eternity?
 
So it seems whimsical. There cannot be any cause, because to have a cause for which God had to create existence means there are powers higher than God, there are causes which can make him create. Or there is a possibility that suddenly desire arose in him. That too is not very philosophically sound, because for eternity he was desireless. And to be desireless is so blissful that it is impossible to conceive that out of an experience of eternal blissfulness a desire arises in him to create the world. Desire is desire, whether you want to make a house or become the prime minister or create the world. And God cannot be conceived as having desires. So the only thing that remains is that he is whimsical, eccentric. Then there is no need for cause and no need for desire -- just a whim.
 
But if this whole existence is just out of a whim it loses all meaning, all significance. And tomorrow another whim may arise in him to destroy, to dissolve the whole universe. So we are simply puppets in the hands of a dictatorial god who has all the powers but who has not a sane mind, who is whimsical.
 
To conceive this five thousand years ago Adinatha must have been a very deep meditator, contemplative, and he must have come to the conclusion that with God there is no meaning in the world. If we want meaning in the world then God has to be disposed of. He must have been a man of tremendous courage.
 
People are still worshipping in the churches, in the synagogues, in the temples; yet that man Adinatha five thousand years before us came to a very clear-cut scientific conclusion that there is nothing higher than man and any evolution that is going to happen is within man and in his consciousness.
 
This was the first quantum leap -- God was disposed of.
 
Adinatha is the first master of Jainism. The credit does not go to Buddha because Buddha comes twenty-five centuries later than Adinatha. But another credit goes to Buddha. Adinatha disposed of God but could not manage to put meditation in its place. On the contrary, he created asceticism, austerities, torturing the body, fasting, remaining naked, eating only once a day, not drinking in the night, not eating in the night, eating only certain foods. He had come to a beautiful philosophical conclusion but it seems the conclusion was only philosophical, it was not meditational.
 
When you depose God you cannot have any ritual, you cannot have worship, you cannot have prayer; something has to be substituted. He substituted austerities, because man became the center of his religion and man has to purify himself. Purity in his conception was that man has to detach himself from the world, has to detach himself from his own body. This distorted the whole thing. He had come to a very significant conclusion, but it remained only a philosophical concept.
 
Adinatha disposed of God but left a vacuum, and Buddha filled it with meditation.
Adinatha made a godless religion, Buddha made a meditative religion.
 
Meditation is Buddha's contribution. The question is not to torture the body; the question is to become more silent, to become more relaxed, to become more peaceful. It is an inward journey to reach to one's own center of consciousness, and the center of one's own consciousness is the center of the whole existence.
 
Twenty-five centuries have again passed. Just as Adinatha's revolutionary concept of godless religion got lost in a desert of austerities and self-torture, Buddha's idea of meditation -- something inner, that nobody else can see ; only you know where you are, only you know whether you are progressing or not -- got lost into another desert, and that was organized religion.
 
Religion says that single individuals cannot be trusted, whether they are meditating or not. They need communities, masters, monasteries where they can live together. Those who are on a higher level of consciousness can watch over others and help them. It became essential that religions should not be left in the hands of individuals, they should be organized and should be in the hands of those who have arrived at a high point of meditation.
 
In the beginning it was good; while Buddha was alive there were many people who reached self-realization, enlightenment.
 
But as Buddha died and these people died, the very organization that was supposed to help people to meditate fell in the hands of a priesthood, and rather than helping you to meditate they started creating rituals around the image of Buddha. Buddha became another God.
 
Adinatha disposed of God, Buddha never accepted that God exists, but this priesthood cannot exist without a God.
 
So there may not be a God who is a creator, but Buddha has reached godhood.
 
For others the only thing is to worship Buddha, to have faith in Buddha, to follow the principles of Buddha, to live life according to his doctrine; and Buddha got lost in the organization, the imitation.
 
But they all forgot the basic thing which was meditation.
 
My whole effort is to create a religionless religion.
 
We have seen what happened to religions which have God as the center.
We have seen what happened to Adinatha's revolutionary concept, godless religion.
We have seen what happened to Buddha -- organized religion without God.
 
Now my effort is: just as they dissolved God, dissolve religion also.
Leave only meditation so it cannot be forgotten in any way.
There is nothing else to replace it.
 
There is no God and there is no religion.
 
By religion I mean an organized doctrine, creed, ritual, priesthood.
 
And for the first time I want religion to be absolutely individual, because all organized religions, whether with God or without God, have misled humanity.
 
And the sole cause has been organization, because organization has its own ways which go against meditativeness. Organization is really a political phenomenon, it is not religious. It is another way of power and will to power.
 
Now every Christian priest hopes some day to become a bishop at least, to become a cardinal, to become a pope. This is a new hierarchy, a new bureaucracy, and because it is spiritual nobody objects. You may be a bishop, you may be a pope, you may be anything. It is not objectionable because you are not going to obstruct anybody's life. It is just an abstract idea.
 
My effort is to destroy the priesthood completely.
 
It remained with God, it remained with godless religion, now the only way is that we should dispose of God and religion both so that there is no possibility of any priesthood.
 
Then man is absolutely free,
totally responsible for his own growth.
 
My feeling is that the more a man is responsible for his own growth, the more difficult it is for him to postpone it for long. Because it means if you are miserable, you are responsible. If you are tense, you are responsible. If you are not relaxed, you are responsible. If you are in suffering, you are the cause of it. There is no God, there is no priesthood that you can go to and ask for some ritual. You are left alone with your misery, and nobody wants to be miserable.
 
The priests go on giving you opium, they go on giving you hope, "Don't be worried, it is just a test of your faith, of your trust; and if you can pass through this misery and suffering silently and patiently, in the other world beyond death you will be immensely rewarded." If there is no priesthood you have to understand that whatever you are, you are responsible for it, nobody else.
 
And the feeling that "I am responsible for my misery," opens the door.
 
Then you start looking for methods and means to get out of this miserable state, and that's what meditation is.
It is simply the opposite state of misery, suffering, anguish, anxiety.
 
It is a state of a peaceful, blissful flowering of being, so silent and so timeless that you cannot conceive that anything better is possible.
 
And there is nothing which is better than the state of a meditative mind.
 
 
So you can say these are the three quantum leaps:
Adinatha drops God because he finds God is becoming too heavy on man; rather than helping him in his growth he has become a burden -- but he forgets to replace him with something.
 
Man will need something in his miserable moments, in his suffering.
He used to pray to God.
You have taken God away, you have taken his prayer away and now when he will be miserable, what will he do? In Jainism meditation has no place.
 
It is Buddha's insight to see that God has been dropped; now the gap should be filled, otherwise the gap will destroy man.
He puts in meditation -- something really authentic which can change the whole being.
 
But he was not aware -- perhaps he could not be aware because there are things you cannot be aware of unless they happen -- that there should be no organization, that there should be no priesthood, that as God is gone religion should also be gone. But he can be forgiven because he had not thought about it and there was no past to help him to see it, it came after him.
 
The real problem is the priest, and God is the invention of the priest. Unless you drop the priest, you can drop God, but the priest will always find new rituals, he will create new gods.
 
 
My effort is to leave you alone with meditation,
with no mediator between you and existence.
 
 
When you are not in meditation you are separated from existence and that is your suffering.
It's the same as when you take a fish out of the ocean and throw it on the bank -- the misery and the suffering and the tortures he goes through, the hankering and the effort to reach back to the ocean because it is where he belongs, he is part of the ocean and he cannot remain apart.
Any suffering is simply indicative that you are not in communion with existence, that the fish is not in the ocean.
 
 
Meditation is nothing but withdrawing all the barriers, thoughts, emotions, sentiments, which create a wall between you and existence. The moment they drop you suddenly find yourself in tune with the whole; not only in tune, you really find you are the whole.
When a dewdrop slips from a lotus leaf into the ocean it does not find that it is part of the ocean, it finds it is the ocean.
And to find it is the ultimate goal, the ultimate realization, there is nothing beyond it.
 
 
So Adinatha dropped God but did not drop organization.
And because there was no God, the organization created rituals.
 
Buddha, seeing what had happened to Jainism, that it had become a ritualism, dropped God. He dropped all rituals and single-pointedly insisted on meditation, but he forgot that the priests who had made rituals in Jainism are going to do the same with meditation. And they did it, they made Buddha himself a God.
 
They talk about meditation but basically Buddhists are worshipers of Buddha -- they go to the temple and instead of Krishna or Christ there is Buddha's statue. There was no statue of Buddha for five hundred years after Buddha. In Buddhist temples they had just the tree under which Buddha became enlightened, engraved on marble, just a symbol. Buddha was not there, only the tree.
 
 
You will be surprised that the statue of Buddha that we see today has no resemblance at all to Buddha's personality, it resembles the personality of Alexander the Great. Alexander the Great came to India three hundred years after Buddha. Till then there was no statue of Buddha. The priests were in search because there was no photograph, there was no painting, so how to make a statue of Buddha? And Alexander's face looked really superhuman, he had a beautiful personality, the Greek face and physiology; they picked up the idea of Buddha's face and body from Alexander. So all the statues that are being worshipped in Buddhist temples are statues of Alexander the Great, they have nothing to do with Buddha. But the priests had to create the statue -- God was not there, ritual was difficult, around meditation ritual was difficult. They created a statue and they started saying -- in the same way all religions have been doing -- have faith in Buddha, have trust in Buddha, and you will be saved. Both the revolutions were lost.
I would like that what I am doing is not lost.
So I am trying in every possible way to drop all those things which in the past have been barriers for the revolution to continue and grow. I don't want anybody to stand between the individual and existence. No prayer, no priest, you alone are enough to face the sunrise, you don't need somebody to interpret for you what a beautiful sunrise it is.
 
 
It is said that every morning Lao Tzu used to go for a walk in the hills.
One friend asked him, "Can I come with you one day? I would particularly like to come tomorrow, because I have a guest who is very much interested in you, and he will be immensely glad to have the opportunity to be with you for two hours in the mountains."
Lao Tzu said, "I have no objection, just one simple thing has to be remembered. I don't want anything to be said because I have my eyes, you have your eyes, he has his eyes, we can see. There is no need to say anything."
The friend agreed, but on the way when the sun started rising the guest forgot. It was so beautiful by the side of the lake, the reflection of all the colors, the birds singing and the lotuses blossoming, opening, he could not resist, he forgot. He said, "What a beautiful sunrise."
His host was shocked because he has broken the condition. Lao Tzu did not say anything, nothing was said there. Back home he called his friend and told him, "Don't bring your guest again. He is too talkative. The sunrise was there, I was there, he was there, you were there -- what is the need to say anything, any comment, any interpretation?"
 
And this is my attitude: you are here, every individual is here, the whole existence is available.
 
All that you need is just to be silent and listen to existence.
 
There is no need of any religion, there is no need of any God, there is no need of any priesthood, there is no need of any organization.
 
I trust in the individual categorically.
 
Nobody up to now has trusted in the individual in such a way.
 
So all things can be removed.
 
Now all that has been left to you is a state of meditation which simply means a state of utter silence.
 
The word meditation makes it look heavier.
It is better to call it just a simple, innocent silence and existence opens all its beauties to you.
 
And as it goes on growing you go on growing, and there comes a moment when you have reached the very peak of your potentiality -- you can call it Buddhahood, enlightenment, bhagwatta, godliness, whatever, it has no name, so any name will do.
 
 
 
from osho talks
oshoの講話より
 
The Last Testament, Vol 5
 
Interviews with the World Press
Talks given from 12/12/85 pm to 08/02/86 am English Discourse series
30 Chapters
 
Chapter #16 Chapter title: None
30 December 1985 am in Kulu/Manali, India
 
[NOTE: This discourse will be in the book "India Coming Back Home", which has not been published, as of August 1992.]
 
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自分の内側にある
愛と光の波動である『魂(源泉)』を
再び「感覚」で『思い出す』
 
真の癒しと愛と至福の旅をいつも祈っています。
 
 
sammasati サマサティ(right remembrance)
正しく想起する
 
『The last word is Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha - sammasati.』
 
瞑想と愛 meditation & love
 
 
花仙人
 
 
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内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』
 
 
瞑想は『源泉(魂)』を『思い出す』ことをサポートする1つのツールです。
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The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
 
瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。
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Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
 
 
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