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花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

oshoの光明 enlightenment の日

oshoの光明 enlightenment の日

(oshoの光明 enlightenmentの日は1953年3月21日です。)

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

瞑想 meditation は、
宗教のもっとも純粋な表現だ。


知識はマインド(思考)を通した表現であり、

献身はハートを通した表現だ。


瞑想 meditation は
マインド(思考)のものでも
ハートのものでもない。


知識はマインド(思考)のものであり

愛はハートのものだ

瞑想 meditation は両方を超えている。


瞑想 meditation は超越だ。

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

私を正しく理解するなら、
私は瞑想者だけが
もっとも純粋な真理を述べていると言おう。


献身の人は

同じことを愛という言語で語る。
するとそれは恩寵になる。

 

知識の人が

同じことを霊的修行という言語で語ると

「ふさわしさ」
「価値」
「カルマ」
「善行」
「努力」
という言葉が使われる。


瞑想者は同じことを言っている…
だが
瞑想者の言語が理解できるのは瞑想者だけだ。

 

瞑想者は言う
「神は失われていなかった。
ただ彼のことを『忘れて』いたのだ。
だから『思い出せ』ば充分だ。
瞑想 meditation で充分だ。」

 

だから瞑想者の観点では
神性はふさわしさゆえに体験されるのではない…

 

それは
すでにあなたと共にあるのだから。

 


 

 

瞑想者は言う

「それを成就するという問題ではない。
それはすでにここにある。
私たちのまさに『本質』だ。

 

失うというのは、ただの幻想だ。
失われたというのは、あなたの観念にすぎない」

 

自分が大海の中にいることを、
魚が『忘れて』しまったように。
ちょうどそのようなものだ。

 

彼女が大海なのだ。

 

あなたは神の中で生き、
呼吸をし、
目覚め、
眠り、
座り、
立ち、
生まれ、
そして
死ぬ。

 

たとえ一瞬たりとも、
彼から離れることはできない。

 

なぜなら、
神とは全存在であるからだ。

 

神とはこの広大なエネルギーのこと、

 

この全体性のことだ。

 

 

瞑想者は言う

「私は最初から神を失っていなかった。
だから両方のアプローチ…
努力か恩寵のどちらかによって
彼を見出すというのは間違っている。
彼は決して失われたことがない。」

 

あなたはただ目覚め、
それを見つける。

 

眠っている間、
それは失われているように思えた。

 

だが目覚めると、
決して失われていなかったことが明らかになる。


眠っていたとき、
それは失われたように思えた…

 

だが、
そのときも失われてはいなかった。

 


あなたはただ眠っていただけだ。

 


ちょうど、
ランプが燃えたまま眠っているときのように…

 

ランプは燃え続ける。

 

あなたの眠りがそれを消すことはない。

 

あなたの目には夢が集まっているが、
あなたの夢はランプを消すことなどできない。

 

あなたは道に迷い、
遠くへ行き、
ランプがあることを『忘れて』しまった。

 

それでも目が開くと、
あなたはランプがまだ燃えているのを発見する。

 

あなたはランプを再発見したと言うだろうか?

 

それは決して失われていなかったから、
見つけたと言うのは正しくない。

 

ランプは常にそこにあった。

 

そして常にあるものが神だ。

 


瞑想者は言う

「私はただ寝てしまっただけだ。
決してそれを失ってはいなかった」…

 

なぜなら、

ひとたび本当に失われると、
それを体験するのは不可能であるからだ。

 

失われ得るものは、
あなたに内在する本質ではあり得ない。

 

それは、
手に持っているものを
なくすようなものだ。

 

あなたは
再び見つけるかもしれないが、
また失われることもある。

 

しかし、
あなたの心臓の鼓動が失われるかね?

 

たとえ心臓の鼓動が失われ得るとしても、
あなたの意識に内在する質は失われない。

 

それは決して失われていないということは、
あなたにとって非常に理解しにくいだろう。

 


あなたは自分が存在していることを知らない。

 


しかし
眠りに入っていくときも、
あなたは存在している。

 

目覚めると、
あなたは知る。

 

眠っているときには隠されていたものが、
目覚めると戻ってくる。

 

目覚めの状態では、
眠りの中で『忘れ』られていたものが
『思い出』される。

 


瞑想者は言う
「神は失われていなかった。
ただ彼のことを『忘れて』いたのだ。
だから『思い出せ』ば充分だ。
瞑想 meditation で充分だ。」

 

だから瞑想者の観点では
神性はふさわしさゆえに体験されるのではない…

 

それは
すでにあなたと共にあるのだから。

 

あなたがどれほど値しなかろうと、
それでも
それはあなたの内側でふるえている。


だから、
ふさわしさによって
究極なるものを成就するという問題は
あり得ない。

 


 


人々が私のもとにやって来て言う、

 

「お話によると
それは決して失われなかった
とのことです。

では
なぜそれを探求しなければならないのですか?」

 

私は彼らに尋ねる

 

「なぜそれを探求しなければならないのかと、
どうして質問するのかね?」

 

 

それは決して失われたことがないと
私は言う。

 

それが『あなた自身の体験となるとき』

 

そのとき

 

問題は終わる。

 

事はおしまいだ。

 

そのとき、探求すべきものは何もない。

 

でもあなたは、
まだ何も見つけていないと感じているに違いない。

 

そして、
それでも探求を落としたいと思っている。

 

すると、
それを見つける機会さえも閉ざされてしまう。

 

 

 

瞑想 meditation は、
宗教のもっとも純粋な表現だ。


知識はマインド(思考)を通した表現であり、

献身はハートを通した表現だ。


瞑想 meditation は
マインド(思考)のものでも
ハートのものでもない。


知識はマインド(思考)のものであり

愛はハートのものだ

瞑想 meditation は両方を超えている。


瞑想 meditation は超越だ。

 

 

 

だから、
私がどのように光明 enlightenment を成就したか
と尋ねてはいけない。

 

恩寵によるものでも、
努力によるのでもなく、

 

私は目覚めることによって、

 

それが決して失われていなかったことを知った。

 

 


だから
私にマスター(導師)がいない。

 

なぜなら
マスター(導師)が必要なのは、
自分の探求において
誰かの助けが必要なときだけだからだ。

 

そして、
私はどんな霊的な修行も行わなかった。

 

なぜなら
霊的修行が必要なのは、
見つける努力が必要な場合だけなのだから。

 

私は何の努力もしなかったし、
祈りもしなかった。

 

寺院で礼拝もしなかったし、
天にいる神に手を合わせて祈ることもなかった。

 

私にはマスター(導師)もいなかった。

 

 

 

では、私は何をしたのか?

 

ひとつだけしたことがある…

 

自分自身を『理解』しようとし、
私とは誰かを知ろうとしたのだ。

 

私は自分自身の内側を暗中模索し、
どこに私がいるかを見つけ出そうとした。

 

このように手探りし、
探求しているうちに、
暗闇が薄れてきた。

 

私は自分自身を感じ始め、

 

「私は在る」

 

ということを感じ始めた。

 

この「感覚」は育ち始めた。

 


最初はランプの中のとても小さな炎だったが、
やがて炎は広がり始め、
太陽と同じくらい大きな光となった。

 

 

だが私は、
恩寵や努力によって
それを見つけたのではない。

 

自分自身の内側に入り、
それがすでにそこにあったのを
見つけたのだ。

 

それは決して失われていなかった。

私は
目的地にすわっていて、
ちょっと居眠りしていただった。

 

 

 


あなたのマスター(導師)は
あなたの内側にいる。

 

そして
たとえ誰かをマスター(導師)と認めるとしても

 

あなたをどこか余所へと連れていこうと
言う者ではなく

 

あなたの内側のマスター(導師)を
目覚めさせようとしている者だけを
マスター(導師)と認めなさい。

 

 

 

 

ありのままで
あなたは善であり美だ。

 

まさにこの瞬間、
あなたは自分が行こうと思っていた場所にいる。

 

どこかへ行くという思いが落ち、
この瞬間にくつろげば、
あなたは到着している。


どこかへ行くという思いにしがみついているなら、

あなたは永遠に向かって走り続けるだろう。

 

それがあなたの無限の生という物語であり、
あなたの苦悩だ。

 

走れ!
いつの日か到達するゴールがあるだろう。

 

それに辿り着かない限り
あなたは落ち着かない。


あなたは決して辿り着かない。

 

なぜなら

どこに到着しようと
そこからもっと遠くに
さらなるゴールが現れるからだ。

 

それは地平線のようだ。
それは蜃気楼なのだ。

 

 


私が光明 enlightenment を得たのは
誰かの恩寵によるものでも、
努力によるものでもない。

 

私はただ目覚め、
それを決して失っていなかったことを『理解』した。

 

 


これが私の言う

 

サハジ・ヨーガ
自然の道

 

だ。

 

 


これがサハジョの言う
サハジ・ガティ
気楽に行くことだ。

 

導師チャランダスは
弟子である彼女にサハジョという名を与えた。

 

「サハジョ」とは
素朴で気楽で自然な人
という意味だ。

 

達成するべきものはなく、
探求すべきものはない。

 

だが、
サハジョの言葉は献身の人の言葉だ…
だから彼女は恩寵について語る。

 

マハヴィーラの言葉は知識の人の言葉だ…
だから彼は苦行や霊的修行について語った。

 

 

 

私の言うことを理解したいなら、
私のメッセージのすべては
瞑想 meditation についてだ。

 

そして、

 

瞑想 meditation は
献身と知識の両方を超えている。

 

瞑想 meditation は献身の魂であり、
瞑想 meditation は知識の魂でもある。

 

献身はひとつの身体であり、
知識はまた別の身体だが、

その両方の中にある魂は瞑想 meditation だ。


献身の人は祈りによって瞑想的になる。
知識の人は霊的修行によって瞑想的になる。

 

 


だが、
知り得た人に尋ねるなら
彼らはみな同じことを言う…

 

そして
それは瞑想 meditation だ。

 

表現だけが違う…

 

サハジョは愛の歌を歌い、
マハヴィーラは知識の道を語る。

 

 

 

私はあなたに、
装飾品でなく純金をあげたい。

 

マハヴィーラも黄金を用いたが
知識という装飾品をつくった。

サハジョも黄金を用いたが
愛という、献身という装飾品をつくった。


私はあなたに装飾品をあげようとは思わない。

 

私はあなたに純金をあげたい。

 

この黄金の名は瞑想 meditation だ。

 

 

from osho talks

oshoの講話より


Showering without Clouds

雲なく雨は降りそそぐ


サハジョ女性の覚者の詩


このお話しの英文は1番最後に載せています。




◯ ◯ ◯

 

 


世の中にはたくさんの「導く人」がいます。

 

どなたをご自身の外側にいる「導く人」として
選択されるのかは
1人1人の選択の自由だと思います。

 

 

でも、もし、
自分の外側のある「導く人」について行き
なんだか
道に迷い苦しんでしまったなら…

 

わたしは導師ではないので「導く人」ではありません。
自分の実体験しか話すことができませんが、

 

自分の内側の中核にある
本来の導師(マスター)を
再び「感覚」で『思い出す』ことで

さまよい続ける苦しみから自分を救い出すことができました。

 

わたしは
瞑想 meditation をとおして
自分の内側にある導師(マスター)を
再び「感覚」で『思い出し』ました。

 

それからは
内側の中核にある導師(マスター)が
わたしを
光明 enlightenment まで導き
苦しみの輪サンサーラから永遠の離脱ができました。


大切なことは
まず
自分の内側にある中核を
再び「感覚」で『思い出す』ことです。


わたしは今月のおひなさまの日に
このoshoのサハジョの詩の講話を知りましたが
oshoもこの講話の中で
わたしの実体験と同じことをお話しされていますから

 

3月21日は
oshoが21歳のときに
光明 enlightenment を得た日ですから

 

光明 enlightenment は夢物語ではなく
特別な人間だけに起こるものではなく
アホな女のわたしにも起こった

人間の内側の中核である『魂(源泉)』を持っている
すべての人間に起こる自然なものであることを
oshoの講話からご紹介しました。



前回でもお話ししましたが

わたしは
苦行も修行も魔術も
なにもしていません。

貧乏だから
お金がまったくかからない
0(ゼロ)円でできる
瞑想 meditation を
大好きだから朝晩毎日しました。

 

聖地に住むわけでもなく
貧乏だからσ(^_^;)
24時間車の往来がすごい
騒音まみれの
人が多くいる東京の中で
自分の内側を『観る(観照)』という
瞑想 meditation と
明け渡し surrender が自然と起こり
光明 enlightenment が突然起こりました。

 

無知で光明 enlightenment という言葉すら知らないまま
それは突然起こりましたが、
起こった瞬間に

 

これはそれだ!

 

と一瞬でわかりました。

内側にある『魂(源泉)』の導師(マスター)の導きは間違いありませんでした。


もちろん外側の導師oshoも
ずーとアホな弟子のわたしを
長い年月見守り続けてくれました。

 

導師oshoの慈悲の愛の見守りは
光明 enlightenment が起こる前では
あまりわかりませんでしたがσ(^_^;)

 

光明 enlightenment が起こった後に
ものすごくわかり…>_<…
感謝しかありません。
ありがとう…


サハジョが言うように
導師ってすごすぎるわσ(^_^;)
うまく語れなくてすまない…>_<…

 

oshoだけでなく

これまで出会った全てのみなさんのおかげで

光明 enlightenment が起こり

苦しみの輪サンサーラからの永遠の離脱ができましたから

このブログで導師 master たちの慈悲の愛のお話しを

ご紹介することは全ての存在への感謝と恩返しです…

ありがとう…

 

『気づき』のきっかけになれれば…と。

 


3月21日は
導師oshoが21歳のときに
光明 enlightenment を得た日です。


その後oshoは1990年に59歳で肉体を去るまで
インド国内だけでなく
世界中で講話を行い続け
その講話録は
導師oshoの弟子(サニヤシン)たちによって650冊以上あり
世界40カ国語以上で翻訳、出版されています。

映像もありDVDやYouTubeでも観ることができます。

 

その講話録の中の1つである
サハジョの講話から
導師oshoの光明 enlightenment のお話しを少しだけですがご紹介しました。

(英訳は1番最後に載せています。)

 

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◯ ◯ ◯

 

 

あなたのマスター(導師)は
あなたの内側にいる。

 

そして
たとえ誰かをマスター(導師)と認めるとしても

 

あなたをどこか余所へと連れていこうと
言う者ではなく

 

あなたの内側のマスター(導師)を
目覚めさせようとしている者だけを
マスター(導師)と認めなさい。

 

 


瞑想者は言う
「神は失われていなかった。
ただ彼のことを『忘れて』いたのだ。
だから『思い出せ』ば充分だ。
瞑想 meditation で充分だ。」

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

『思い出す』

 

 

sammasati サマサティ(right remembrance)
正しく想起する


『The last word is Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha - sammasati.』

 

 

瞑想と愛 meditation & love

 

 

花仙人

 

 

 f:id:hanasennin9:20170320100525j:image

男性性と女性性の統合(超越)

 

 f:id:hanasennin9:20170320100804j:image

内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』

 

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Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

The last morning star
夜明けの星

サハジョとダヤの女性の覚者の詩

 

f:id:hanasennin9:20170320100842j:image 
The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。

 

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f:id:hanasennin9:20170320100934j:image
Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

oshoアクティブ瞑想に関してはこちら、
http://www.osho.com/ja/meditate/active-meditations/why-active-meditations

 

oshoの瞑想音楽はこちら、

 


今日ご紹介した講話の英訳です。


Meditation is the purest expression of religion.

Knowledge is the expression through the mind,
devotion is its expression through the heart,
and meditation is neither of the heart nor of the mind.

Knowledge is of the mind,
love is of the heart -
meditation is beyond both.

Meditation is transcendence.


………


If you understand me rightly, then I am saying that only a meditator can state the purest truth.

A devotee says the same in the language of love: then it becomes grace.

A person of knowledge says the same thing in the language of spiritual discipline: then words like worthiness, deserving, karma, virtue, effort are used.

The meditator is saying the same thing - but only a meditator can understand the language of a meditator.


………


A meditator says,
“God was not lost, I had only forgotten him. And to remember is enough. Meditation is enough.”
So in the view of the meditator, the divine is not experienced because of worthiness - because it is already with you.


………


The meditator says,
“There is no question of attaining it. It is already here. It is our very nature.
The loss is only an illusion. It is only your idea that it is lost”

- just as the fish had forgotten that she was in the ocean, just like that.
She is the ocean.
You live, breathe, wake up, sleep, sit, stand, are born and die in God.
You can never be separate from him even for a single moment, because God means the whole existence.

God means this vast energy, this totality.


The meditator says,
“I have never lost God in the first place so both approaches are wrong: whether to find him by effort or by grace. He has never been lost.”

You simply wake up and find it.
While you were sleeping it seemed to be lost, when you wake up it becomes clear that it was never lost.

When you were asleep it seemed to you that it was lost - but then too it was not lost, you were simply asleep.

Just as when you fall asleep with a lamp still burning - the lamp goes on burning, your sleep does not extinguish it.

Although dreams gather in your eyes, your dreams cannot extinguish the lamp.

You were lost, you went farther away, you forgot that there was a lamp.
Yet when your eyes open you discover that the lamp is still burning.
Would you say that you have found the lamp again?
It was never lost, so to say that you found it is not right.
The lamp was always there.
And that which always is, is God.


A meditator says,
“I only fell asleep, I never lost it” - because once something is really lost, then it is impossible to experience it.

That which can be lost cannot be your intrinsic nature.

Then it would be as if you have something in your hand and you lose it; you may find it again but it can be lost again.
But can your heartbeat be lost?
Even your heartbeat can stop, but the intrinsic quality of your consciousness cannot be lost.

When you go to sleep then too you exist, although you don’t know that you exist.
When you wake up, then you know.
What is hidden when you sleep returns when you awake.
That which is forgotten in sleep is remembered in the waking state.


A meditator says,
“God was not lost, I had only forgotten him. And to remember is enough. Meditation is enough.”

So in the view of the meditator, the divine is not experienced because of worthiness - because it is already with you.

Howsoever unworthy you may be, still it is throbbing within you.

So there can be no question of attaining the ultimate through your worthiness.


………


For you it will be very difficult to understand that it has never been lost.


People come to me and they say,
“You say that it was never lost. Then why should we search for it?”

I ask them,
“Why do you ask this question, why should we search for it?”


I say that it has never been lost.

When it becomes your own experience then the matter is over, it is finished.

Then there is nothing to search for. But you must be feeling that you have not found anything yet, and still you want to drop the search. Then even the chance of finding it will be closed.

 

Meditation is the purest expression of religion.

Knowledge is the expression through the mind,
devotion is its expression through the heart,
and meditation is neither of the heart nor of the mind.

Knowledge is of the mind,
love is of the heart -
meditation is beyond both.

Meditation is transcendence.

 

So don’t ask me how I attained enlightenment.

Not by grace nor by effort, but by waking up I found that it was never lost.
So I have no master, because a master is needed only when you have to take the help of someone in your search.

And I did not do any spiritual practices, because spiritual practices are needed only when you have to make some effort to find it.

Neither did I make any effort nor did I pray. Neither did I worship in any temple, nor did I fold my hands to pray to any God in the sky. Nor did I have any master.


Then what did I do?


I did only one thing - I tried to understand myself, I tried to know who I am.

I tried to grope around within myself to find, where am I?

Groping and searching in this way, the darkness diminished.

I began to feel myself, I began to feel that “I am.”

This feeling started to grow.

At first there was a very small flame in the lamp, then the flame started to spread and it became a light as great as the sun.

But I did not find it through grace or through any efforts.
Going within myself, I found that it was already there.

It was never lost.

I was sitting at the destination and I had just dozed off.


………


I often tell a story:
A drunkard was returning home. He was very drunk. He found his way home automatically. He used to follow the same route every day, there was no need to have any awareness.

You also don’t need any awareness - you go towards your home thinking of a thousand and one things. You turn to the left, you turn to the right, the bicycle automatically turns and you ride into your garage. You don’t need to think about it, it happens automatically.

The man was drunk, and stumbling around he finally arrived home. Standing in front of his house he looked carefully to see whether it was his house or not. In the darkness of the night, with his drunken eyes, everything was unsteady, shaky. He became afraid. He thought, “This house does not seem to be mine. I have never seen it look like this.”

If the eye of the observer is different, then the observed changes. If you are drunk then the perception changes.

So hesitantly, he knocked on the door. His mother opened the door, but he did not even recognize his own mother. How can recognition happen in a drunken state? He touched her feet and said, “Old woman, do me a favor - please take me to my house.”

His mother said, “My son, have you gone totally mad? I have told you a thousand times to stop drinking alcohol. Now this is too much! Can’t you recognize me, your own mother? Can’t you recognize your own house!”

A crowd gathered, the people of the neighborhood came and tried to explain it to him. But is there any way to explain things to a drunkard? If he could understand, he would have. You have to convince him. But you try to explain something and a drunkard will understand something else. You say something and he hears something else, he finds some other meaning.

The drunkard became very afraid and said, “You will all kill me. My mother must be waiting for me at my house. What strange things you are saying. Wouldn’t I recognize my own mother? Don’t I know my own house? However much alcohol I have drunk, I am not that drunk!”

But drunkards all say the same thing. To convince a drunkard that he is drunk is very difficult, he will not agree at all. And when a drunkard accepts that he is drunk, know that he is no longer drunk. Otherwise he could not have accepted that he is drunk. How can someone who is drunk agree while he is still drunk? If a madman accepts that he is mad, know that he is cured. Send him home, there is no need to put him in a madhouse. A real madman can never accept that he is mad. He will say that the whole world is mad, but he cannot accept that he himself is mad.

The drunken man said to everyone, “You all seem to have been drinking. Don’t I know my own house? Take me to my house, brother.” He started crying and beating his chest.

A neighbor who was returning from the pub arrived with his bullock cart. He said, “Sit here. I will take you to your house.”

His mother started shouting, “Don’t sit in his bullock cart! He is also drunk, otherwise how can he offer to take you home? Your home is here.”

But the neighbor’s advice appealed to the drunkard.the man seemed to be a master. This man who would help to take him home.a savior: “All these others are mean people, they will try to fool me.” So he went with the other drunkard in the bullock cart.


This is your state.
You are standing in front of your own house.


What is in front of your eyes is God and you are asking,
“Where should I go? How should I search? What means should I use? To whom should I pray?”
Somebody or other will find you with their bullock cart. He will say,
“Come, sit here, we are going that way. Actually, this is what we do - we can take you, this is our job. We take people who are wandering around to their destinations.”
You will meet some guru or other, there is no doubt about it.


………


Your master is within you.

And even if you accept somebody as a master, then only accept the one who is trying to awaken the master within you, not one who speaks about things that take you somewhere else.


………


It would have been better if the drunkard had accepted what his mother was saying. She was saying: “This is your house and I am your mother.” In the morning when he again became conscious, he would have found that this was the truth. But if someone tells you that you already are where you ought to be, it will not appeal to you. You will say, “I don’t agree. I have to change myself. A revolution, a transformation has to happen. And this man is telling me that I am already there! Let’s go somewhere else and search for some other master.”


………


People come to me, and if I tell them,

“Just accept yourself. As you are, you are the good, you are the beautiful, you are the truth.
As you are you are enough - feel grateful for being as you are.
Nothing has to be done, you just have to accept your being,”

they start looking around and saying,
“You mean there is nothing to be done?”
This doesn’t appeal to them.
They will go to some other master who will tell them to do something - who will tell them to do shirshasana, to stand on their heads.

This will appeal to them. As if there is some connection between standing on one’s head and becoming enlightened.
You look perfectly okay standing on your feet.
Standing on your head will not increase your beauty, you will only look stupid.
If you want to hide your stupidity, you can call it something special - shirshasana.
You will do strange exercises: twist your hands, your feet.
If you want to join a circus then it is alright, but what has it to do with God?


………


As you are, you are the good, the beautiful.

This very moment you are there where you are thinking of going.

If the idea of going somewhere is dropped and you become relaxed in this moment, then you have arrived.

If you hold on to the idea of going somewhere, then you will go on running for eternity.

That is the story of your infinite lives; that is your agony: run, there is some goal to be achieved in the future!
And as long as you do not reach it you are restless.

You will never reach, because wherever you arrive to, from there the future goal will appear even further away.

It is like the horizon.
It is a mirage.


I have not become enlightened by someone’s grace or by effort.
I simply woke up and saw that I had never lost it.

This is what I call sahaj yoga, the natural way.

This is what Sahajo has called sahaj gati, going easy.

Charandas gave her the name Sahajo.

“Sahajo” means one who is simple, easy, natural.

Nothing is to be attained, nothing is to be searched for.

But the language of Sahajo is that of a devotee; that’s why she talks about grace.
Mahavira’s language is of a person of knowledge, so he talked about arduous efforts, spiritual practices.

 

If you want to understand what I say, then my whole message is about meditation.

And meditation is beyond both devotion and knowledge.

Meditation is the soul of devotion, and
meditation is the soul of knowledge too.

Devotion is one body and knowledge is another body,
but the soul in both is meditation.

A devotee becomes meditative through prayer.
A man of knowledge becomes meditative through his spiritual discipline.

 

But if you ask those who have known they all say the same thing - and that thing is meditation.

Only the expressions are different:
Sahajo sings songs of love,
Mahavira speaks of the path of knowledge.

 

I want to give you the pure gold, not the ornaments.

Mahavira has also used gold, but he made the ornaments of knowledge.
Sahajo has also used gold, but has made the ornaments of love, of devotion.

I don’t want to give you ornaments,
I want to give you the pure gold.


The name of this gold is meditation.

 

 

 

from osho talks

 

Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

 

サハジョ女性の覚者の詩

 

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全ての導師 master たちは伝えます。

導師 master を見るのではなく

導師 master の指先を見るのではなく

夜空(自分の内側の暗闇)に浮かぶ満月(魂(源泉))を見なさい…と。

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人間は生まれた後いろいろなことがあって

一時的に本来の自然な状態を『忘れて』しまっています。

だから苦しみます。

 

それを再び「感覚」で『思い出す』ことで

苦しみから自分を救い出すことができます。

 

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花仙人