花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

「死」と「生」への執着は苦しみ

「死」と「生」への執着は苦しみ

 

 

 

前回までお話ししたことは…


約1万年前
地球に滞在する人間の祖先は
この地球の自然界で生き延びることの厳しさを苦痛に思い
それまでの
地球に滞在する他の存在たちとは違う
自然界の食物連鎖の循環から外れる選択をし
狩りや木の実などの採取だけでなく
自然界に人工的に手を加える農耕や牧畜や家畜を
生活に取り入れ「食」の安定を得て
「生きる」安心を得ました。

 

 

人間は他の地球の存在たちとは違って


「死」への「恐れ」を強く持ち
そのため
「生」への「安心」に強く執着を持ったようです。

 

 

それから「今ここ(現在)」まで
人間は約1万年前よりは
「衣」「食」「住」を人工的に作り出し
厳しい地球の自然界の中で生き延びる中で
「生」への「安心」は増えました。

 

しかし

 

自然界から外れて生きることを選択したことで
自然界に人工的に手を加えたことで
地球の自然界の本来のバランス(中庸)が壊れ
アンバランス(偏り)な状態になったことで

 

人間の心と肉体の健康を害する影響があらわれてきました。

 

そのうちの一つのたとえとして
50年前にはなかったと言われる
花粉症の症状のお話しを前回までの数回にわたりしてきました。

 

人間の健康だけでなく
地球の全ての存在たちの健康や命の危険にもなっている状態です。

 

 

「今ここ(現在)」の地球全体のバランス(中庸)が壊れてしまったのは
地球の「過去」を振り返ってみると
人間が自然界に人工的に手を加えはじめたことからはじまっていることがわかります。

 

だとしたら

 

もちろん原始時代の生活に再び戻る

という選択肢もありますが

それを人間は選択しない…とするならば

 

これ以上、自然界のバランス(中庸)を壊さないようにしながら
少しづつ地球全体のバランス(中庸)を取り戻す

 

ということが
人間をも含めた地球の全ての存在の健康と命をつなぐことができる
ということが単純にわかります。

 

 

しかし、
人間は頭ではわかっていても

 

これ以上、自然界のバランス(中庸)を壊さないようにしながら
少しづつ地球全体のバランス(中庸)を取り戻す

 

をなかなか実行できません。

 

 

その理由はいろいろあると思いますが
その中でも

 

約1万年前と同じ

人間は他の地球の存在たちとは違って

「死」への「恐れ」を強く持ち
そのため
「生」への「安心」に強く執着を持ち

「死」と「生」は自然なものであるということを受け容れる

ということができない状態であるので

 

自然界のバランス(中庸)が壊れることを犠牲にしてまでも
自分は生き延びたい

 

という強い欲(エゴ(自我))を持ち続けています。

 


その欲(エゴ(自我))を持つことは
生き物の本能でもあるので
けっして悪いことではありません。

 

ただ

 

その欲(エゴ(自我))の思いだけに盲目的になっていると

 

自分しか見えず

全体が見えなくなり(視野が狭くなる)

 

結果

 

地球全体の自然界のバランス(中庸)が壊れて

地球の自然界の一部分である人間の自分の健康を害する影響がある

地球全体で苦しむ…

 

という悪循環になっているのが「今ここ(現在)」の現実です。

 

 


苦しみの原因は

約1万年前と同じ

人間は他の地球の存在たちとは違って

「死」への「恐れ」を強く持ち
そのため
「生」への「安心」に強く執着を持ち

「死」と「生」は自然なものであるということを受け容れる

ということができない状態であることです。

 

 


「死」への「恐れ」を克服する…
克服というよりも

 

「死」と「生」の二元性のどちらにも「偏る」ことなく
その真ん中の『中庸』であること
『中庸』とは本来のバランスの状態であり

 

それは

 

「死」と「生」は自然なものであるということを受け容れる

 

ことが
「死」への「恐れ」
「生」への「安心」
の二元性の両極に執着する苦しみから

(アンバランス(偏り)の状態は苦しみ)
自分を救い出すことになります。

 

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1人1人の人間の内側で
「死」と「生」の二元性が超越(統合)され
本来のバランスの『中庸』の一元性に
再び戻ったとき

 

自然界のバランス(中庸)が壊れることを犠牲にしてまでも
自分は生き延びたい

 

という強い欲(エゴ(自我))を『手放し』

 

人間は
偽善でもなく
抑圧することなく
無理なく自発的に心から

 

これ以上、自然界のバランス(中庸)を壊さないようにしながら
少しづつ地球全体のバランス(中庸)を取り戻す

 

ということを生きることが自然とできるようなります。

 

 

 

といっても
「死」を受け容れることは
なかなかできないものです。

 

今日は導師 master osho が講話の中でお話ししてくれた
osho タロットの1枚にもなっている
ゴータマ・ブッダとある女性のお話しをご紹介します。

 

どうやってこの女性は「死」を自然なこととして受け容れたのか…

 

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

 

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こんな話がある。

 

ゴータマ・ブッダがある村にいた。
すると女が1人やってきた。
女は嘆き悲しんでいた。
子供が突然死んだのだ。
たった1人の子供だった。

 

ゴータマ・ブッダはその村にいた。
人々は女に言った

 

「泣かなくていい。
あの人のところへ行くんだ。
あの人は無限の慈悲を持っているそうだ。
あの人が望めば、子供も生き返るだろう。
だから泣かなくていい。
あのブッダのところへ行きなさい。」

 

そこで女は、
死んだ子供を抱いてやってきた…
嘆き悲しみながら…。

 

村中の人々が後に続いた。
村中が心を痛めていた。
ゴータマ・ブッダの弟子たちも心を痛めた。

 

それで心に祈り始めた…
ゴータマ・ブッダがこの子に
慈悲をたれ、
祝福を与え、
それで子供が生き返りますように…。

 

ゴータマ・ブッダの弟子の中にも、
もらい泣きする者が大勢いた。
その様子は深く心を打つものだった。
みな、じっと動かなかった。

 

ゴータマ・ブッダは黙したままだった。


死んだ子供を見、
それから
嘆き悲しんでいる母親を見、
そして言った、

 

「泣かなくていい。
私の言うとおりにすれば、
子供は生き返る。

 

村へ戻りなさい。
死んだ子はここに残しておいていい。

 

村へ戻って
家ごとに尋ねなさい、

『今まで、おたくで死んだ人がいますか』と。

 

もし今までに
誰も死んでいない家があったら、
その家で食べ物を乞うのだ。

 

パンでも、ご飯でも、何でもいい。

とにかく、
誰も死んでいない家で物を乞う。

 

そのパンなりご飯なりによって、
子供はすぐに生き返るだろう。

 

さあ行きなさい。
時間を無駄にしてはいけない。」


女は喜んだ…
「奇跡が起こる」と。


それでゴータマ・ブッダの足に触れ、
村へ向かって駆けていった。

 

村はそれほど大きなものではなかった。
家は数えるほどしかなかった。
女は家から家へ尋ねてまわった。

 

でも、どの家もこう言うのだった…

 

「それは無理なことだ。
そんな家などありはしない。
この村ばかりではない、
この世のどこへ行ったって、
誰も死んだことのない家などありはしない…

 

どの家でも、
必ず誰かが死に、
家人はそれを嘆き悲しんでいる。」


だんだん女にもわかってきた。


ゴータマ・ブッダは何か企んでいる。

 

そんなことは無理だ。

 

でも、女はまだ望みを捨てなかった。

そして村の家を一軒残らずまわった。

 

その涙は乾き、
その望みも消え果てた。

 

ところが突然、
新たな平安の訪れが感じられた。

 

 

彼女は『理解』した…

 

 

生まれた者は必ず死ぬ、
長さが違うだけだ、
早く死ぬ者もあれば、
遅く死ぬ者もある。

 

 

死は不可避だ。

 

 

女はゴータマ・ブッダのもとに戻り、
その足に触れて言った、

 

「みんなの言うとおり、
あなたの慈悲は、
計り知れません。」

 

いったいどういうことなのか、
誰にもわからなかった。

 

ゴータマ・ブッダはこの女をサニヤス(弟子)に入門させた。
女は比丘尼に、サニヤシン(弟子)になった。
入門した。

 


アーナンダはゴータマ・ブッダに尋ねた、

 

「どうして生き返らせなかったのですか。
こんなにきれいな子供なのに。
それに女はあれほど悲しんでいたのに。」

 

ゴータマ・ブッダは言った、

 

「たとえ生き返ったところで、
子供はいずれ死ぬ。
死は不可避だ。」

 

アーナンダは言った、

 

「でもそれでは、
人々に対して、
人々の悩みや苦しみに対して、
あまり鋭敏だとはいえません。」

 

ゴータマ・ブッダは言った、

 

「私は鋭敏だ。
あなたは感傷的だ。

 

自分がもらい泣きしたからといって、
それが鋭敏だというのか。

 

それは子供じみている。

 

あなたは生を『理解』していない。

生という現象がわかっていない。」

 

 


(このゴータマ・ブッダのお話しは
導師 master osho のある弟子が質問をしたことに
oshoがお話しをしてくれた一部分です。

 全体のお話しを以下に載せます。)

 

 


質問…

 

瞑想 meditation が深まるにつれて、
人や物に対する鋭敏さ増していきます。
でも鋭敏さが増すにつれ、
対象に対する一種の深い親しみが感じられるようになります。
その親しみから、通常、微妙な執着が生まれます。
どうしたら、
鋭敏でありながら
超然としていられるのでしょうか?

 

 

osho…

 

どうしたら
鋭敏でありながら
超然としていられるか。

 


この2つは対立するモノではない。

 


鋭敏になればはるほど超然となる。
あるいは
超然となればますます鋭敏になる。

 


鋭敏さは執着ではなく、
鋭敏さは覚醒だ。

 


鋭敏になれるのは、覚醒した人間だけだ。

 

覚醒していなければ、鋭敏にはなれない。

 

無意識であるときは、まったく鋭敏ではない。

 

意識が増せば増すほど鋭敏になる。

 


ブッダ(目覚めた人・覚醒した人)はあくまで鋭敏だ。
最大限に鋭敏だ。

 

ブッダ(目覚めた人・覚醒した人)は可能なかぎり感じ、
覚醒(目覚めている)している。

 

 

鋭敏で覚醒していたら、
執着することはない…

 

超然としている。

 

 

なぜなら
覚醒という現象が橋を壊すからだ。

 

自分と物との間の橋、
自分と人々との間の橋、
自分と世界との間の橋が、
壊される。

 

 

無意識、
無覚醒こそが、
執着の原因だ。

 


覚醒していれば、
突然、橋は消え失せる。

 

覚醒しているとき、
自分と世界とを結ぶものはない。

 


世界はそこにあり、
自分もそこにある…

 

しかし、

 

その2つの間の橋は消え失せている。

 

その橋は無意識によって作られる。

 


だから、
「鋭敏になれば執着するようになる」
というのは見当違いだ。

 


鋭敏になればなるほど、
執着はなくなる。

 

執着は非常に粗大な資質だ。
繊細なものではない。

 


執着に覚醒や『気づき』はいらない。

 

 

動物でさえ執着するのは容易だ。
むしろ動物のほうが執着しやすい。
主人に対する犬の執着心は、人間の比ではない。
犬はまったく無意識だ。
それで執着が起こる。

 

だからこそ、

 

人間関係が希薄になった国々、西洋では、
犬などの動物を相手にするようになるのだ。

 

もはや人間関係は存在していない。

 

人間社会が消えつつあり、
人々はみな孤独や疎外を感じている。

 

群衆は存在するが、
自分との結びつきはない。

 

自分は群衆の中で独りだ。

 

 

その孤独が怖ろしい。恐ろしい。

 

 

誰かにしがみついていれば、
また誰かが自分にしがみついていれば、

 

「自分はこの世界、この見知らぬ世界の中で
独りではない。
誰かが自分と一緒にいる」

 

と感じられる。

 

この所属の感覚が、
一種の安心感を与える。


人間関係が不可能なると、
人は動物を相手として求める。

 

 


東洋では、
たとえ牛を信仰していようとも、
牛と結びつきを求めることはない。

 

ところが西洋の人々は、
犬などの動物と深く結びついている。

 

東洋の場合、口では
「自分は牛を聖なる動物として信仰する」
と言いながら、
動物虐待は日常だ。

 

東洋の人々は、
動物をひどく虐待しながら、
「自分たちは非暴力的だ」
と考えている。

 

そこが西洋人には理解できない。

 

世界中、特に西洋には、
動物を虐待から守る団体がいくつもある。

 

だから西洋では犬を打つわけにはいかない。
もし打ったりしたら犯罪行為になり、刑罰を受ける。

 

その裏にあるものは何か。

 

人間関係が消失したのだ。

 

 

ところが、
1人では生きていけない。

 

 

結びつき、
所属感、
誰かと一緒だ
という感覚が必要だ。

 

それが動物が良い友人となる。
動物の執着心はたいへんに強い。
人間の比ではない。

 

 

執着は覚醒を必要としない。
むしろ、
覚醒は障害となる。

 


覚醒すればするほど、
執着は少なくなる…
執着の必要が消え去る。

 

 

なぜ人は他人に執着したがるのか。

独りでは満足を感じないからだ。

何かが足りない。

自分の中で何かが欠けている。

自分は満ち足りていない。

充足するためには
誰かが必要だ。

だから執着が生じる。

 

 

もし覚醒していたら、

あなたは満ち足りている。

一個の全体だ。

もう円環は完結している。

何も欠けていない。

だから誰も必要ではない。

自分独りで
完全なる独立性が感じられる。
まったくの充足が感じられる。

 

 

 

だからといって、
人を愛さなくなるわけではない。

 

むしろ、その逆に、
そうして初めて
人を愛せるようになる。

 

 

 

誰かに従属している人間は、
その従属相手を愛することができない。
憎むだけだ。

 

誰かを必要としている人間は、
その必要とする相手を愛することができない。
憎むだけだ。

 

なぜなら
その相手が束縛となるからだ。

 

 

 

相手がいなければ
生きられない。

 

相手がいなければ
幸福になれない。

 

だから
相手は
幸福と不幸の両方の源になる。

 

相手なしではどうにもならない。

それによって束縛の感覚が生まれる。

相手によって自分は束縛されている。

それで腹が立ち、
それに対して戦う。

 

そのようにして人々は
憎み、
愛する。

 

その愛は決して深いものではない。

 

 

 


覚醒した人間は
(光明 enlightenment が起こった人)
ただ愛するのみだ。

 

なぜなら相手を必要としないからだ。

 

そうした愛は、
まったく次元の異なるものだ。

 


それは執着ではない。

 


彼は従属的ではない。
彼は相手に従属していないし、
相手を自分に従属させることもない。

 

 

彼は自由なままだし、
相手の自由も許す。

 


それは
二個の自由な主体の出会いであり、
二個の完全な存在者の出会いだ。

 

その出会いは、
お祝いであり、お祭りだ。

 

従属ではない。

 

その出会いは、
喜びであり、遊びだ。

 

 

 

だからこそインドでは、
クリシュナの生涯のことを
クリシュナ・リーラ
「クリシュナの遊び」
と言うのだ。

 

彼は数多くの人々を愛しているが、
そこに執着はない。

 

でもその相手方、
つまりゴピやゴパル、
「友達」や「女友達」の方は、
そうではない。

 

彼らは執着している。

 

だから、クリシュナが
ブリンダーヴァンからドワラカへ移るとき、
彼らは泣いて悲しむ。
たいそう嘆く。

 

なぜクリシュナが自分たちを忘れてしまったのか
考えあぐねる。

 

べつにクリシュナは忘れていない。
でも
彼に苦痛はない。

 

なぜなら
彼は誰にも依存していなかったからだ。

 

ドワラカに移っても、
ブリンダーヴァンにいたときと同じくらい、
彼は完全で幸福だ。

 

ドワラカにおける彼の愛は、
ブリンダーヴァンにいたときと同じくらい花開いている。

 

 

愛の対象は変わったが、
愛の源泉は同じままだ。

 

 

彼の近くに来る人は、誰でも贈物を受け取る。

 

この贈物は無条件的だ。

 

何の返報も要求されない。
何の謝礼もいらない。


覚醒した意識を通して現れる愛は、
無条件的で、
純粋な贈物だ。

 

それを与える者は、
与えるからこそ幸福だ。

 

与えるという行為が、
至福であり、
エクスタシーだ。

 

 

 


だから覚えておくように。
瞑想 meditation によって
鋭敏さが増してきたら、
おのずと執着は減り、
あなたはますます超然とする。

 

自分自身に根づき、
自分自身に中心が定まっていくから、
他人を自分の中心として使わなくなる。

 

 


執着とは何か。

 

執着とは、
他者を自分の存在の中心として使うことだ。

 

 


マジュヌはライラに執着している。
彼は
「ライラなしには生きられない」と言う。

 

存在の中心が移動している。

 

「これなしでは生きられない」

 

とは、
自分の『魂』が
自分の中にない
ということだ。

 

 

そのような人間は
独立した存在者ではない。

 

中心がどこかに移動している。

 

 

 

この『中心の移動』
つまり
中心が自分から他のものへと「移動」することこそが執着だ。

 

 

 

もし鋭敏だったら、
あなたは相手を感じはしても、
相手を生の中心にはしない。

 

いつも自分に中心を定めている。

 

中心が定まっていたら、
相手はあなたから
さまざまな贈り物を受け取る。

 

 

それは贈り物であって、
取り引きではない。

 

 

自分の手もとに
溢れるほどたくさんあるから、
相手に分かち与える。

 

そして相手が受け取ってくれから、
ありがたく思う。

 

それで充分だ。

 

それ以上はない。

 

 

 

 

だからこそ私はいつも、
心の欺瞞には気をつけなさい
と言うのだ。

 

あなたはこう考える、

 

「自分は瞑想 meditation している、
そして
それによって鋭敏になった」

 

それから疑問が生じる

 

「なぜ、自分は執着するのか」

 

もし執着するとしたら、
事態は明らかだ…

 

その鋭敏さは覚醒によるものではない。

 


実際、
それはまったく『鋭敏さ』などではなく、
たぶん「感傷」だ。

 


それはまったく違うものだ。

 


たとえば、
あなたは感傷的になって、
小さなことに
泣いたり、
悲しんだり、
感動したりする。

 

心には容易に嵐が起こる。

 

でもそれは感傷癖だ。

 

『鋭敏さ』ではない。

 

 

 


こんな話がある。

 

ゴータマ・ブッダがある村にいた。
すると女が1人やってきた。
女は嘆き悲しんでいた。
子供が突然死んだのだ。
たった1人の子供だった。

 

ゴータマ・ブッダはその村にいた。
人々は女に言った

 

「泣かなくていい。
あの人のところへ行くんだ。
あの人は無限の慈悲を持っているそうだ。
あの人が望めば、子供も生き返るだろう。
だから泣かなくていい。
あのブッダのところへ行きなさい。」

 

そこで女は、
死んだ子供を抱いてやってきた…
嘆き悲しみながら…。

 

村中の人々が後に続いた。
村中が心を痛めていた。
ゴータマ・ブッダの弟子たちも心を痛めた。

 

それで心に祈り始めた…
ゴータマ・ブッダがこの子に
慈悲をたれ、
祝福を与え、
それで子供が生き返りますように…。

 

ゴータマ・ブッダの弟子の中にも、
もらい泣きする者が大勢いた。
その様子は深く心を打つものだった。
みな、じっと動かなかった。

 

ゴータマ・ブッダは黙したままだった。


死んだ子供を見、
それから
嘆き悲しんでいる母親を見、
そして言った、

 

「泣かなくていい。
私の言うとおりにすれば、
子供は生き返る。

 

村へ戻りなさい。
死んだ子はここに残しておいていい。

 

村へ戻って
家ごとに尋ねなさい、

『今まで、おたくで死んだ人がいますか』と。

 

もし今までに
誰も死んでいない家があったら、
その家で食べ物を乞うのだ。

パンでも、ご飯でも、何でもいい。

 

とにかく、
誰も死んでいない家で物を乞う。

 

そのパンなりご飯なりによって、
子供はすぐに生き返るだろう。

 

さあ行きなさい。
時間を無駄にしてはいけない。」


女は喜んだ…
「奇跡が起こる」と。


それでゴータマ・ブッダの足に触れ、
村へ向かって駆けていった。

 

村はそれほど大きなものではなかった。
家は数えるほどしかなかった。
女は家から家へ尋ねてまわった。

 

でも、どの家もこう言うのだった…

 

「それは無理なことだ。
そんな家などありはしない。
この村ばかりではない、
この世のどこへ行ったって、
誰も死んだことのない家などありはしない…

 

どの家でも、
必ず誰かが死に、
家人はそれを嘆き悲しんでいる。」


だんだん女にもわかってきた。


ゴータマ・ブッダは何か企んでいる。

 

そんなことは無理だ。

 

でも、女はまだ望みを捨てなかった。

そして村の家を一軒残らずまわった。

 

その涙は乾き、
その望みも消え果てた。

 

ところが突然、
新たな平安の訪れが感じられた。

 

 

彼女は『理解』した…

 

 

生まれた者は必ず死ぬ、
長さが違うだけだ、
早く死ぬ者もあれば、
遅く死ぬ者もある。

 

 

死は不可避だ。

 


女はゴータマ・ブッダのもとに戻り、
その足に触れて言った、

 

「みんなの言うとおり、
あなたの慈悲は、
計り知れません。」

 

いったいどういうことなのか、
誰にもわからなかった。

 

ゴータマ・ブッダはこの女をサニヤス(弟子)に入門させた。
女は比丘尼に、サニヤシン(弟子)になった。
入門した。


アーナンダはゴータマ・ブッダに尋ねた、

 

「どうして生き返らせなかったのですか。
こんなにきれいな子供なのに。
それに女はあれほど悲しんでいたのに。」

 

ゴータマ・ブッダは言った、

 

「たとえ生き返ったところで、
子供はいずれ死ぬ。
死は不可避だ。」

 

アーナンダは言った、

 

「でもそれでは、
人々に対して、
人々の悩みや苦しみに対して、
あまり鋭敏だとはいえません。」

 

ゴータマ・ブッダは言った、

 

「私は鋭敏だ。
あなたは感傷的だ。

 

自分がもらい泣きしたからといって、
それが鋭敏だというのか。

 

それは子供じみている。

 

あなたは生を『理解』していない。

生という現象がわかっていない。」

 

 

 


これがキリスト教仏教の違いでもある。

 

伝えによると、
エスは多くの奇跡を行なっている…
人々を生き返らせている。

 

ラザロが死んだとき、
エスは彼に触れて蘇生させている。

 

我々東洋の人間には、
ゴータマ・ブッダが死人の頭に触れ蘇生させるなど、
とても考えられない。

 

普通の人々、
普通の心から見れば、
ゴータマ・ブッダよりイエスほうが
愛と慈悲に満ちている。

 

でも、私に言わせれば、
ゴータマ・ブッダのほうが
もっと鋭敏で、慈悲深い。

 

たとえラザロが生き返ったところで、
何も変わりはしない。


いずれ彼は死ぬ…
最後には必ず死ぬ。

 

その奇跡には意味がない。

 

究極的な価値はない。

 

ゴータマ・ブッダがそんなことをするなど、
想像もできない。

 

エスがそれを行なったのは、
ある新しいもの、
新しい教えを、
イスラエルもたらそうとしていたからだ。

 

その教えは、
人々には理解できないほどに深いものだった。

 

だからそれを教えまわるために、
奇跡を創り出す必要があった。

 

奇跡なら人々にも理解できる。

 

深い教え、秘教的教えは理解できない。

 

奇跡なら理解できる。
奇跡を通してなら、
その教えも受け容れやすくなるだろう。

 

エスのしようとしていたことは、
仏教的な教えを、
仏教的でない地へもたらすことだった…

 

東洋的な教えを、
悟りという伝統のない国、
ブッダ(目覚めた人)たちの伝統のない国へ、
もたらすことだった。

 

 

 


ゴータマ・ブッダのほうが、
もらい泣きしていた弟子たちよりも鋭敏だったと言える。

 

弟子たちは感傷的だった。


感傷と鋭敏とを
取り違えてはいけない。

 


感傷は平凡なものであり、
鋭敏さは非凡なものだ。

 


鋭敏さは努力を通じて起こる。
それは達成物だ。
獲得するものだ。

 

感傷は獲得物ではない。
生まれつきだ。
動物的な遺産だ。
すでにそれは、
体や細胞や心の中に存在している。

 


鋭敏さは可能性だ。
もとからあるものではない。
自分で創り出すものであり、
努力の結果として起こるものだ。

 

それが起これば、
あなたはきっと超然とするようになる。

 

 

 


ゴータマ・ブッダはどこまでも超然としていた。

 

死んだ子供がそこにいても、
まったく影響されている様子がない。

 

彼は
その女その母親と遊んでいる。

 

女のほうは苦悩していたが、
ゴータマ・ブッダは何かを企んで遊んでいる。

 

一見すれば、それは酷なことだ。

子供を亡くした母親を計略にかけて遊びなんて、あんまりだ。

 

ゴータマ・ブッダは謎を与えた。

 

そして相手が空っぽの手で
戻ってくるのをよく承知していた。

 

でも繰り返して言うが、
彼には真の慈悲があった。

 

この女に
成長と成熟を
もたらそうとしていた。

 

 

 

死というものが『理解』できて
初めて
人は成熟したといえる。

 

 

死を受け容れられるようになって
初めて
自分の存在の中心ができる。

 

 

死を現実として受け容れることは
死の超越だ。

 

 


ゴータマ・ブッダ
その状況を利用した。

 

ゴータマ・ブッダの関心は、

死んだ子供よりも

生きている母親にあった。

 

 


死んだ子供はいずれ生に戻ってくる。

彼はそれを承知していた。

 

だから奇跡の必要はない。

 

もし子供が蘇生したら、
きっと母親は
機会を失うことになるだろう。

 

そしてまた
何生も待つことになるだろう…

ブッダ(目覚めた人)に出会うという機会を。

 

 

 

 

東洋では、
奇跡を行なうのは
三流の行者だけだ。

 

一流どころが
奇跡を行ったためしはない。

 

一流どころは、
より高い水準で働きかける。

 

ゴータマ・ブッダもまた奇跡を行ったが、
その奇跡は、
きわてめ高い水準のものだ。

 

その母親は『変容』を遂げつつあった。

 


でも、
それを『理解』するのは難しい。

 

私たちの心は粗大だ。

 

私たちに『理解』できるのは、

 

感傷であって、
鋭敏さではない。

 

 

 

鋭敏さとは、
周囲に起こる全てを
感じ取る
覚醒を意味する。

 

そして感じ取るためには、
執着があってはいけない。

 

そこが大事だ。

 

執着していたら、
感じるべき自分がいない。

 

もはや自分の外に出ている。

 

 


だから、
ある人間のことを知りたければ…


本当のことを知りたければ、

 

その友人に尋ねてはいけない。

友人には執着がある。


また
その敵にも尋ねてもいけない。

敵にも執着がある。

 


反対の執着が。

 


だから尋ねるなら、
中立の人間、
友でも敵でもない人間に尋ねることだ。

 


そうしてはじめて真実はわかる。

 

 

友は信用できないし、
敵も信用できない。

 

 

ところが私たちは、
友か敵のどちらかを信じてしまう。

 

どちらも正しくない。

 

どちらにも中立的な『観照』がない。

 

どちらにも超然とした見地がない。

 

「離れたところに立って見る」
ことができない。

 

ともに、
ある一定の視点に立ってものを見ている。

 

そしてともにその視点に執着している。

 

執着があれは、
生を全面的に感じることはできない。

 

執着があるとは、
「一定の視点をとっている」
ということだ。

 

だから
『全面的』ではない。

 

「断片」を握りしめているだけだ。

 

「断片」はつねに虚偽だ。

 

『全体』だけが真実だ。

 

 

 

 

要は、
瞑想 meditation すること、
もっと鋭敏になることだ。

 

そして、

 

自分がどのくらい超然としているかを、
基準とすることだ。

 

もし執着が大きくなっていると感じたら、
その瞑想 meditation はどこかで間違っている。
それが基準だ。

 

 

私に言わせれば、
執着は破壊できるものではないし、
超然も実践できるものではない。

 


実践できるのは瞑想 meditation だけだ。

 


そうすれば、
その成り行きとして、
副産物として、
超然が現れる。

 


瞑想 meditation が
内側に真に花咲けば

きっと
あなたに超然とした感覚が現れる。

 


そうしたら
どこへ行っても、

あなたは害されることがないし、
恐れることもない。


自分の肉体を去るときでも、
あなたは無傷のままだ。


意識はまったく純粋で、
何の混じり気もない。


執着しているときには、
不純物が中に入る。

 

これこそが根本的な不純性だ。


つまり、
自己の存在の中心が失われ、
他人や他のモノが
自己の中心となる。

 

 

 

The first question:

 

Question 1

WITH DEEPENING MEDITATION, ONE BECOMES MORE AND MORE SENSITIVE TO OBJECTS, EVENTS AND PERSONS. BUT DUE TO THIS HEIGHTENED SENSITIVITY ONE FEELS A SORT OF DEEP INTIMACY WITH EVERYTHING, AND THIS USUALLY BECOMES A CAUSE OF SUBTLE ATTACHMENTS. HOW TO BE SENSITIVE AND YET DETACHED?


How to be sensitive and yet detached? These two things are not contraries, they are not opposites. If you are more sensitive, you will be detached; or, if you are detached, you will become more and more sensitive. Sensitivity is not attachment, sensitivity is awareness. Only an aware person can be sensitive. If you are not aware you will be insensitive. When you are unconscious you are totally insensitive – the more consciousness, the more sensitivity. A Buddha is totally sensitive, he has optimum sensitivity, because he will feel and he will be aware to his total capacity. But when you are sensitive and aware you will not be attached. You will be detached, because the very phenomenon of awareness breaks the bridge, destroys the bridge, between you and things, between you and persons, between you and the world. Unconsciousness, unawareness, is the cause of attachment.
If you are alert, the bridge suddenly disappears. When you are alert there is nothing to relate you to the world. The world is there, you are there, but between the two the bridge has disappeared. The bridge is made of your unconsciousness. So don’t think and feel that you become attached because you are more sensitive. No. If you are more sensitive you will not be attached. Attachment is a very gross quality, it is not subtle.

For attachment you need not be aware and alert. There is no need. Even animals can be attached very easily, rather, more easily. A dog is more attached to his master than any man can be. The dog is completely unconscious so attachment happens. That is why in the countries where human relationship has become poor, such as in the West, man goes on seeking relationship with animals, with dogs, with other animals, because the human relationship is no longer there. Human society is disappearing and every man feels isolated, alienated, alone. The crowd is there but you are not related to it. You are alone in the crowd and this aloneness scares. One becomes afraid and fearful.
When you are related, attached to someone, and someone is attached to you, you feel you are not alone in this world, in this strange world. Someone is with you. That feeling of belonging gives you a sort of security. When human relationship becomes impossible then men and women try to make relationships with animals. In the West they are very deeply related to dogs and other animals, but here in the East, although you may be worshipping cows you are not related to them. You may go on saying that you worship the cow as a divine animal, but your cruelty has no end.
In the East you are so cruel with your animals that the West cannot even conceive of how you can go on thinking that you are non-violent. All over the world, particularly in the West, there are many societies to protect animals from the cruelty of men. You cannot beat a dog in the West. If you beat it, it will be a criminal act and you will be punished for it. What is happening really, is that human relationship is dissolving – but man cannot live alone. He must have a relationship, a belonging, a feeling that someone is with him. Animals can be very good friends because they get so attached; no one, no man, can get that attached.

For attachment, awareness is not necessary; rather, awareness is the barrier. The more aware you become the less you will be attached, because the need for attachment disappears. Why do you want to be attached to someone? Because alone you feel you are not enough. You lack something. Something is incomplete in you. You are not a whole. You need someone to complete you. Hence, attachment. If you are aware, you are complete, you are a whole; the circle is now complete, nothing is lacking in you – you don’t need anyone. You, alone, feel a total independence, a feeling of wholeness.

That doesn’t mean that you will not love persons; rather, on the contrary, only you can love. A person who is dependent on you cannot love you: he will hate you. A person who needs you cannot love you. He will hate you because you become the bondage. He feels that without you he cannot live, without you he cannot be happy, so you are the cause of both his happiness and unhappiness. He cannot afford to lose you. This will give a feeling of imprisonment: he is imprisoned by you and he will resent it, he will fight against it. Persons hate and love together, but this love cannot be very deep.

Only a person who is aware can love, because he doesn’t need you. But then love has a totally different dimension: it is not attachment, it is not dependence. He is not dependent on you and he will not make you dependent on him; he will remain a freedom and he will allow you to remain a freedom. You will be two free agents, two total, whole beings, meeting. That meeting will be a festivity, a celebration – not a dependence. That meeting will be a fun, a play.

That is why we have called Krishna’s life KRISHNA-LEELA, the play of Krishna. He loves so many persons but there is no attachment. The same is not true on the part of the GOPIS and the GOPALS, the friends and the girl friends of Krishna. The same is not true. They have become attached, so when Krishna moves from Brindavan to Dwaraka, they weep and cry and suffer. Their anguish is great because they think that Krishna has forgotten them. He has not forgotten, but there is no pain because there was no dependence; he is as whole and happy in Dwaraka as he was in Brindavan and his love is flowing as much in Dwaraka as it was in Brindavan. The objects of love have changed but the source of love remains the same. So whosoever comes near him receives the gift. And this gift is unconditional: nothing is required as a return, nothing is asked as a return.
When love comes through an aware consciousness it is just a pure gift with no condition, and the person who is giving it is happy because he is giving it. The very act of giving is his bliss, his ecstasy.


So remember that if you feel that through meditation you have become more sensitive, then automatically you will become less attached, more detached. Because you will be more grounded in yourself, you will be more centered in yourself, you will not use somebody else as your center.
What does attachment mean? Attachment means that you are using someone else as your center of being, Majanu is attached to Laila: he says he cannot live without Laila. That means the center of being has been transferred. If you say that you cannot live without this or that, then your soul is not within you. Then you are not existing as an independent unit, your center has moved somewhere else.
This movement of the center from yourself to something else, to the other, is attachment. If you are sensitive, you will feel the other, but the other will not become the center of your life. You will remain the center and out of this centering the other will receive many gifts from you. But they will be gifts, they will not be bargains. You will simply give because you have too much, you are an overflowing. And you will be thankful that the other has received it. That will be enough and that will be the end.
That is why I go on saying that the mind is a great deceiver. You think that you are meditating and that that is why you have become sensitive. Then the question of why you get attached arises. If you get attached, that is a clear symptom that the sensitivity is not because of awareness. Really, it is not sensitivity at all. It may be sentimentalism: that is a totally different thing. You can be sentimental: you can cry and weep over small things, you can be touched, and a storm can be created very easily within you – but that is sentimentalism, not sensitivity.


Let me tell you a story. Buddha was staying in a village. A woman came to him, weeping and crying and screaming. Her child, her only child, had suddenly died. Because Buddha was in the village, people said, ”Don’t weep. Go to this man. People say he is infinite compassion. If he wills it, the child can revive. So don’t weep. Go to this Buddha.” The woman came with the dead child, crying, weeping, and the whole village followed her – the whole village was affected. Buddha’s disciples were also affected; they started praying in their minds that Buddha would have compassion. He must bless the child so that he will be revived, resurrected.
Many disciples of Buddha started weeping. The scene was so touching, deeply moving. Everybody was still. Buddha remained silent. He looked at the dead child, then he looked at the weeping, crying mother and he said to the mother, ”Don’t weep, just do one thing and your child will be alive again. Leave this dead child here, go back to the town, go to every house and ask every family if someone has ever died in their family, in their house. And if you can find a house where no one has ever died, then from them beg something to be eaten, some bread, some rice, or anything – but from the house where no one has ever died. And that bread or that rice will revive the child immediately. You go. Don’t waste time.”

The woman became happy. She felt that now the miracle was going to happen. She touched Buddha’s feet and ran to the village which was not a very big one, very few cottages, a few families. She moved from one family to another, asking. But every family said, ”This is impossible. There is not a single house – not only in this village but all over the earth – there is not a single house where no one has ever died, where people have not suffered death and the misery and the pain and the anguish that comes out of it.”

By and by the woman realized that Buddha had been playing a trick. This was impossible. But still the hope was there. She went on asking until she had gone around the whole village. Her tears dried, her hope died, but suddenly she felt a new tranquility, a serenity, coming to her. Now she realized that whosoever is born will have to die. It is only a question of years. Someone will die sooner, someone later, but death is inevitable. She came back and touched Buddha’s feet again and said to him, ”As people say, you really do have a deep compassion for people.” No one could understand what had happened. Buddha initiated her into SANNYAS, she became a BHIKKHUNI, a SANNYASIN. She was initiated.

Anand asked Buddha, ”You could have revived the boy. He was such a beautiful child and the mother was in such anguish.” But Buddha said, ”Even if the child was resurrected, he would have had to die. Death is inevitable.” Anand said, ”But you don’t seem to be very sensitive to people, to their misery and anguish.” Buddha replied, ”I am sensitive; you are sentimental. Just because you start weeping, do you think you are sensitive? You are childish. You don’t understand life. You are not aware of the phenomenon.”


This is the difference between Christianity and Buddhism. Christ was reported to have done many miracles of reviving people. When Lazarus was dead, Jesus touched him and he came back to life. We in the East cannot conceive of Buddha touching a dead man and bringing him back to life. To ordinary persons, to the ordinary mind, Jesus would look more loving and compassionate than Buddha. But I say to you that Buddha is more sensitive, more compassionate, because even if Lazarus was revived, it made no difference. He still had to die. Finally Lazarus had to die. So this miracle was of no use, of no ultimate value. One cannot conceive of Buddha doing such a thing.
Jesus had to because he was bringing something new, a new message to Israel. And the message was so deep that people would not understand it so he had to create miracles around it – because people can understand miracles but they cannot understand the deep message, the esoteric message. They can understand miracles, so through miracles they might become open and able to be receptive to the message. Jesus was carrying a Buddhist message to a land which was not Buddhist; an Eastern message to a country which had no tradition of enlightenment, of many Buddhas.

We can conceive that Buddha was more sensitive than his disciples who were weeping and crying. They were sentimental.

Don’t misunderstand your sentimentality for sensitivity. Sentimentality is ordinary; sensitivity is extraordinary. It happens through effort. It is an achievement. You have to earn it. Sentimentality is not to be earned; you are born with it. It is an animal inheritance which you already have in the cells of your body and your mind. Sensitivity is a possibility. You don’t have it already. You can create it, you can work for it – then it will happen to you. And whenever it happens, you will be detached.

Buddha was totally detached. The dead child was there but he didn’t seem to be affected at all. The woman, the mother, was miserable and he was playing a trick on her. This man seems to be cruel and this playing of a trick seems to be too much for a mother whose child has died. He gave her a riddle, and he knew well that she would come back empty-handed. But I say again that he has real compassion because he was helping this woman to grow, to be mature. Unless you can understand death you are not mature; and unless you can accept death, you don’t have a center within your being. When you accept death as a reality, you have transcended it.
Buddha used the situation. He was less concerned with the dead child and more concerned with the alive mother because he knew that the dead child would come back to life again – there was no need for the miracle. But if the child was revived the mother might have lost an opportunity. For lives together she might not again have a meeting with a Buddha.


So in the East only third-rate SADDHUS have been doing miracles; the first-rate have never done any – they work on a higher level. Buddha is also doing a miracle but the miracle is being done on a very high level. The mother is being transformed.
But it is difficult to understand because our minds are gross and we only understand sentimentality, we cannot understand sensitivity. Sensitivity means an alertness which feels everything that happens around. And you can feel only when you are not attached. Remember this: if you are attached you are no longer there to feel, you have moved out of you. So if you want to know the truth about someone don’t ask his friends. They are attached. And don’t ask his enemies. They are also attached, in the reverse order. Ask someone who is neutral, neither a friend nor an enemy. Only he can say the truth.
Friends cannot be believed, enemies cannot be believed; but we believe either the friends or the enemies. Both are bound to be wrong because they don’t have a neutral witnessing, they don’t have a detached view. They cannot stand aloof and look because they have an investment in the person. Friends have an investment and enemies have an investment. They see according to particular viewpoints, and with those viewpoints they are attached. The moment you feel you are attached, you have taken a viewpoint. The totality is lost; only a fragmentary thing is in your hands. And fragments are always lies because only the whole is true.


Meditate, become more sensitive, and take it as a criterion that you will go on becoming more and more detached. If you feel that attachment is growing, then you are erring somewhere in your meditation. These are the criteria.
And to me, attachment cannot be destroyed and detachment cannot be practised. You can only practise meditation – and detachment will follow as a consequence, as a by-product. If meditation really flowers within you, you will have a feeling of detachment. Then you can move anywhere and you will remain untouched, unafraid. Then when you leave your body, you will leave it unscratched. Your consciousness will be absolutely pure, nothing foreign has entered into it. When you are attached, impurities enter into you. This is the basic impurity: that you are losing your center and somebody else or something else is becoming your center of being.

 

 

Vigyan Bhairav Tantra, Vol 2

The Book of the Secrets: A New Commentary, The original series of 80 discourses were simply called ”Vigyan Bhairav Tantra”. For publication as books they were divided up into 5 volumes, called the ”The Book of the Secrets Volume 1 - 5” (16 discourses each). The books were later published as ”Vigyan Bhairav Tantra Volumes 1 and 2”,(40 discourses each). The two volumes also come with a deck of 112 cards to represent the various meditations.

Talks given from 25/03/73 pm to 08/11/73 pm English Discourse series

 

CHAPTER 34
The greater the sensitivity, the greater the detachment

2 November 1973 pm in Bombay, India

 

このお話しの和訳された本はこちらです。

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◯ ◯ ◯

 

 

 

『気づき』は

苦しみの闇の中の一筋の光ですね。

 

ゴータマ・ブッダと出会い

「死」から逃げず

直接向き合い

「死」への理解が起こったことで

 

子供を失ったお母さんは

自分を自分の苦しみから救い出しました。

 

 

「死」と「生」は自然なことであることを受け容れる

 

 

癒しは
無理なく
焦らず
マイペースで

 

 

自分の内側にある『魂(源泉)』が
愛100%のエネルギーで適切に安全に
自分を完全なる癒し光明 enlightenment へと導いてくれます。

 

 

1人1人みなさんの生まれ持つ『自然治癒力』を100%信頼しています。

 

 

本来のバランス(中庸)の状態を正しく『思い出す』

sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。

 

『The last word of Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha – sammasati.』

 

瞑想と愛 (^-^) meditation & love

 

 


花仙人

 

 

 

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導師 master や導師 master の指先を見るのではなく

自分の内側にある『魂(源泉)』(満月)を見るのだよ

自分の真の導師 master は自分の内側にある『魂(源泉)』だよ

と外側の光明 enlightenment を得た導師 master たちは伝え続けています。

大切なことは

自分の内側にある『魂(源泉)』を再び「感覚」で『思い出す』こと。

 

 

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内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』

 

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瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。

 

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『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』シリーズ

 

シヴァによって与えられたという五千年前の112の瞑想技法集
『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』の
導師 master osho が講話です。
和訳された本は全部で10巻です。

 

第一巻 内なる宇宙の発見
第二巻 源泉への道
第三巻 第三の眼
第四巻 沈黙の音
第五巻 愛の円環
第六巻 覚醒の深みへ
第七巻 光と闇の瞑想
第八巻 存在とひとつに
第九巻 生の神秘
第十巻 空の哲学

 

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Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

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The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

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Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

The last morning star
夜明けの星

サハジョとダヤの女性の覚者の詩

 

oshoアクティブ瞑想に関してはこちら、
http://www.osho.com/ja/meditate/active-meditations/why-active-meditations

 

oshoの瞑想音楽はこちら、

 

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花仙人