花仙人の日記

〈 seed of earth 〉地球を自然のままに…

一休と弟子の蜷川の死

一休と弟子の蜷川の死

 

 


人間は
地球の他の存在たちと比べて
「死」を過度に恐れるため
「生」に執着する
という思いを強く持っていて
内側にある
死と生の二元性の両極端にマインド(思考)が動く
不安定なアンバランス(偏り)な状態が
あらゆる苦しみの原因(種)となっている…
ということをこのブログ内のカテゴリにある
宇宙意識と1つ(一元性)のシリーズで
花粉症のたとえを使ったりしてざっとお話しています。

 

 

その苦しみの原因(種)である
◯ エゴ(自我・欲)
◯ マインド(思考)
を全て根こそぎ『手放し』
内側を空っぽの0(ゼロ)の無の状態にして
二元性のアンバランス(偏り)な状態から
一元性の本来のバランス(中庸)の状態へ戻すことで
苦しみはなくなります。

 

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それは
死への恐れ

生への執着
を持つことが
悪いことや弱いこと
という判断や優劣をすることではなく

 

死への恐れ

生への執着
を持って無意識に生きることで苦しむということです。

 

 

人間の肉体の細胞は
生きようとしていて
死のうとはしていませんから
肉体の生命危機となるような場合は
肉体の細胞全体で生きようとするための
防衛本能が働くため
死への恐れ

生への執着
を持つのは自然なことです。


逆に


死への恐れ

生への執着
を持っていなければ
防衛本能を持っていなければ
肉体を危険な目に合わせてばかりとなり
肉体は怪我や病気でボロボロなるといわれています。

 

 

死への恐れ

生への執着
を持っていることを
悪いことや弱いことと思い込むマインド(思考)を持ち
その思いを否定したり、拒否したり、
見て見ぬふりをして無視をしたりして
無意識にその思いに振り回されて生きることは
苦しみとなりますが、

 


死への恐れ

生への執着
を持っていることは自然なことであると意識をして
ただ受け容れることや

 

死と生は自然なことであるということを意識して
ただ受け容れることは

 

死と生の二元性の真ん中の『中庸』に定まり
再び本来の自然なバランス(中庸)の一元性の状態に戻るので

苦しみが軽減したりなくなったりします。

 

 


と言っても…
死と生に関しては
なかなか『理解』が起こることは難しいテーマです。

 

というわけで、前回、
その死に関するお話しで
自分の死ではなく
愛する子供の死
自分以外の他者の死に関する
ゴータマ・ブッダとある女性のお話しを
導師 master osho の講話からご紹介しました。

 

その女性は自分の体験から
死と生の『理解』が起こりました。

 

ゴータマ・ブッダはあれやこれやと
その女性に
言葉によって話して頭の中のマインド(思考)で『理解』させようとはしませんでした。

 

その女性に『気づき』や『理解』が起こりやすい状況を与え
その女性が自らの体験によって「あ!なんかわかった。」と
腑に落ちるように…思えるように…導きました。

 

『気づく』ことで『理解』が起こり
その女性は苦しみを自然と『手放す』ことができました。

 

そして

 

子供を生き返らせて欲しいという
自分の欲を満たすことはせず、

 

死と生は自然なことであるということに
『気づき』を与える状況を作ってくれ

 

苦しみを自然と『手放す』ことができる機会を与えてくれた

ゴータマ・ブッダの慈悲深い愛を実体験から知り深く感謝しました。

 

 


光明 enlightenment を得た導師 master たちはみな


人間の欲を満たしてあげることではなく

 

苦しみの原因(種)である
人間の内側にある欲(エゴ(自我))に『気づく』ことができるように…と導きます。

 

 


『気づく』ことで
『理解』が起こり
すると
自然と欲(エゴ(自我))を『手放す』ことができるからです。

 


『気づき』は苦しみの暗闇の中の一筋の光のようです。

 


光明 enlightenment を得た導師 master たちはけっして
人間から無理やり引き剥がすように
欲(エゴ(自我))を切り取って捨てたりはしません。

 


本人に『気づく』ことのチャンスを与え
本人が無理なく自然に欲(エゴ(自我))を『手放す』ことができるようにします。

 

そのためなら何年でも何生でも待ちます。

 

前回ご紹介したお話しの中の女性のように
自分で自分を苦しみから救い出し癒すことができることを
言葉という頭の中の知識(マインド(思考))ではなく
その本人の実の体験をとおして『理解』が起こるように導きます。

 

真の癒しです…

 

 

 

今日は
他者の死ではなく
自分の死に関するお話しを
導師 master osho の講話からご紹介します。


登場人物は
ゴータマ・ブッダと同じく光明 enlightenment を得た
禅の導師 master 一休さん
弟子 disciple の蜷川さんです。


日本だけでなく世界中でも有名な禅師の一休さん
子供のころにテレビアニメで観た一休さんのように
頓知のある人で光明 enlightenment を得た
日本中に多くの弟子 disciple を持つ導師 master でした。


弟子 disciple の蜷川が死に逝くときの
導師 master 一休と弟子 disciple 蜷川との対話は
師弟の信頼の慈悲の愛に満ち満ちていて
これなら死に際に光明 enlightenment しちゃうでしょ〜
と感動して何度読んでも涙が溢れ出てしまいます。


前回ご紹介したお話しのように
導師 master osho はこの講話の中でも
一休と蜷川の逸話をとおして
死に関するお話しを盛りだくさん話しています。
何かの『気づき』のきっかけとなれれば…

 

 

 

 

◯ ◯ ◯

 

 

 

 

(逸話の紹介です。)

 

ちょうど蜷川が逝く前、
禅師、一休が蜷川を訪れていた。

 

「導いてやろうか?」

 

と、一休は聞いた。

 

蜷川は答えた。

 

「わたしは
ひとりでここに来た。
そして
ひとり去る。

 

一休、どんな助けがあなたにできるだろう?」

 

一休は答えた。

 

「本当に
自分が来て、去る
と思っているなら、

 

あなたは
惑いの中にいる。

 

来ることも、去ることもない道を、
あなたに示そう」

 

その言葉をもって、
一休は、
はっきりとその道を明かし、
蜷川は微笑んで逝った。

 

 

 

(osho の講話です。)

 

死は最高潮であり、
生が達せられるもっとも高い頂きだ。

 

死の瞬間の可能性には、
かなりのものがある。

 

あなたが
準備に準備を重ね、
瞑想 meditation し、
待ってきたなら、
死の瞬間、
あなたに光明 enlightenment を得させることが
簡単にできる。

 

その前であっても、
それが起こるためには、
死ぬ用意を整えておかなければならない。

 

 

 

死において、何が起こるだろう?

 

突然、あなたは
自分の肉体
自分のマインド(思考)を
失っていく。

 

突然、
自分自身から
(自分自身だと信じているものすべてから)、
離れるのを感じる。

 


それは痛い。

 


自分が虚空に引きずり込まれるのを感じるからだ。


あなたはもう、どこにもいなくなる。

 


つねに
肉体とマインド(思考)に同一化し、
超越を知ることがまったくなかったからだ。

 

肉体とマインド(思考)を超えた
自分自身をまったく知らない。

 

あかたが、
あまりにも周辺に釘づけになり、
取り憑かれていたために、

 

中心(センター)は完全に『忘れ』去られている。

 

 

 

死において、
あなたはこの事実に遭遇しなければならない。

 

 

 

肉体が離れて行こうとしている。
もうこれ以上、
肉体をとどめることはできない。

 

マインド(思考)があなたから離れようとしている、
あなたはもうマインド(思考)の支配下にはない。

 

エゴ(欲・自我)は溶解しつつある、
『私(自分)』と言うこともできない。

 

 

 

あなたは恐怖におののき、
無の境目にある。
これ以上、あなたは存在しない。

 

 

 

だが準備をしてきていれば、
瞑想 meditation をしてきていれば、

 

(準備とは、
死、無、のこの深淵を利用することに
全力を注いできたということだ)

 

それに引きずり込まれるというより
むしろ

 

中に飛び込む用意をしてきた
ということだ。

 


それには大きな違いがある。

 


いやいやながら、その中に引きずり込まれるなら
…あなたはその中に入って行きたくない。
だから、あなたは引っつかまれてきた…
そうなると、それは痛い。
非常な苦悶だ!

 

その苦悶があまりにも強烈なために、
死の瞬間、
あなたは無意識になる。

 

そして取り逃がす。

 

 

 

しかし、
飛び込む用意があれば苦悶はない。

 

それを受け容れ歓迎すれば、
身体の苦痛の原因はない

 

…むしろ、
あなたはその瞬間が来たことをうれしく思い、お祝いしている。
今、制限となっているこの肉体から抜け出せる、
幽閉されてきたこの肉体から飛び出せる。
つねに苦悩となってきたこのエゴ(欲・自我)から飛び出せる…

 

歓迎できれば、
無意識になることはない。

 

受け容れて歓迎できれば
仏教徒がタタータと呼ぶところの、
『それを受け容れること(アクセプト)』が可能なら…。

 

 

 

だが、
受け容れるだけではないのだ。
受け容れる(アクセプト)という言葉はあまりよくない。

 

深いところに、
『受け容れない』ことが潜んでいるから…

 

ちがう。

 

 

 

あなたが歓迎すれば、
真にそれが祝祭に、
エクスタシーになれば、
それが祝福になれば、
あなたは無意識にはならない。

 

それが祝福になれば、
あなたはその瞬間、
完全に意識的になる。

 

 

 

この2つを覚えておきなさい。

 

拒絶し、ノーと言えば、
あなたはまったく無意識になる。

 

受け容れ歓迎し、ハートのすべてでイエスと言えば、
完全に意識的になる。

 

 

死へのイエスは、
あなたを完全に意識的にし、

 

死へのノーは、
あなたをまったくの無意識にする

 

 

死に方には二通りある。

 

 

ブッダ(目覚めた人・覚醒した人)は
完全に受け容れて死ぬ。

 

そこに抵抗はない。

 

彼と死の間に闘いはない。

 

死は神聖だ。

 

 

あなたは戦いながら死ぬ。

 

 

準備を整え、用意してきていれば死の瞬間、
導師 master は奇跡的に大いなる助けとなる。

 

正しい瞬間の一言で、
内なる光は突然、爆発する。

 

あなたは光明 enlightenment を得る

 

…その瞬間が実に強烈なため、
あなたが一点にしぼられているからだ。

 

 

 

これが、逸話の出来事だ。

 

一休は偉大な導師 master のひとりであり、
実に稀な、革命的で慣行、社会規範に従わない人だ。

 


 


この一休という人には、国中に何千人もの弟子 disciple がいた。

 

弟子 disciple たちを助けるために、
ひとところから別のところへと彼は放浪した。

 

この話は、一休の弟子 disciple のひとり、蜷川についてのものだ。

 

 

 


蜷川はちょうど瀬戸際にいて、
ほとんど光明 enlightenment を得ていた。

 

だが、

 

『ほとんど光明 enlightenment を得ている』のでは意味がない。

 

 

 

 

戻って来ることもある。
最後の最後で落ちることもある。

 

それが起こっていないかぎり、
起こってはいない。

 

あとほんの一歩で、
光明 enlightenment を得るまさに最後の瞬間から、戻って来ることもある。

 

この蜷川はほとんど光明 enlightenment を得ていたが、
まだ経典(知識・マインド(思考))にとらわれていた。

 

 

真理に到達しないかぎり、
経典(知識・マインド(思考))へのとらわれから脱するのはとても難しい。

 


言葉の毒気から抜け出せるのは、
とても難しい。

 

真に光明 enlightenment を得たときにしか
抜け出られない。

 

そのとき、
言葉はただの言葉であって、
そこには何もないと知る。

 

それには実体がない。

 

それは夢を作っているものと同じものからできている。

 

それらはマインド(思考)のさざ波にすぎない、
マインド(思考)の音だ。

 

そしてその意味は?

 

意味は、
われわれによって与えられる。

 

そこに在るものではない。

 

どんな言葉も、
意味あるものではない。

 

そして

 

どんな言葉も、
公の一致によって意味あるものになる。

 

 

だから、
それはただ1つの社会現象であって、
真理とはまったく関係ない。

 

 

だが、
人々は言葉で生きる。

 

 

エスに反対を唱える者がいて、
あなたがキリスト教徒であれば、
あなたは彼を殺す覚悟もするし、
殺される覚悟もする

 

…それは生きるか死ぬかの問題だ。
モハメッドに反対を唱える者がいれば、
イスラム教徒は怒り狂う。
ただの言葉だ…

 

「モハメッド」は、ただの言葉だ。
「イエス」は、ただの言葉だ。

だが人々は言葉で生きる。

 


 


考えたことがあるだろうか?

 

自分の聖典が焼かれたら、あなたはどうなるだろう?

 

自分の座右の銘を焼かれたら、何があなたに起こるだろう?

 

あなたは惨めになる。

 

だから、
聖書に反対を唱える人がいると、あなたは怒り狂う。

 

その人が聖書に反対することを言っているからではない

 

…彼があなたの座右の銘を焼いているからだ。

 

あなたは言葉に依存している。

 

真理がどういうものであるか知らないために、
あなたは言葉に依存する。

 

何が真理であるかを知れば、
あなたは言葉すべてを放り出し、
すべての座右の銘を焼き払うだろう。

 


 


この蜷川は、生涯かけて奮闘してきた。

 

瞑想 meditation し座り、
あらゆる技法を使い、
平静で静かに沈黙するために、
あらゆる手を尽くしてきた。

 

だが彼は、
まだ聖典にとらわれていた。

 

 

 

蜷川が逝こうとしている日、
一休は蜷川を訪れた。

 

 

 

今こそ、
この男を無限の深淵に突き落とす瞬間だ。

 

蜷川は取り逃がすかもしれない。
死に逝く際に、
聖典がそこにあれば、
取り逃がすことになる。

 

 

 

あなたは、
完全に空っぽにならなければいけない。

 

そうして初めて、
死にまみえることができる。

 

死は空だからだ。

 

よく似ているもの同士だけが知り会える。

 

同じものには、
同じものが理解できる。

 

 

 

たとえ一語でも詰まっていれば、
あなたは取り逃がす。

 

それなら、

 

そこにマインド(思考)があるからだ。

 

…死はノーマインド no mind(無思考)だ。

 

死には何の思考もない。
死は、ただ空へと落ちていく。

 

 

 

そこで一休は、
最後の瞬間に、
この弟子 disciple を押すためにやって来た。

 

蜷川は生涯、取り逃がしてきた

 

…もうこの最後の瞬間は逃がすわけにはいかない。


そして、わたしも言っておこう。
あなたが全生涯、逃がすなら可能性は1つ、
希望は1つしかない。…

 

死の瞬間だ。

 

 

だが、それを待つことはない。

 


今すぐにでも、それは起こる。

今すぐ起こらなくても、尽くし続けなさい。

 


だが、死ぬ用意を整えておくことだ。

 


あなたに用意があれば、
わたしはそこであなたを押す。

 

あなたに用意があれば、
とても簡単だ。

 

ほんのひとひねりで、
マインド(思考)は吹き飛ぶ。

 

 

 

ちょうど蜷川が逝く前、
禅師、一休が蜷川を訪れていた。

 

 


導師 master はつねに訪れていた。


実際には起きていなくても、
これを覚えておきなさい。

 

おそらく実際にはそれは起こらなかった。
たぶん、
蜷川の他には彼を訪れていた導師 master を見た者はいない。
その可能性がある。

 

実際に起こったことかもしれないが、
それではおかしい。

 

ひとつ確かなのは、
蜷川が死に逝く際、
その最後の瞬間に導師 master がそこにいた
ということだ。

 

この対話は、蜷川と一休の間に起こった。

 

そこには他の者が大勢いたかもしれない。
だが、それを聞いた者はいないだろう。
一休が来ているのを見た者はいなかっただろう。

 

それは現実的な訪問だったかもしれない、
そうでなかったかもしれない。

 

だがそれは起こった。

 

そして、それは効いた

 

…必要なことは為された。

 

 


「導いてやろうか?」と、一休は聞いた。
蜷川は答えた。

 

 


聖典の人、特に仏教徒たち…

 

仏教において、
グル(師)は受け容れられないからだ。

 

ゴータマ・ブッダはもっとも偉大なグルだが、
仏教においてはグルは受け容れられない。

 

それには理由がある。

 

人間のマインド(思考)が非常に複雑で、
すべてにおいて問題を作り出すからだ。

 

グルは、あなたを自由にする。

 

だが、彼の存在ゆえに、
あなたが束縛を作り出すこともある。

 

ヒンドゥー教では、
グル、導師 master がいなければ解放はない
と教えられてきた。
これは本当だ。
まったくその通りだ。

 

だが、
ゴータマ・ブッダの時代までには、
それが束縛となってしまった。

 

グルなしでは、
導師 master なしでは、
解放はない。

 

だから人々は、
導師 master の奴隷になり始めた。
彼らがいなければ解放はないからだ。

 

人間のマインド(思考)とその愚かしさを見てごらん。

 

導師 master は解放するが、
解放できるのは彼だけだということで、
その奴隷になる。

 

そうして、あなたはただ従順になる。

 

非常な隷属が生まれた。

 

 

 

この地上でヒンドゥー教徒ほど、
深い隷属を作り出した者たちはいないだろう。
ヒンドゥー教の全歴史において、
聖職者に対する革命があったことは1度もない。
まったくない

 

…全てが
固定化され、
据え置かれ、
体系化され、
聖職者に背こうものなら、
解放の望みはないと
誰もが心得ている…

 

彼はグルであり、導師 master なのだと。

 

 

スードラ
…不可触賊民たちは、もっとも哀れな条件下に存在してきた。
彼らは最下級の奴隷で、その屈従の歴史は最も長い。
しかし、
彼らがそれに反抗したことは1度もない。
不可能だからだ。

 

グル、導師 master、ブラーミン
…彼らは、神聖の扉だ。
今生は取り逃がしてしまった。
そして反抗すれば、次も取り逃がすことになる…

 

だから、奴隷のままでいる。

 

 

 

そこで、
ゴータマ・ブッダがやってきて言った。

 

「グルに従う必要はない。」

 

…グルに従う必要がまったくない、
ということではない。

 

グルに従う必要がないと彼が言ったのは、
奴隷になる必要はないという意味だ…

 

だが、そういう言い方しかない。

 

だから、ゴータマ・ブッダ

 

「自分自身の明かりとなれ。

 

自分を導くのに他者はいらない。
自分を案内するのに誰もいらない。
己こそ、己の寄る辺りだ。」

 

と言う。

 


これが自由であること、
自由自在の最も偉大な可能性だ。

 


だが、
あなたはこれもまた誤用することがある。

 

これが問題だ。

 

導師 master に従う必要がないなら、
なぜ、ゴータマ・ブッダの言うことを聞くことがあるだろう?

 

と、あなたは考える。

 

導師 master に従う必要がなければ、
どうしてゴータマ・ブッダのもとへと行くだろう?

 

自分が完全に他人に依存しないのであれば、
自分自身がブッダだ。

 

それが仏教に起こった。

 

隷属は起こらなかったが、

 

深い自己中心癖(エゴイズム)が起こった。

 

 

 

だが、どちらにしろ両極端だ。

 

 

 

グルにも導師 master にも、
従う者は全くいないのだとエゴイストになるか、

 

彼らがいなければ解放はないと奴隷になるかだ。

 

 

 

真ん中にいられないのだろうか?

 

極端に向かわずに、
ただ真ん中に立っていられないのだろうか?

 

真ん中にいられればマインド(思考)は消える。

 

 

 

一休は来て言った。

「導いてやろうか?」

 

一休は基本的な仏教徒の質問をし、
彼が今だに聖典にとらわれていれば

 

「いや、他人を導ける者はいない。
誰もグルではない。
どの魂も他人に全く依存しない。
自分こそ自分自身の明かりだ。」

 

と言うのを知っていた。

 

彼が聖典にとらわれていれば、
こんな応答が返ってくるはずだ。

 

聖典にとらわれていなければ、
どんな応答もできる

 

…無限の可能性が開いている。

 

 

 

蜷川は答えた。「わたしはひとりでここに来た…」

 

これはゴータマ・ブッダの言葉だ。

 

「…そしてひとり去る。
一体、どんな助けがあなたにできるだろう?」

 

 

 

みな、
ひとり生まれ、
ひとり死ぬ。


この二つの真ん中を
行ったり来たりして、

 

誰かと一緒にいるのだと

 

自分自身を惑わせるかもしれない。

 

それでも、
あなたはひとりのままだ。

 

 

 

始めにひとりでいて、
終わりにもひとりでいるなら、

 

どうやってその真ん中で誰かと共にいられるだろう?

 

妻、夫、友人、社会、すべてが幻だ。

 

あなたはひとりのまま、
『ひとり在ること』があなたの『本質』だ。

 

あなたは惑える、それだけだ。

 

夢が見られる、それだけだ。

 

だが、他人はつねに他人だ、
会うところはない。

 

これが人を自由にする仏教の基本的な教えだ。

 

 

 

だからこそ、
ゴータマ・ブッダは神を否定さえした。

 

というのも、
神がいるならどうやって、
あなたがひとりになれるだろう?

 

神はいつもいる。
あなたが風呂場にいても、彼はいる

 

…神は全能で偏在するからだ。
神からは逃げられない。
行くところ、どこでも神がいる。
神はあなたについてくる普遍的存在の目であり、スパイだ。
あなたが何をしていても、彼は見ている!
神から逃れるのはとても難しい。
神が存在するなら、どこにでもいることになる。
隠れることはできない…

 

理解できれば、これはすばらしいことだ…

 

宗教的な人々は、それを助けとして使った。

 

 

 

ヒンドゥー教
イスラム教、
キリスト教
のどれもが、
神という普遍的存在を使ってきた。

 

それはたいそう役に立つ。

 

神があらゆるところに影のように自分についてくると本当に感じられれば、
あなたは非常に油断なく醒め、
意識的になる

 

…神がいるからだ。
あなたはひとりではない。
罪の中にくつろげない。
無知に、眠気にくつろげない…

 

神がいるのだ。

 

神の現存は、あなたを醒めさせる。

 

これは正しい使い方だ。

 

 

 

しかし、
そうではない場合、
神の現存は
束縛、
重荷、
心労
にもなる。

 

 

入浴するにも、裸にならないキリスト教の尼僧がいた。
シャワーを浴びるにも彼女は服を着たままだった。
それである人がたずねた
「何をしているのですか?」
彼女は答えた
「どうして裸になれるでしょう?
神様はどこにでもいらっしゃるのに。」

 


だが、神があらゆる場所にいるなら…
風呂の中にも…服の中にもいるのだ。

 

逃れることはできない。
彼はあなたの内側にいる。
あらゆるところにいる。

 

これは深い心労にもなる。

 

入浴していて、鍵穴から覗かれているのに気づいているようなものだ


…気がかりになる。神は無限の“のぞき魔”だ…


あらゆる鍵穴のもとに座っている。
神に知られずに何かをするのは無理だ。

 

愛を交わしても神がいる。
何をしても神は知っていて、
すべて記録されている。

 

これはひどい心労、ノイローゼにもなる。
これが罪悪感を生んだりする。

 

そうなると、あなたは取り逃がしている。

 

 

 

覚えておきなさい。

 

間違って使えば、
扉を開ける鍵が、錠を壊すこともある。

 

正しい方法で
錠が開く。

 

間違って使えば
錠は壊れる。

 

 

 

マインド(思考)というものがそうであるように。

 

マインド(思考)はいつも間違った方法で鍵を使う。

 

 

 

そうして、
こう言ってくれる人が必要になる

 

「この鍵を捨てなさい。
もう役に立たない。
これは錠を壊すだけだ。
どうやっても助けにならない。」

 

 

グルは全く要らない、
とゴータマ・ブッダは言った

 

…彼の時代、
グルとはブラーミンを意味したからだ。

 

クリシュナムルティが同じことを言っている。
どんなグルも要らないと。
だが、それには別の可能性がある

 

…それは、あなたに自由を与えるかもしれない。
それがあなたに自由をもたらすなら、まったくOKだ。

 

しかし、

 

それがあなたに利己心をもたらすとなると問題だ。
そこには摩擦がある。

 

それが利己心をもたらすなら、
他者の奴隷になることはなくても、
自分自身のエゴ(欲・自我)の奴隷になってしまう。

 

 

 

覚えておきなさい。

 

自分のエゴ(欲・自我)ほど、
非常に危険な導師 master になる者はいない。

 

自分のエゴ(欲・自我)ほど、
自分を盲目にする者はいない。

 

自分のエゴ(欲・自我)ほど、
ひどい地獄に導く者はいない。

 

 

 

一休はただ、

 

まだ蜷川が聖典にしがみついているのか、

 

あるいは

 

ゴータマ・ブッダを『理解』したかどうか

 

を知りたかった。

 

 

 

『理解すること』

「しがみつくこと」
は違う。

 

 

 

「しがみつくこと」は、
宛名のない手紙だ。

 

蜷川が『理解』していれば、
ゴータマ・ブッダは最も偉大な導師 master だ。

 

『理解』していなければ、
蜷川に余地はない。
死に際にも、
聖典しがみついているだろう。

 

 


一休はそこに立っていた。
そして聞いた。

 

「導いてやろうか?
わしが案内してやろうか?
…道は未知だから。

 

あなたはまだ、
そこを通ったことがない。

 

わたしは
そこを通って来た。

 

わたしは死に方を知っている。

 

死を祝う方法を知っている。

 

あなた自身が死の中に失われる方法を、
わたしは知っている。

 

そうすれば、失われることはけっしてない。

 

そうして初めて、真の自己が生まれる。

 

わたしは死ぬことと再誕の秘密を知っている。

 

導いてやろうか?」

 

 

 

蜷川は答えた


…彼は断った…
彼は言った

 

「わたしはひとりでここに来た。
そして
ひとり去る。

 

一休、どんな助けがあなたにできるだろう?」

 

 


だが、蜷川には助けが必要だった。

 

助けが要らなければ、
蜷川はただ微笑んだろう。

 

蜷川は「ありがとう」と言っただろう。

 

これらの言葉を聖典から『借りる』必要はなかった。

 

 


どうして聖典を使うのだろう?

 

 


それらは合理化だ。

 

自分が確かでないとき、
あなたは聖典を使う。

 

聖典はとても理にかなっているからだ。

 

疑わしいときはいつも、
ゴータマ・ブッダ
クリシャナを、
キリストを、
あなたは使う。

 

彼らはあなたの戸惑い、
あなたの現実を隠すことができ、
あなたに「偽の確信」を与えられるからだ。

 

 


他人の言葉を使うときはいつも、
自分の無知を隠している。

 

 


蜷川は、

 

「ここにわたしはひとりで来た」

 

とは言っていない
…これは蜷川の体験ではない。

 

「そしてひとり去る」

 

とは、彼は言っていない。

蜷川は言葉を繰り返している。

 

 


言葉で導師 master を騙すことはできない。

 

 


一休は答えた。
「本当に自分が来て、去ると思っているなら…」

 

 

 

これは
これまで発せられた中で、
最も美しい言葉だ

 

ウパニシャッドのすべて、
ゴータマ・ブッダとマハヴィーラのすべての精髄が、
ただ一文にある。

 

 

 

「本当に自分が来て、去ると思っているなら、
あなたは惑いの中にいる。

 

来ることも
去ることも
ない道を、

 

あなたに示そう。」

 

 

 

これは実に、難解で微妙だ。

 

一休は言う。

 

「本当に自分が来て、去ると思っているなら、
エゴ(欲・自我)がそこにある。

 

誰が来るのか?
誰が去るのか?

 

自分が来て去ると思うなら、

 

あなたは知らない。

 

ただゴータマ・ブッダの言葉を繰り返しているだけだ。」

 

…そこにがある。

 

 

 

「わたしはひとり来て、ひとり去る」
と知れば、
来ることも去ることも、
そこにはない、

 


魂は
生まれたことも
死んだことも
ない。

 


生は
永久の連続だ、それは続く。

 


来ることも去ることもない。

 


この肉体は生まれ、死ぬだろう。

 

だが、

 

生、
エネルギー、
自己、
魂、

 

この肉体に在る『意識』を何と呼ぼうと、
それはけっして、
生まれたことも死ぬこともない。

 

その意識は続く。

 

これにおいて、とぎれたことはない。

 

 


あなたが本当に知れば、
来ることも去ることも、
そこにはないと知っている。

 

誰が来るのか?
誰が去るのか?

 

この『理解』
この認識がないと

 

あなたは言うだろう

 

「わたしはひとり来る」。

 

 


だが、
それではこの「私(自分)」はエゴ(欲・自我)だ。

 

それなら、この「私(自分)」は自己ではない。

 

「わたしはひとり去る」とあなたが言うとき、
その強調は、「私(自分)」にある

 

…「私(自分)」は束縛だ。

 

 


そこに「私(自分)」がなければ、
突然、
自分が生まれたこともなく、
死につつあることもないと見て取る。

 

 

 

そこには
始まりも
終わりも
ない。

 

 


エスは言う…
誰かがイエスに聞いた。

 

「あなたは、わたしたちの待っていた救世主(メシア)なのですか?
あなたは誰ですか?
わたしたちにあなたのことを話してください。」

 

エスは言った。

 

アブラハムがいた以前に、わたしは在る。」

 

アブラハムは何千年も前の人だったはずだ。

だがイエスは言った

 

アブラハムがいた以前に、わたしは在る。」

 

その文は実に論理的におかしく、文法的にも間違っている。

 

アブラハムがいた以前に、わたしは在る。」

 

アブラハムは「過去」の人だ。

エスは言う

 

「彼がいたその前…」。

 

アブラハムは原初の予言者だ。
アブラハムがラーマの名の変化したものだという可能性は非常に高い。
というのも、
古代ヘブライ語アブラハムはなく、
アブラムがあるだけだからだ。
そして、
「アブ」はちょうどシュリ・ラーマといったような、
ただの敬称で、敬意を示す。
アブラハムがラーマその人だという可能性は、まず間違いない。

 

エスは言う。


アブラハムがいた以前に、わたしは在る。」


アブラハムに対し、彼は「過去」の時制を使う


…彼はいたが、もういないと。

 

その現れはあった。
そして今はない。

 

だが「わたしは在る」


なぜなら
「わたしはつねに在り、
わたしはいたし、
わたしはここにいるし、
わたしはいるだろう」
からだ。

 

この最も内なる『意識』は、

 

どんな誕生も
どんな死も
知らない。

 

どんな「過去」も
どんな「今ここ(現在)」も
どんな「未来」も
知らない。

 

どんな『時間』も知らない。

 

それは『永久』だ。

 

『永久』は『時間』の一部ではない。

 

 

 

一休は言った。

 

 

 

「本当に自分が来て、去ると思っているなら



来ることと
去ることが
あるのだと思っているなら…

 

あなたは惑いの中にいる。

 

来ることも去ることもない道を、
あなたに示そう。」

 

 

 

ブッダ(覚者)たちは何をしてきたのだろう?

 

彼らはただ、

 

あなたのままで
あなたが完全だと示してきた…。

 

何の変化も要らない。
どこかに行くことも、
1インチたりと動く必要もない。
そのままで、今ここに完全な栄光にある。

 

来ることも去ることも、
そこにはない。

 

ただ自分が在るという現象を意識しなさい。

 

自分が何者であるかを
ただ意識するのだ!
ただ醒めていなさい!

 

そのとき、
達成されるものも、
努力することもない。

 

まさに初めから、
アブラハムがいた以前から、
あなたは在るからだ。

 

あなたは
世界の創造を見てきたし、
世界の最後を見るだろう。

 

だが、
あなたには
始まりも
終わりも
ない。

 

 


あなたは『観照者』だ。

 

『観照者』には
どんな始まりも
どんな終わりも
ない。

 

 


あなたが醒めていたら、
自分の誕生を見たはずだ。

 

意識をもって死ぬことができるなら、
肉体に死が起こっているのを、
自分がただ傍観者であるのを見るだろう。

 

肉体は死に、
ただあなたは『観照』する者だ。

 

死において『観照者』でいられれば、

次の生の誕生のとき、『観照者』になる。

 

 


あなたは、
マインド(思考)が子宮を選んでいるのを見るだろう。

 

地球全体をうろついて、

 

女性を、
愛を交わしているカップルを探し、
あなたはそれを見る。

 

ちょうど、
お腹が空いているようなものだ。
街に行って、あなたは『観照者』になれる。

 

自分の目、
自分のマインド(思考)が、
食事をとれる適当な場所を探し、
レストランとかホテルを見ている。

 

あなたは空腹だ。

 

だが、あまりにも空腹と同化していれば、
『観照者』になれない。

 

同化していなければ、
空腹はそこにあるが、
あなたは空腹そのものではない。

 

あなたがどうやって、
空腹であり得るだろう?

 

それなら、
誰がお腹が空いていることを知るだろう?

 

 

 

空腹を知るには、
空腹を超えて見ることのできる者、
醒めていることのできる者が必要だ。

 

空腹に『気づいて』いられれば、
自分のマインド(思考)が、
どうやって食事をとる適当な場所を探すかが見て取れる。

 

 

 

同じ事が、死の後にも起こる。

 

 

 

あなたのマインド(思考)は、
適当な子宮を探す。

 

あなたは選び、起こっていることを見る。

 

 

 

もし、
あなたが特別な子宮を探していれば、

 

もし、
あなたがとても良い魂、
もしくはとても悪い魂であれば、

 

適当な子宮を探すのに何年もかかる
…非常に困難だ。

 

 

 

ただ普通の人で、
特別良くも悪くもなく、

 

ヒットラーでもガンジーでもなく

 

平均的であれば、
すぐに誕生できる。

 

時間はかからない。

 

普通の平均的、標準的な子宮はどこにでもあるからだ。

 

それなら、
この瞬間に死んで、次の瞬間に生まれる
…一瞬もとどまらない。

 

 


だが、ヒットラーは何年もかかる
…それはいい。幸いだ。

 

ヒットラーは非常にゆがんでいる。
彼のゆがみようは、
あなたたちには想像もつかない。
彼はすべてゆがんでいる。

 

そして人がゆがむときはいつも、
まず1番に、その愛がゆがむ。
あなたの実存の根にセックスがあるからだ。

 

まず初めにゆがむのはセックスだ。

 

セックスが誤ったものになってしまうと、
すべてがゆがむ。

 

セックスが自然であれば、
すべてが自然だ。

 

 

 

ヒットラーの性生活を調べれば、まったく驚いてしまうだろう。
彼が何をしていたか、あなたには信じられないだろう。

 

彼は美しい女性を探したものだが、
彼女たちとは絶対に愛を交わさなかった。
彼が何をしたかというと、あなたには想像もつかない。
彼はその美しい女性たちに強制した…
彼は座って、自分の頭に排尿することを彼女たちに強制した。
どういう人間だ…?
何をしているのだろう?
だが、彼はそれをとても楽しんだ。
排尿ばかりではない、彼女たちは、彼に排便もしなければならなかった。
そして、その女性たちは非常に罪悪感を感じた…
彼は何をしているのだろう?
しかし、彼は非常に権力を持っていた。
彼に従わないと…
彼は多くの人間を殺した。
彼に愛された者たちはすべて、彼に殺されたか、あるいは自殺した…
これが、非常に歪曲していることであるために。
しかし、彼はとても心地よかった。
どうしたことだろう?

 

 

 

彼は非常な罪悪感を感じていたために、
自分自身を罰することを欲していた。

 

愛を通じてさえ、彼は罰していた。

 

彼はたいへんな罪悪感を感じていた。
その罪悪感は実に強いものだった…

 

罪悪感を非常に感じていると、
愛することができない。

 

なぜなら、

 

愛は、罪の自覚のない者のハートから
どんな罪悪感も感じない、

 

無垢な子供のままのハートからしか発しないならだ。

 

それは祝祭になる。

 

 

 

だが、罪悪感があると、
愛を通じて
自分自身を罰し始める。
あるいは
相手を罰し始める。

 


あなたは愛を楽しめない。

 


あなたが非常に罪を感じ、
自分をとても悪く思うなら…
どうやって愛が楽しめるだろう?

 


愛から地獄を作り出してしまう。

 


これは、とても信じ難いことのように思える。

 

自分の部屋の外では、
ヒットラーはほとんど神のように、
人々から礼拝されたからだ。

 

ところが
部屋の中では、

 

劣等感、
罪悪感

 

を自分自身に感じ、
自責の念にかられ、
自分を罰することを望んだ…
愛を通じてさえも。

 

 


こういった人間が子宮を探すのは容易ではない…
ほとんど不可能だ。

 

何世紀も待たなくてはならない。

 

そうしてやっと、
そのような子宮、
非常な罪悪感でがんじがらめになって、
非常な自責の念にかられている
そのような男性と女性が愛を交わしているのを探し出し、
やっとのことで彼は子宮を選べる。

 

 

だが、これは無意識に起こることだから、
あなたが気をもむ必要はない。

 


あなたは
無意識に死に、
無意識に生まれる

 

それは自動的に起こる。

 

マインド(思考)が回り、
暗中模索し、
子宮に入る。

 

 


だが、
意識をもってあなたが死ねば、
次の誕生は意識的なものになる。

 

意識をもって死に
意識をもって生まれれば

 

誕生も死もなく
ただ肉体が選ばれたことを、
あなたは知る。

 

 


新しい家に引っ越して、
これが誕生だと、
あなたは言うだろうか?


あなたは同じままだ。


家だけが変わった。


古い服を着替えて、
これは新しい誕生だ、
わたしは生まれたと言うだろうか?


いや、
ただ服を変えただけだから、
あなたは同じだ。

 

 


このようにして覚醒に至った者は知る

 

…すべての変化は
ただ
着る物や家や場所、状況、境遇の変化にすぎず、
あなたは同じだと。

 

 


中心(センター)はけっして変わらない、
それは『永遠』だ。

 

 


一体は答えた。

 

 


「本当に自分が来て、去ると思っているなら、
あなたは惑いの中にいる。
来ることも去ることもない道を、
あなたに示そう。」

 

 


道とは何だろう?

実のところ、道はあるのだろうか?


われわれは言葉を使わなければならない。
そのために一休は「道」と言う。

 

そうでなかったら、
道などない。


道はつねにどこかに続いているからだ。
どんな道だろうと、
あなたを導くものではない。

 

 


あなたはすでにそこに『在る』からだ。

 

 


あなたが、
わたしのもとへ来たければ道がある。
誰かのもとへ行きたければ、道を辿らなければならない。

 

抜け道を通ったり、
橋を渡ったりして
外側に向かっているからだ。

 


だが
内側に行きたければ道はない。

 

あなたはすでに「そこ」にいる。

 

 

 

突然のひと押しが必要だ。

 

そうすればあなたは
ただ自分がそこにいるのを感じる。

 

 


ちょうど夜、夢を見ているようなものだ。
プーナ(インドの街の名)で眠り、
夢の中であなたはロンドンやニューヨーク、カルカッタ、東京の家に戻っている。

 

夢の中で、
あなたはプーナにいることを完全に忘れる。

 

そのとき、どうすればいいだろう?

 

ただ一喝だ。

 

誰かがやってきて、あなたを起こす。

 

あなたはロンドンとか、東京、ニューヨークで目覚めるだろうか?

 

それともプーナだろうか?

 

ニューヨークの夢を見ていて突然誰かに起こされ、
ニューヨークで目覚めたらそれはとても面倒だし、
まったくおかしな世の中になってしまう。
そうなってしまったら、この世は悪夢だろう。
だが、あなたはプーナで目覚める。
夢は消える。

 

 


ブッダ(覚者)たちが教えてきたのはこれだ。

 

どこにも行く必要がないということ。

 

あなたはすでに自分の行きたいところにいる。


けれども、あなたが夢の中にいる。

 

 

 

ただ夢の中だけで、
あなたは中心(センター)から移動してきた
…あなたが中心から移動することは不可能だ。
あなたはそこにいる。

 

何百万生と夢を見てきたが、


自分のいる中心(センター)から、
あなたが移動したことはなかった。

 

移動できる者はいない。

 

ただひと押し、
誰かがあなたにショックを与えるだけで…

 

あなたは覚醒し、
突然、夢が消える

 

夢の世界のニューヨークとロンドン、それらが消え去り、
あなたは「今ここ(現在)」にいる。

 

 


このひと押し、
このショックが、
死の瞬間には、
とても簡単に与えられる。

 


心身…のすべてが、大変な変化をくぐり抜けようとしているからだ。

 


すべてが混沌としている。

 


混沌の中ではすべてが心地悪いために、
あなたはさらにたやすく覚醒できる。

 


まったく心地よければ、
人を夢から連れ出すのは難しい…

 

心地よい夢から抜け出たい
と思う者はいない。

 

夢が悪夢であるときにだけ、
あなたは悲鳴をあげる。

 


 


夢は、深く届いて影響する。

 

無意識のマインド(思考)の中では、
その区別は実に曖昧だからだ。

 

何が夢で、
何が現実か、

 

非常に曖昧だ。

 

それらは交じり合っている。

 

境界はあまりはっきりしていず、
ぼんやりしている。

 

 


おもちゃをなくした夢から醒めて
泣いている子供を見たことがあるだろうか?

 

「おもちゃを探しているの…
どこに行っちゃったの?」と。

 

しかしこの子供は、
あなたの中で死なない。

 

 


覚醒のために非常な努力をしたときに初めて、
それが死ぬ。

 

そうして初めて、
夢と現実の区別がはっきりつく。


一度、
曖昧さが消え、
境界線がはっきりし、
何が夢で、
何が現実かに
『気がつけ』ば
夢は止む
…そのとき、
夢は続かないからだ。


あなたが『気づけ』ば
夢は続かない。

 

たとえ夢の中でも、
これは夢だと『気がつく』と、
即座に夢は止まる。

 

 


だから、
夢の中でこれは夢だとは、
あなたは『気づかない』。

 

つねにあなたは、
これは現実だと感じる。

 

何かが続くためには、
これは現実だという感覚が要る。

 

あなたは感覚を通して、
現実を与える。

 

感覚を引っ込めると夢は消え、
現実だけが残る。

 

 

 

あなたがこの世にいるというのは夢だ。

 

あなたが神聖に在るというのが現実だ。

 

 

 

あなたが市場にいるというのは夢で、

あなたが神、存在のまさに中心(センター)から離れたことがないというのが現実だ。

 

あなたが市場の中にいるようになったというのは、夢だ…

 

夢は続き、際限がない。

 

自分は肉体だと思うなら、これは夢だ…

 

あなたが肉体だったことはない。

 

 

 

自分が生まれ、
自分が死ぬと
思っているなら、これは夢だ…

 

あなたは
生まれたことがないし、
死ぬこともできない。

 

それは不可能だ。

 

 


一休は言った。


「『わたしが来て去る』と言うなら、
これはあなたの惑いだ。

 

来る者も、去る者もいない。
来る所も、行く所もなければ、
どうして道があるだろう?

 

だから
来ることも、去ることもない、
道なき道を、
あなたに示そう。」

 

 

 

その言葉をもって、
一休ははっきりとその道を明かし、
蜷川は微笑んで逝った。

 

 

 

それは起こった!

 

あなたはその言葉を耳にした

 

…だが、あなたは蜷川ではない、

 

あなたには、それほどの用意はない。

 

あなたは死の床にいない…

 

それが問題だ。

 

 

 

まだ生に
何か望みを持っている。

 

あなたの夢はまだ、
あなたにとってとても意味がある。

 

自分の夢に投資する物がある。

 

 

 

あなたには、
夢から抜け出るという欲望があるが、
この欲望はなまぬるいものでしかない。

 

別の部分が
「もうちょっと夢を見なさい。
それはとてもすばらしい」
と言い続ける。

 


 


あなたは、
悪夢を見ているかもしれない。

 

そんなとき、あなたは感じる。

 

「どうやって夢から抜け出よう?」

 

 

…だが、美しい夢も見る。

 

地獄のような夢だけではない、
天国のような夢を見る。

 


それが問題だ。

 


天国のような夢でも、
ただの夢であって
何にもならないと
『気がつかない』かぎり
あなたは死の床にいない。

 


あなたの欲望は続く。

 


あなたは夢の世界に水を注ぎ続け、
それを養い、成長するのを助ける。

 

 

 

 

蜷川は死の床にあった。
彼は死につつあった。
「未来」はなかった。
彼は混沌に在った。

 

肉体の全組織、全調整、マインド(思考)



次第に解かれつつあった。


ものごとが離れて行き、
彼は伴なわれていなかった。


悪夢は強烈だった。


死において、
悪夢はもっとも強烈になるからだ。


その瞬間、
蜷川はただ惨めだった。
死、「未来」はない。

 


「未来」がないと、
夢を見ることはできない。

 


夢には移動する
『空間』と『時間』が必要だ。

 


死が非常に危険に見えるのは、そのためだ。

 

死は、考える『時間』を許さないからだ。

 

希望することができない。

 

明日がないからだ。

 

 

 

死は、あなたを殺さない。

死は、ただ明日を殺す。

 

 

 

そして、明日はまさにあなたの存在そのものだった。

 

あなたは今日、生きたことがない。

 

いつも、明日に延期してきた。

 

そして、死は明日を殺す。

 

死は、ただあなたのカレンダーを焼く

 

…突然、時計が止まり、
『時間』が進まなくなる。

 

 

 

『時間』がなければ、
あなたに何ができるだろう?

 

マインド(思考)がどうやって
考え、
欲望し、
夢見れるだろう?

 

死は、幕を下ろす

…それが恐い。

 

 

 

どうして
死は、
そんなにもあなたを
怖がらせ、
震えさせ、
恐れさせるのだろう?

 

 


死が
超えようもなく、
逃れる可能性も全くない
ように見えるからだ。

 

 


あなたはどうすることもできない。


考えることができないからだ。


あなたが知っているのは
ただ1つ、
考えることだけだ。

 

他には何もない。

 

あなたの人生は全て、
考えることだった。

 

 

 

今、死が、「思考のないこと」を許す。

 

 

 

瞑想をしてきて、
死の前に
「思考のないこと」を認識した人だけが恐れない

 

…考えることが生ではないことを知っているからだ。

 

 

 

彼は存在の違う充足を知っている。
彼は存在の長さではなく、深みを知っている。

 

 

この瞬間から、あの瞬間へと移動していない。

彼は、今日から明日へ移動していない。

 

 

彼は、この瞬間に、深く深くさらに深く向かっている。

 

今日の中へと深く深く、さらに深く。

彼は「今ここ(現在)」、その深みへと向かう。

 

 

 

あなたは、
この瞬間に触れてから
別の瞬間に移る。

 

平面的に動く。

 

AからB
BからC
CからD
と。

 

 

 

瞑想 meditation する人は、

AからBへとではなく

A1からA2、A3と深く進み続ける。

 

彼には明日がない。
この「今ここ(現在)」が唯一の存在だ。

 

それなら、
彼にとって死があるだろうか?

 

この瞬間、あなたは生きている、
死ねるのは、次の瞬間だけだ。

 

この瞬間に死んだ者はいない。
この瞬間、あなたは生きている。

 

そしてこの瞑想 meditation をする人は、
この瞬間の中へと向かう

 

…どうやって彼が死ねるだろう?

 

 

 

死は周辺に起こる。
彼はそれを知る。

 

ちょうど近くの人が死んだのを知るようなものだ。

 

彼はそのことを、
肉体が死んだことを知る

 

…これは知らせとなるだろう。

 

肉体を哀れにさえ思うかもしれない。

 

だが、彼は死んでいない。

 

 

 

 

蜷川は光明 enlightenment の瀬戸際にいた

 

瞑想者だったが、
まだしがみついていた。

 

あなたは深淵にジャンプできる。

 

だがまだ、
一本のつるにつかまっていることもできる

 

…あなたが怖がって、しがみついていることもある。

 

ほとんど深淵の中にいて、
まもなく落ちる。

 

だがまだ、
ほんの一瞬、
マインド(思考)が
「しがみつけ!」
と言う。

 

 

 

 

蜷川は
聖典
ブッダたち、
言葉、
教理
しがみついていた

 

蜷川は
まだ知識を繰り返していた。

 

ただの一本のつるに

 

…遅かれ早かれ、
彼はこれを離れなくてはならない。

 

生があなたを去るとき、
どうやって
言葉を抱えていられるだろう?

 

それはあなたから離れる。

 

 

 

 

これ、一休の啓示をもって、

蜷川は『理解』した。

蜷川は手を離した。

彼は微笑んで去っていった。

 

 

 

 

あなたは、
けっして微笑まない。

 

あなたは、
泣くか笑うかする。

 

だが、
微笑むことはない。

 

微笑みは
ちょうど真ん中にある。

 

あなたには難しい。

泣くか笑うかのどちらかだ…それらが可能だ。

 

両極端だ。

 

 

 

微笑みというこの現象が何なのか『理解』してごらん。


覚者(ブッダ=目覚めた人)だけが微笑む。


微笑みは
ちょうど真ん中に在るからだ。

 

 

 

微笑みには
涙の悲しみも、
笑いの幸せもある。

 

微笑みは両方だ。

 

微笑みはただの笑いではない。

 

笑いの広がり

悲しみの深み
がある
…それは両方だ。

 

 

 

ゴータマ・ブッダを見てごらん。
彼を瞑想 meditation してごらん。

 

彼の顔に、
悲しみと喜びの
両方を見るだろう。

 

彼の実存からあふれ出る
至福、深い悲しみ。

 

 


この二つの化学作用から、
言わば、
微笑みというものが生まれる。

 

 


あなたがあらゆる人々に悲しみを感じ、
全存在に悲しみを感じるとき
…彼らは必要もなく苦しんでいるから…

あなたには覚者(ブッダ)の悲しみは想像もつかない。


あなたには難しい。


あなたは覚者(ブッダ)が幸せだとしか思っていない。

 

覚者(ブッダ)に関するかぎりは幸せだが、
あなたに対してはどうだろう?

 

あなたには彼の困難は想像もできない

なぜなら、彼はあなたを見るからだ。

 

 

 

あなたは
不必要に苦しみ、
どうすることもできず、
救いようがないからだ。

 

そこにはない病を…
そしてそれは不治だ!

 

彼は知っている。

 

 

すぐそこで、
あなたの実存が向きを変えるだけで、
全てが解決することを。

 

でも、
あなたが向きを変えようとはしない。

 

 

あなたはジャンプするだろう。
そうして多くのことを為すだろう。

 

だがいつも、
向きを変えることを
逃してしまうまろう。

 

 

あなたは暗闇を手探りするだろう。

 

だがいつも、
何とか奇跡的に
その扉を取り逃がす。

 

 

あなたは
扉を逃す方法は知っている。

 

それについては完璧だ。

 

扉を逃して、
いつも
手探りをし続ける方法にかけてはだ。

 

 

 

覚者(ブッダ)は難しい局面にいる。

 

あなたとともに
すでに在るものを知ってしまったからだ。

 

覚者が持っているのと
同じ至福に満ちた存在、
同じ美しさ、
同じエクスタシーを
あなたも持っている。

 

だが、
あなたは泣き続け、
自分の胸を叩き続け、
非常な苦しみの中にある

…そしてどうすることもできない。悲しみが…

 

 

 

ゴータマ・ブッダが扉に到達したとき、
こんな話がある。

 

…これを超えると、
もう扉はないという最終の扉だ。

戻って来られない究極のものだ…

 

ニルヴァーナの扉に達したとき、
ゴータマ・ブッダのために扉が開かれ、
彼は歓迎された。

 

究極に到達する者がいるのは、
何百万年に一回のことだからだ

 

…だがゴータマ・ブッダ
その扉に背を向け、世界を見た…

 

そして入らずに
ゴータマ・ブッダ
いまだにそこに立っていると言う。

 

門番はたずねた。

 

「何をしているのですか?
このために何生も努力してきたというに。
さあ扉は開いている。
お入りなさい。」

 

ゴータマ・ブッダは言った。

 

「外で苦しむ者すべてが入るまで、
わたしは入れない。
わたしが入るのは最後だ。」

 

…これがその悲しみだ。

 

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この話は実にすばらしい。

その究極の扉のもとに立てる者はいない。

それは真実だ。

そのような扉はないし、門番もいない。

あなたは落ちる。

あなた自身を止める方法はない。

 

その話はすばらしい。

それは覚者の意識を象徴的に示している

…その問題、
覚者の苦悶、
覚者の苦しみを。

それはもう覚者の苦しみではない。

覚者を悲しませる他の人々の苦しみだ。

 

 

 

それはまるで、
あなたが起きていて、

 

他の誰もがぐっすりと眠り込んで、
悪い夢をこんこんと
見続けているようなものだ

 

…叫び、
飛び上がり、
泣いている。

 

あなたはそれらが
ただの夢だと知っている。

 

しかし、

 

これらの人々は
とても酔っぱらい、
ぐっすりと眠っている。

 

あなたには助けられない。

 

あなたが起こそうとしようものなら、
彼らは怒って言う。

 

 

「どうして眠っているのを邪魔する?
おまえは何様だ?」

 

 

あなたは彼らを目覚めさせることができない、

そして

あなたは彼らの苦しみを見なくてはならず、
それで苦しむ。

 

覚者は悲しい…苦しむ人々を見ることで…

 

覚者は深く笑う、
覚者の実存すべてが笑いで満たされている
ちょうど木に花が咲いたように、
すべてがダンスになった。

 

 

そしてこの二つが
覚者の内で出会う。

 

 

わき起こり続ける笑い

…だが、覚者は苦しむ人々ゆえに笑えない…

苦しむ人々の生み出す悲しみのために。

 

その二つは出会い、
そして
その出会いが微笑みを生む。

 

微笑みは、
笑いと涙の両方だ。

 

 

 

あなたは微笑むことができない
…笑うことはできる、
泣くこともできる。

 

泣いているときに、
どうやって笑えるだろう?

 

泣くということは、
つねに自分に従っている
ということだからだ。

 

それはひとつの要素だ。

 

笑うとき、あなたは笑う。

どうして泣けるだろう?

 

笑うということは、
自分に従っているということだからだ。

 

 


覚者の中で、
エゴ(欲・自我)は消えてしまった。

もう彼はいない。

全てとの出会いが起こってしまった。

 

 


二つの要素が出会う。

 

完全になった彼の意識

完全で、不必要に原因もなく苦しんでいるまわりの無数の意識

 

これら二つが出会い、

 

そして悲しい、

それでも幸せな微笑みが覚者の顔に顕れる。

 

そうして、
微笑みは
光明 enlightenment が起こった者の象徴となった。

 

 

 

その言葉をもって、
一休は、
はっきりとその道を明かし、
蜷川は微笑んで逝った。

 

 

 

そのとき、それは死ではない。

 

ただの通過だ…

 

別の世界へ、
別の誕生へと通過することだ。

 

そのとき、死ぬ者はいない。

 

微笑んで死ねれば、
あなたは死の芸術(アート)を知る。

 

そして全ての宗教が死の芸術(アート)に在る、
それ以外ではない。

 

 

 

 

自らの死の床に在りなさい。
蜷川になりなさい。

 

そうすれば、

 

これらの言葉は一休の言葉がけっして存在しなかったほどに、
非常に明確になる。


いいかね。


これらの言葉は一休の言葉がけっして存在しなかったほどに、
非常に明確になる。


あなたもまた、微笑んで逝ける

 

 


…覚えておくように。

 

 

 

あなたの手の中の空とともに行きなさい。

それがすべてなのだから…

 

わたしがあなたに差し出せるのは、それだけだ。

それより偉大なものはない。

 

 


これはわたしの贈物だ。

あなたの手の中にある空とともに行きなさい。

 

自分の手の中ある空を持ち運べれば、
あらゆることが可能だ。

 

所有物を運ばないように。
知識を運ばないように。

 

桶を満たして、その水となるものを運んではいけない。

 

そうなると、
あなたは映し出されたものしか見なくなる。

 

富裕に、
所有に、
家、
車、
名声に、
映し出された満月だけを見るようになる。

 

けれども満月はそこにあり、
あなたを待っている。

 

底がはずれるにまかせなさい。


あれこれと古い桶を守ってはならない。
その価値はない。


自分自身を防御してはいけない、
その価値はない。

 

桶は壊れるにまかせなさい。
水が流れるにまかせなさい。
水の中の月が消えるにまかせなさい。

 

 

そうして初めて、
本物の月に目が向けられる。

 

 

それはいつもそこ、空にある

 

 

…けれども、手の中の空が必要だ。

 

 

もっともっと空っぽでいてごらん。

もっともっと自分自身を空っぽだと思ってごらん。

もっともっと、
あたかも自分が空っぽであるようにふるまってごらん。

少しずつ、少しずつ、
あなたはそれを味わうようになるだろう。

 

 

そして一度、
その味わいがやって来たなら、
それはとても美しい。

 

 

一度、空の味を知れば、
あなたはまさに生の意味を知る。

 

 

空を運びなさい。

 

 

あなたのエゴ(欲・自我)
あなたのマインド(思考)

あなたのマインド(思考)である桶の水は
落とすことだ。

 

 

そして覚えておくように。

 

水たまらねば、
月もやどらず

no water, no moon

 

…手中の空だ。

 

 

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この無水無月のカードのお話しはこのブログ内のこちら…

http://hanasennin9.hatenadiary.jp/entry/2016/04/22/063006

 

 

この講話は…


No Water, No Moon

 

Talks on Zen Stories
Talks given from 11/08/74 am to 20/08/74 am English Discourse series

 

CHAPTER 10
Ninakawa Smiles

 

20 August 1974 am in Buddha Hall

 

英語の講話のダウンロードPDFはこちら。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=9

 

(こちらに載せたのは講話の全てではありません。

今回の講話の全英文はこのブログの最後にあります。)

 

和訳された本はこちらです。

水無月

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◯ ◯ ◯

 

 

 

肉体の死の瞬間に
意識的である…

 

無意識に死なないこと…

 


わたしは20年ほど前、3度も臨死体験をしましたが
たしかに無意識でしたσ(^_^;)
3度とも気がついたら三途の川を渡っている最中だった…
死の瞬間に意識的ではなかったよ…(-_-)

 


ゴータマ・ブッダのように
死が訪れる瞬間に
意識して
魂の中に入っていき
意識的に肉体の死を『観る(観照)』こと…

 


死の瞬間に
無意識にならないように…
意識的であるように…

 


この課題ができていなかったから
不合格!…ということで3度も死なせてもらえずに
また生き返ったのかも…

 

その後、導師 master osho との出会いがありました。

導師 master の慈悲の愛の広さと深さはすごいです。

 

というわけでσ(^_^;)
死の課題の合格めざして
毎日瞑想 meditation しています!
今度はちゃんと意識的に死ぬことができるかな?
どうなるのだろうワクワク楽しみです٩( ᐛ )و

 


いつでもどこでも
瞑想 meditation 状態で
観照者意識的であること…

 

 


sammasatiサマサティ(right remembrance)
正しく想起する。

 

『The last word of Buddha was, sammasati.
Remember that you are a buddha – sammasati.』

 

瞑想と愛 (^-^) meditation & love

 

 


花仙人

 

 

 

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導師 master や導師 master の指先を見るのではなく

自分の内側にある『魂(源泉)』(満月)を見るのだよ

自分の真の導師 master は自分の内側にある『魂(源泉)』だよ

と外側の光明 enlightenment を得た導師 master たちは伝え続けています。

大切なことは

自分の内側にある『魂(源泉)』を再び「感覚」で『思い出す』こと。

 

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内側にある『源泉 source (魂 soul )』と
『全ての存在は1つ』all one であることを『思い出す』

 

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瞑想はたくさんの種類があります。
ご自身にあった瞑想がみつかるといいですね。

 

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『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』シリーズ

 

シヴァによって与えられたという五千年前の112の瞑想技法集
『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』の
導師 master osho が講話です。
和訳された本は全部で10巻です。

 

第一巻 内なる宇宙の発見
第二巻 源泉への道
第三巻 第三の眼
第四巻 沈黙の音
第五巻 愛の円環
第六巻 覚醒の深みへ
第七巻 光と闇の瞑想
第八巻 存在とひとつに
第九巻 生の神秘
第十巻 空の哲学

 

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Vigyan Bhairav Tantra, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

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The Ultimate Alchemy, vol 1,2
この講話の英語のPDFダウンロードはこちはです。
http://www.oshoworld.com/e-books/eng_discourses.asp?page_id=15

 

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Showering without Clouds
雲なく雨は降りそそぐ

The last morning star
夜明けの星

サハジョとダヤの女性の覚者の詩

 

oshoアクティブ瞑想に関してはこちら、
http://www.osho.com/ja/meditate/active-meditations/why-active-meditations

 

oshoの瞑想音楽はこちら、

 

 

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今回ご紹介した講話Chapter10の全文の英文です。


JUST BEFORE NINAKAWA PASSED AWAY THE ZEN MASTER IKKYU VISITED HIM.

”SHALL I LEAD YOU ON?” IKKYU ASKED.

NINAKAWA REPLIED, ”I CAME HERE ALONE, AND I GO ALONE. WHAT HELP COULD YOU BE TO ME?”

IKKYU ANSWERED, ”IF YOU THINK YOU REALLY COME AND GO, THAT IS YOUR DELUSION. LET ME SHOW YOU THE PATH IN WHICH THERE IS NO COMING AND GOING.”

WITH HIS WORDS, IKKYU HAD REVEALED THE PATH SO CLEARLY THAT NINAKAWA SMILED AND PASSED AWAY.

 

Death is the crescendo, the highest peak that life can attain. In the moment of death much is possible. If you have been preparing and preparing, meditating and waiting, then at the moment of death enlightenment is very easily possible – because death and enlightenment are similar. A master, one who is enlightened, can easily make you enlightened at the moment of death. Even before, whenever it happens, you have to be ready to die.

 

What happens in death? Suddenly you are losing your body, suddenly you are losing your mind. Suddenly you feel you are going away from yourself – all that you believe to be yourself. It is painful, because you feel you are going to be drowned into emptiness. You will be nowhere now, because you were always identified with the body and the mind, and you never knew the beyond; you never knew yourself beyond the body and the mind. You got so fixed and obsessed with the periphery that the center was completely forgotten.

 

In death you have to encounter this fact: that the body is going, now it cannot be retained any more. The mind is leaving you – now you are no more in control of the mind. The ego is dissolving – you cannot even say ’I’. You tremble with fear, on the verge of nothingness. You will be no more.

 

But if you have been preparing, if you have been meditating – and preparation means if you have been making all efforts to use death, to use this abyss of nothingness – rather than being pulled into it you have been getting ready to jump into it, it makes a lot of difference. If you are being pulled into it, grudgingly – you don’t want to go into it and you have been snatched – then it is painful. Much anguish! And the anguish is so intense that you will become unconscious in the moment of death. Then you miss.

 

But if you are ready to jump there is no anguish. If you accept and welcome it, and there is no complaint – rather, you are happy and celebrating that the moment has come, and now I can jump out of this body which is a limitation, can jump out of this body which is a confinement, can jump out of this ego which has always been a suffering – if you can welcome, then there is no need to become unconscious. If you can become accepting, welcoming – what Buddhists call tathata, to accept it, and not only to accept, because the word accept is not very good, deep down some nonacceptance is hidden in it – no, if you welcome, if it is such a celebration, an ecstasy, if it is a benediction, then you need not become unconscious.
If it is a benediction, you will become perfectly conscious in that moment.

 

Remember these two things:
if you reject, if you say no, you will become totally unconscious;
if you accept, welcome, and say yes with your full heart, you will become perfectly conscious.

 

Yes to death makes you perfectly conscious;
no to death makes you perfectly unconscious – and these are the two ways of dying.

 

A Buddha dies totally accepting. There is no resistance, no fight between him and death. Death is divine; you die fighting.

 

If a man has been preparing, getting ready, at the moment of death the master can be miraculously helpful. Just a word at the right moment and the flame inside suddenly explodes, you become enlightened – because the moment is such, so intense, you are so concentrated at one point.


This is happening in this story.

Ikkyu is one of the greatest masters, a very rare, revolutionary, nonconformist.

 

Once he stayed in a temple. The night was very cold and there were three wooden Buddhas in the temple, so he burned one Buddha to warm himself. The priest became aware – he was fast asleep, it was in the middle of the night and the night was very cold – he became aware that something was going on, so he looked.
Buddha was burning! – and this man Ikkyu was sitting, happy, warming his hands. The priest became mad; he said, ”What are you doing? Are you a madman? – and I thought you to be a Buddhist monk, that’s why I allowed you to stay in the temple. And you have done the most sacrilegious act.”
Ikkyu looked at the priest and said, ”But the buddha within me was feeling very cold. So it was a question whether to sacrifice the living Buddha to the wooden one, or to sacrifice the wooden one to the living one. And I decided for life.”
But the priest was so mad with anger, he couldn’t listen to what Ikkyu was saying. He said, ”You are a madman. You simply get out of here! You have burned Buddha.”
So Ikkyu started to poke the burned Buddha – ashes were there, the statue was almost completely finished. He started to poke with a stick. The priest asked, ”What are you doing?”
He said, ”I am trying to find the bones of Buddha.”
So the priest laughed, he said, ”You are either a fool or a madman. And you are absolutely mad! You cannot find bones there, because it is just a wooden Buddha.”
Ikkyu laughed, he said, ”Then bring the other two. The night is still very cold and the morning is still far away.”
This Ikkyu was a very rare man. He was turned out immediately, out of the temple. In the morning he was sitting just on the side of the street outside the temple – worshipping a milestone, putting flowers, doing his prayers. So the priest said, ”You fool! In the night you misbehaved with Buddha. What have you done? You have committed a sin, and now what are you doing with this milestone? This is not a statue.”
Ikkyu said, ”When you want to pray, everything is a statue. At that time the buddha within was feeling very cold. At this time the buddha within is feeling very prayerful.”


This man Ikkyu had thousands of disciples all over the country, and he used to wander from one place to another to help disciples. This story is about one of his disciples, Ninakawa.


He was just on the verge, almost enlightened. But ’almost enlightened’ means nothing; you can move back, from the last point also you can fall. Unless it has happened, it has not happened. From the very last moment, when only one step remains and you will become an enlightened one, you can come back. This Ninakawa was almost enlightened but still in the grip of the scriptures, because unless you reach to the truth, it is very difficult to get out of the grip of the scriptures.

 

It is very difficult to get out of the prison of words. It happens only when you are really enlightened. Then you can see that words are just words: nothing is there, they are not substantial, they are made of the stuff dreams are made of. They are just ripples in the mind, nothing else; sounds in the mind. And the meaning? Meaning is given by us; it is not there, no word is meaningful. And any word can become meaningful by common agreement.

 

So it is just a social phenomenon, not concerned with truth at all.

 

But people live by words: if someone says something against Jesus and you are a Christian you will be ready to kill him, or be ready to be killed – it is a question of life and death. Someone says something against Mohammed, a Mohammedan gets mad. Just a word – ’Mohammed’ is just a word, ’Jesus’ is just a word – but people live by words.

 

I have heard: Once Mulla Nasruddin caught hold of a man on the street and said, ”I am in a very difficult situation: my wife is hungry, my children are ill. Will you help me a little?”
The man looked at Nasruddin; he was really in a sad plight. He asked, ”Why should I help you? But one thing I would like to ask: what brought you to this sad plight? How did you become so miserable? What has happened to you?”
Nasruddin said, ”It is a long story. But to say it in short: just a few years ago I was also a businessman like you, and beggars used to catch hold of me on the street. Everything was going wonderfully. Then a catastrophe....”
The man became interested. He said, ”Then what happened?”
Mulla Nasruddin said, ”My business was very good, money was pouring in continuously. I was a very industrious worker, totally absorbed in my business. And I had a motto on my table: ’Think constructively! Act decisively!’ and money continued pouring in. And then...” Mulla Nasruddin’s frame started convulsing and he said, ”then my wife burned the motto. That motto, ’Think constructively! Act decisively!’ – the whole thing depended on that motto. And my wife burned it! That was the greatest catastrophe, and that has led me to this sad plight.”

 

Have you ever thought, if your scriptures are burned, what will happen to you? If your mottos are burned, what will happen to you? If your words are burned, what will happen to you? You will be in a very sad plight. That’s why, if someone says anything against the Bible, you become mad. It is not because he is saying something against the Bible – he is burning your motto. You depend on the word. And you depend on the word because you don’t know what truth is. If you come to know what truth is you will throw all the words, you will burn all the mottos.

 

Mulla Nasruddin seems to be foolish – he is not. He is just a representative human being, the most representative, the normal. He is you, in all your absurdities – but magnified, of course.

 

This Ninakawa was struggling his whole life, meditating, sitting, using many techniques, trying in every way to become calm and quiet and still; but he was still in the grip of scripture. The day he was dying Ikkyu visited him. That was the moment now to push this man into the infinite abyss. He may miss, because at the time of death, if scripture is there, you will miss.
You need to be totally vacant, you need to be totally empty; only then can you meet death, because death is emptiness. And only the alike can know the alike, the same can understand the same. If you are filled, even with a single word, you will miss, because then the mind is there – and death has no mind, death has no thought; death is simply falling into emptiness.

 

So Ikkyu came to push this disciple at the last moment. He had been missing his whole life – he should not miss this last moment. And I also tell you: if you miss your whole life, then there is only one possibility and only one hope – at the moment of death. But no need to wait for it, it can happen right now. If it is not happening right now, then go on trying. But get ready for death. If you are ready, I will be there to push you. If you are ready, then it is very easy: just a little jerk, and the mind blows.


JUST BEFORE NINAKAWA PASSED AWAY THE ZEN MASTER IKKYU VISITED HIM.

 

Masters have been visiting always. It may not have actually happened, remember that; it may not have actually happened. It may be, it is possible, that nobody else than Ninakawa saw the master visiting him. It may have actually happened, but that is irrelevant. One thing is certain: that while Ninakawa was dying, just at the last moment the master was there. This dialogue happened with Ninakawa and Ikkyu. There may have been many others there, they may not have heard it at all; they may not have seen Ikkyu coming at all. It was or it was not a physical visit. But it happened, and it did... whatsoever was needed was done.


”SHALL I LEAD YOU ON?” IKKYU ASKED. NINAKAWA REPLIED...

 

A man of scripture, particularly Buddhist, because in Buddhism the guru is not accepted. Buddha is the greatest guru, but in Buddhism the guru is not accepted. They have a reason for it. Because the human mind is so complex, it creates trouble everywhere: the guru is to liberate you, but you can make a bondage out of him. Hindus have been teaching that without the guru, without the master, there is no liberation. And this is true, absolutely true, but by the time of Buddha it became a bondage.
Without the guru, without the master, there is no liberation. So people started becoming slaves of masters, because without them there is no liberation. Look at the human mind and the stupidity: a master is to liberate, but you can become a slave to the master because only he can liberate; then you can become just docile. Much slavery was created; nobody else on this earth has created such a deep slavery as Hindus. You cannot come across a single revolution in the whole history of Hinduism against the priest. No – the whole thing was so settled and so fixed and systematized, and everybody was aware that if you rebel against the priest there is no liberation – he is the guru, he is the master.
The untouchables – the sudras – have existed in the most miserable condition. They are the greatest of slaves and they have the longest history of slavery, but never have they revolted against it, because it was not possible. The guru, the master, the brahmin – he is the door to the divine. You have missed this life, and if you rebel you miss the other also – so remain a slave.

 

Then came Buddha, and he said, ”No need for the guru” – not because there is no need for the guru: he said no need for the guru, and he meant no need to become a slave – but that was the only way to say it. So Buddha says, ”Be a light unto yourself. Nobody is needed to lead you. Nobody is needed to guide you. You are enough unto yourself.”
This is the greatest possibility of being free, of freedom. But you can misuse this also, this is the problem. Then you think that if there is no need for a master, then why listen to the Buddha? If there is no need for the master, then why go to the Buddha? If I am totally independent, then I am Buddha myself.

 

That happened through Buddhism: slavery didn’t happen, but deep egoism happened.

 

But both are the two extremes: either you become an egoist – because no guru, no master, nobody to follow – or you become a slave, because without the guru there is no liberation.

 

Can’t you be in the middle?
Can’t you just stand in the middle without moving to the extreme?

 

If you can be in the middle, the mind disappears.

 

Ikkyu came, and he said, ”Shall I lead you?”
Ikkyu asked the basic Buddhist question, and Ikkyu knows that if he is still burdened with the scripture he will say, ”No, who can lead anybody? Nobody is a guru. Every soul is absolutely independent. I am a light unto myself.” If he is burdened with the scripture, this will be the response. If he is not burdened with the scripture, then the response can be any – infinite possibilities open.


NINAKAWA REPLIED, ”I CAME HERE ALONE...” This is what Buddha says ”...
I GO ALONE. WHAT HELP COULD YOU BE TO ME?”

 

Everybody is born alone, goes alone; and in the middle of these two, coming and going, you may delude yourself that you are with somebody, but you still remain alone.

 

Because if you are in the beginning alone and in the end alone, how in the middle can you be with somebody?

 

The wife, the husband, the friend, the society, are all illusions. You remain alone, aloneness is your nature.

 

You can be deluded, that’s all. You can have dreams, that’s all, but the other remains always the other and there is no meeting point. This is the basic Buddhist teaching to make man free.

 

That’s why Buddha even denied God, because if there is God how can you be alone? He is always there. Even when you are in your bathroom he is there – because he is omnipotent, omnipresent. You cannot escape him; wherever you go he will be there. He is the cosmic eye, the cosmic spy, following you. Whatsoever you do, he will be looking! It is very difficult to escape God; if he is, then he is everywhere. You cannot hide – this is beautiful if you can understand – and religious people used it to help.

 

Hindus, Mohammedans, Christians, they have all used the omnipresence of God. It is a great help, because if you can really feel God following you like a shadow everywhere, you will become very, very much alert and aware – because he is there. You are not alone, you cannot relax into sin, you cannot relax into ignorance, sleepiness – he is there. The presence will make you alert.
This is the right use. But otherwise the presence can become a bondage, a heavy burden, anxiety.

 

I have heard about a Christian nun who would not even take her bath in the nude. No, she would continue to have her clothes on even under the shower, so somebody asked, ”What are you doing?”
She said, ”How I can be naked? – because God is everywhere.”

 

But if God is everywhere – in the bathroom – he is inside the clothes also, you cannot escape him. He is inside you. He is everywhere.
This can become a deep anxiety, just like when you are taking your bath, and you become aware that somebody is peeping through the keyhole – you become anxious. And God is the cosmic Peeping Tom – he is sitting at every keyhole; you cannot do anything without his knowing it; you make love and he is there. Whatsoever you do he knows, and everything is recorded.
This can become a deep anxiety, a neurosis; this can create guilt, and then you have missed.

 

And remember: every key that can open a door can destroy the lock also if you use it wrongly. There is a way, a right way to use a key; only then it opens the lock. If you use it wrongly, the lock may be destroyed.

 

And as the mind is, it always uses keys in a wrong way.

 

Then somebody is needed who must say to you, ”Throw this key, because this key is now useless. This is only destroying the lock, not helping you in any way.”

 

Buddha said no guru is needed – because in his time the guru meant the brahmin. Krishnamurti is saying the same thing: no guru is needed. But there is another possibility – it may give you freedom. If it gives you freedom it is perfectly okay. But it may give you egoism and that’s the problem, there is the rub. If it gives you egoism, you may not become a slave to somebody else, but you have become a slave to your own ego.

 

And remember,
nobody can be such a dangerous master as your ego can be.
Nobody can make you so blind as your ego can make you.
Nobody can lead you to such hells as your ego can lead you.

 

Ikkyu just wanted to know whether this man is still clinging to the scriptures, or he has come to understand Buddha.

 

Understanding is different, clinging is different.

 

Clinging is to the dead letter. If he has understood, then Buddha is the greatest master. If he has not understood, then he will not allow; even at the point of death, he will cling to the scriptures.

 

Ikkyu was standing there, and was asking, ”Can I lead you? Shall I lead you on? ... Because the path is unknown. You have never been through it, I have been along it. I know how to die, I know how to celebrate death. I know how to lose yourself into death, and then you never lose; then the real self is born for the first time. I know the secret of dying and rebirth. Can I lead you on?”


NINAKAWA REPLIED – he refused – he said: ”I CAME HERE ALONE, AND I GO ALONE. WHAT HELP COULD YOU BE TO ME?”

 

And he was in need of help.
If he was not in need of help he would have simply laughed, smiled; he would have said, ”Thank you.” There was no need to use these words from the scriptures.


Why do you use scriptures?


They are rationalizations.
Whenever you are uncertain you use the scripture, because the scripture is very certain. Whenever you are in doubt, you use Buddha, Krishna, Christ, because they can hide your hesitation, they can hide your reality, they can give you a false confidence.


Whenever you are using others’ words you are hiding your ignorance.


This man was not saying, ”I CAME HERE ALONE” – this was not his experience. He was not saying ”... AND I GO ALONE.” He was repeating words, and you cannot deceive a master with words.


IKKYU ANSWERED, ”IF YOU THINK YOU REALLY COME AND GO...”

 

These are the most beautiful words ever uttered – the essence of all the Upanishads, the essence of all Buddhas and Mahaviras, just in one sentence.


”IF YOU THINK YOU REALLY COME AND GO, THAT IS YOUR DELUSION. LET ME SHOW YOU THE PATH ON WHICH THERE IS NO COMING AND NO GOING.”

 

This is really very difficult and subtle.
Says Ikkyu, ”If you think you really come and go, then the ego is there.
Who comes?
Who goes?
If you think you come and go, you don’t know; then you are simply repeating Buddha’s words” – there is the catch.

 

If you have come to know that, ”I come alone, and I go alone,” then there is no coming and no going,

 

because the soul is never born, never dies.

 

Life is an eternal continuum. It continues.

It never comes, never goes.

This body may have been born, this body may die – but that life, the energy, the self, the soul, or whatsoever you call the consciousness that exists in this body, has never been born and will not die.

 

That consciousness is continuous.

 

There has never been any break in it.


If you really know, then you know that there is no coming, no going.
Who comes?
Who goes?
If you don’t understand, if you have not realized this, then you will say, ”I come alone.”

 

But then this ’I’ is the ego; then this ’I’ is not the self.

 

When you say, ”I go alone,” the emphasis is on ’I’ – and the ’I’ is the bondage.

 

If there is no ’I’, suddenly you will see that you have never been born, and are never going to die; then there is no beginning and no end.

 


Says Jesus... somebody asked Jesus, ”Are you the messiah we have been waiting for? Who are you? Tell us about you.”
Jesus said, ”Before Abraham was, I am.”
Abraham must have been thousands of years before, and Jesus says, ”Before Abraham was, I am.” The sentence is really very absurd, logically absurd, grammatically wrong: ”Before Abraham was, I am.” Abraham is in the past; Jesus says, ”Before he was...” and Abraham is the first prophet. There is every possibility that Abraham is just a changed name of Ram, because in old Hebrew it is not Abraham, it is Abram. And Ab simply means respect, just like Shree Ram; it is just to pay respect. There is every possibility that Abraham is no one else than Ram.
Says Jesus, ”Before Abraham was, I am.” For Abraham he uses the past tense: he has been and is no more; the manifestation was there and now is no more. But ”I am,” because ”I am always: I was, I am here, I will be.”
The innermost consciousness knows no birth, no death; knows no past, no present, no future; knows no time. It is eternal, and eternity is not part of time.

 


Said Ikkyu, ”IF YOU THINK YOU REALLY COME AND GO – if you think that there is a coming and going – YOU ARE IN DELUSION. LET ME SHOW YOU THE PATH ON WHICH THERE IS NO COMING AND GOING.”

 

What have buddhas been doing?
They have simply been show-ing you that you are perfect – as you are. No change is needed. You have not to go anywhere, you have not to move a single inch. As you are, you are in your perfect glory, here and now. There is no coming and no going. Just become aware of the phenomenon that you are. Just become aware who you are! Just be alert! And then nothing is to be achieved, no effort is to be made, because from the very beginning, before Abraham was, you are. You have seen the creation of the world, you will see the end of the world, but there is no beginning to you and no end to you.


You are the witness,
and the witness cannot have any beginning and cannot have any end.


If you had been alert you would have seen your own birth. If you can die consciously, you will see that death is happening in the body and you are just an onlooker. So the body dies, and you are just the witness. And if you can be a witness in the death, then in the next life, in the birth, you will be a witness.

 

You will see that the mind is choosing a womb: hovering all around the earth, finding a woman, a couple, making love – you will see it.
Just as if you are hungry: you go to the market, and you can be a witness that your eyes, your mind is looking at the hotels, restaurants, to find the right place where you can have your food. You are hungry, but if you get too identified with the hunger then you cannot be a witness. Otherwise, hunger is there, but you are not the hunger. How can you be the hunger? – otherwise who will know that you are hungry?

 

Hunger, to be known, needs someone else beyond the hunger who can look and see, who can become alert. If you can become alert in hunger, then you can see how your mind is searching for a right place to have your food.

 

The same happens after death: your mind is in search of a right womb. You choose, you see what is happening.

 

If you are in search of a particular womb, if you are a very good soul or a very bad soul, then you may take many years to find a right womb – very difficult.

 

If you are just an ordinary person, just normal, nothing special good or bad, neither a Hitler nor a Gandhi, then you can be born immediately; there is no need, because everywhere ordinary, normal, standard wombs are available. Then, this moment you die and the next moment you are born – not even a single moment is lost.

 


But for a Hitler it may take many, many years – and it is good, we are fortunate, because he is a very perverted soul, very perverted. You cannot imagine his perversion, he perverted everything. And whenever a man becomes perverted, the first thing to be perverted is his love, because sex remains the root of your being. The first thing to be perverted is sex. When sex goes wrong, everything goes wrong; when sex is natural, everything remains natural.

 

Study Hitler’s sexual life and you will be simply amazed; you cannot believe what he was doing. He would find beautiful women, but would never make love to them. What would he do? You cannot imagine! He would force those beautiful women... he would sit down and he would force them that they should urinate on his head. What type of man...? What is he doing? And he enjoyed it very much: not only urination, they should also defecate on him. And the women felt very guilty – what is he doing? – but he was such a powerful man: if you don’t follow him... he killed many. All his beloveds were either killed by him or they committed suicide – because this is such a perversion! But he felt very good. What was the matter?

 

He was so guilty he wanted to punish himself; even through love he was punishing. He was so guilty, and the guilt was so strong... if you are so guilty you cannot love, because love can only come of the heart of one who is not guilty, who doesn’t feel any guilt, who is just a child, innocent. Then love flows, then it becomes a celebration.

 

But if you are guilty, then through love you start punishing yourself, or you start punishing the other.

 

You cannot enjoy love, because you feel you are so guilty, so bad – how you can enjoy love? You create a hell out of love.

 

This seems impossible, because outside his room Hitler is almost a god, people worship him. And inside his room he feels himself so inferior, guilty, condemned, that he wants to punish himself, even through love.


This type of man will not easily find a womb – almost impossible. For centuries he will have to wait, only then he can find such a womb, such a man and such a woman making love, who are so guilt-ridden, so condemned in themselves, only then can he choose the womb.

 

But this happens unconsciously,
so you need not worry much about it.


You die unconsciously, unconsciously you are born – it happens automatically. The mind moves, just gropes in the dark and enters a womb.


But if you die consciously, then the next birth is going to be conscious.

 

If you die consciously and are born consciously you will know that there is no birth and no death, only a body has been chosen.

 

You remain the same,
only the house changes. If you change your old clothes, do you say this is a new birth, I am born? No, because you have only changed the clothes;
you remain the same.

 


This is how one who becomes alert comes to know that all changes are just changes of dresses and houses and places, situations, circumstances, but you remain the same;


the center never changes, it is eternal.

 

 

Says Ikkyu, ”IF YOU THINK YOU REALLY COME AND GO THAT IS YOUR DELUSION. LET ME SHOW YOU THE PATH ON WHICH THERE IS NO COMING AND GOING.”

 

What is that path?
Is there really a path?
Because we have to use language, that’s why he says ’path’. Otherwise there is no path, because a path always leads somewhere. No path can lead to you because you are already there. If you want to come to me there is a path, has to be. If you come to somebody you have to follow a path, go through a passage, a bridge, something or other – because you are moving outward. But if you want to go inward there is no path. You are already there. A sudden jerk is needed and you simply feel that you are there.

 

It is just like when you dream in the night: you fall into sleep in Poona, and in the dream you are back at your London home, or in New York, or in Calcutta, or in Tokyo, and in the dream you completely forget that you are in Poona. Then what is needed? Just a jerk. Somebody comes and wakes you up. Will you wake up in London, Tokyo, New York, or in Poona? It would have been very difficult, it will create a very absurd world, if you are dreaming of New York and suddenly somebody wakes you and you wake up in New York! Then this world would have been a nightmare. But you wake up in Poona; the dream disappears.

 

Buddhas have been teaching this: that there is no need to go anywhere, because you are already there where you want to go; but you are in a dream. Only in a dream have you moved from the center – you cannot move from there. You are there. For millions of lives you may have been dreaming, but you have not moved from the center where you are. Nobody can move. Just a jerk, just somebody to shock you... you become alert and suddenly the dream disappears. The dreamland and New York and London, they disappear, and you are here and now.

 

This jerk, this shock can be given very easily at the moment of death – because the whole body- mind is going through a great change.

 

Everything is in chaos.

 

In a chaos you can be made alert more easily because everything is uncomfortable. When everything is comfortable it is difficult to bring a man out of the dream – nobody really wants to come out of a comfortable dream. Only when the dream becomes a nightmare, then you scream.

 

I have heard: One night Mulla Nasruddin screamed so loudly that even the neighbors came to ask what has happened. Mulla Nasruddin was sitting on his bed weeping, tears flowing down, and his wife was consoling him, saying, ”It was just a dream Nasruddin. Why are you creating so much nuisance? – the neighbors have come, there is a crowd.”
Nasruddin said, ”But the dream was such... let me first tell you the dream. In the dream I went to a wife auction – such beautiful women. One woman fetched ten thousand rupees, another five thousand, and many for thousands.
”I had no money. I tried and tried but there was no money. I looked in all my pockets” – and he had one pocket, he would never look in it – he said, ”I even looked in that pocket.”
There was a special pocket he would never look in. And if something was lost people would ask, ”Have you looked in all the pockets? Why not in this one?”
He would say, ”Because that still gives me hope. If I look in that pocket also, hope is gone, because I think there maybe still is a possibility... but I never look in it because I know well it is not there.”
He said, ”I looked even in that special pocket – and no money. I was weeping and crying.”
But his wife was not interested in this. She asked, ”Nasruddin, and were there wives there like me also?” She asked foolishly, as any woman will ask, because no woman is interested in other beautiful women; rather, she felt jealous. She asked, ”What about wives like me? How much were they fetching?”
Nasruddin said, ”That’s why I screamed. Wives like you those people had put in bundles. One dozen, two dozen – they were selling wives like you at one rupee a bunch. That’s why I screamed: no money to purchase, and that was what was happening to my wife!”
But he was crying and weeping even out of the dream.

 

Dreams are effective, they go deep, because in an unconscious mind the distinction is really very vague; what is dream and what is real is very vague. They are mixed, the boundaries are not so clear-cut, the boundaries are blurred.

 

Have you seen a child waking, and weeping because he has lost a toy he saw in the dream? ”I am looking around for the toy – where has the toy disappeared to?”
But this child never dies in you. It dies only when you make much effort to become alert; only then the dream and the reality become clear-cut distinctions.

 

And once the vagueness is lost, once the boundaries are not blurred, once you become aware what is dream, what is reality, the dream stops – because then the dream cannot continue. If you have become aware the dream cannot continue. Even in a dream, if you become aware that this is a dream, the dream will stop immediately.

 

So you never become aware in a dream that this is a dream, you always feel this is real.

 

For anything to continue, your feeling is needed that this is real. You give reality through the feeling. If you withdraw the feeling, the dream disappears and only the reality remains.
It is a dream that you are in this world, and it is the reality that you exist in the divine.

 

It is a dream that you are in the market;
it is the reality that you have never moved from the very center of existence, from God.

 

It is a dream you have moved in the market – and a dream can continue, there is no time limit. If you think you are the body, this is a dream – you have never been a body. If you think you are born and you die, this is a dream – you have never been born and you can never die; that is impossible.

 


Said Ikkyu, ”This is your delusion if you say, ’I come and I go.’ There is no one to come and no one to go. And there is no place to come to and no place to go to. Let me show you the pathless path. Because then there can be no path – because if there is no one to come and no one to go, no place to come to and no place to go to, then how can the path exist? So let me show you the pathless path on which there is no coming and no going.”


WITH HIS WORDS, IKKYU HAD REVEALED THE PATH SO CLEARLY THAT NINAKAWA SMILED AND PASSED AWAY.

 

It happened!
You have heard the words – but you are not Ninakawa, you are not that ready, you are not on your deathbed – that’s the problem.

 

You are still hoping for something in life,
your dream still has much meaning for you,
you have investments in your dream.

 

You may have a desire to come out of the dream, but this desire is only half-hearted. The other part goes on saying, ”Dream it a little more, it is so beautiful.”

 

One night Mulla Nasruddin called his wife and said, ”Bring my specs, because I have been seeing a beautiful dream and much more is promised to me. Bring my specs, because the place is not so well lighted, and I cannot see clearly.”

 

You may be having nightmares; in those moments you feel, ”How to drop out of the dream?” – but you have beautiful dreams also; not only hellish dreams, you have heavenly dreams.
And that’s the problem: unless you become aware that even a heavenly dream is a dream and useless, you are not on the deathbed.
Your desire continues, you go on watering the world of dreams, feeding it, helping it to grow.


Ninakawa was on his deathbed, he was dying, there was no future left. He was in a chaos. The whole system, the whole adjustment of body, mind and soul was getting looser and looser. Things were falling apart, he was not together. The nightmare was intense, because it is most intense in death. He was simply miserable in that moment: death and no future.

 

If there is no future you cannot dream, because dreams need space, time to move.

 

That’s why death looks so dangerous, because it allows no time to think. You cannot hope, because there is no tomorrow.

 

Death does not kill you,
it simply kills the tomorrow,

 

and tomorrow has been your very existence.

 

You have never lived today, you have been always postponing for tomorrow. And death kills the tomorrow, it simply burns your calendar – suddenly the clock stops, time doesn’t move.

 

Without time what can you do?
How can the mind think, desire, dream?

 


Death closes the door – that is the fear.

 


Why does death make you so afraid and trembling and scared?
Because there seems to be no beyond, no possibility to escape from it.

 

You cannot do anything because you cannot think, and you know only one thing: thinking, nothing else.

 

Your whole life has been a thinking.

 

Now, death allows no thinking.

 

Only a man who has been meditating and has realized no-thinking before death will not be afraid – because he knows that thinking is not life.

 

And he knows a different plenum of existence.
He knows the depth, not the length of existence.
He is not moving from this moment to that, he is not moving from today to tomorrow.
He is moving in this moment, deeper and deeper and deeper; in today, deeper and deeper and deeper.
He is moving here and now, in the depth.

 

You touch this moment and you move to another moment; you have a horizontal movement: from A to B, from B to C, from C to D.

 

And a man who meditates goes on moving from A1 to A2 to A3 – in the depth – not to B. He has no tomorrow.

 

This here and now is the only existence, then how can there be death for him?

 

This moment you are alive; only in the next moment can you die. This moment no one has ever died. This moment you are alive, and this man who meditates moves into this moment – how can he die?


Death will happen on the periphery; he will come to know about it. It will be just as you come to know about a neighbor who is dead: he will come to know about it, that the body is dead – this will be news. He may even feel sorry for the body, but he is not dying.


Ninakawa was a meditator just on the verge of enlightenment, still clinging.

 

You can take a jump into the abyss, but still you can cling to a creeper – and you can go on clinging, afraid. You are almost in the abyss, sooner or later you will fall, but still for a moment more the mind says, ”Cling!”


He was clinging to the scriptures, to the buddhas, to the words, the doctrines.

 

He was still repeating knowledge.

 

Just a creeper – sooner or later he will have to leave this, because when life leaves you, how can words be retained? They will leave you.

 

With this, Ikkyu’s revelation, he understood, he left the clinging.

He smiled and passed away.

 

You never smile.
Either you weep or you laugh, but you never smile. A smile is just in the middle, it is difficult for you. Either you weep or you laugh – they are the possibilities, the two extremes.

 

Try to find out what this phenomenon of a smile is.

 

Only a buddha smiles, because it is just in the middle.

 

A smile has both a sadness in it, the sadness of the tears, and the happiness of laughter. A smile has both. Smiling is never simple laughter: it has the expansion of laughter and the depth of sadness – it is both.


Look at Buddha, meditate on him, and you will see in his face both a sadness and a happiness; a blissful flowing of his being and still a deep sadness.

 

With these two chemicals, so to say, a smile is created. When you feel sad for everybody, when you feel sad for the whole existence because they are unnecessarily suffering.... You cannot imagine the sadness of a buddha, it is difficult for you.

 

You only think that a buddha is happy. He is happy as far as he himself is concerned, but for you? You cannot conceive his difficulty – because he sees you, and you are unnecessarily suffering, and nothing can be done, you cannot be helped. A disease that is not there – and incurable!

 

And he knows that just by the corner, just a turn of your being, and everything will be solved.

 

But you will not take that turn.

 

You will jump and you will do many things, but you will always miss that turn. You will grope in the dark, but somehow, miraculously, you always miss the door. You know how to miss the door, you are perfect in that: how to miss the door and always go on groping.


A buddha is in difficulty because he has realized something which is there with you already. The same blissful existence, the same beauty, the same ecstasy that he has, you have. And you go on crying, and you go on beating your chest, and you are in such a suffering – and nothing can be done. A sadness...


It is said about Buddha that when he reached the door – the final door beyond which there is no door, and you cannot come back; that is the ultimate – when he reached the door of nirvana, the door was opened for him and there was welcome. Because once in millions of years somebody reaches to the ultimate. But he turned his back towards the door and looked at the world – and they say he is still standing there, he has not entered.
The doorkeeper asked, ”What are you doing? You have been endeavoring for this for many, many lives. Now the door is open, come in.”
And Buddha said, ”Unless everybody who is suffering out there enters, I cannot enter. I will be the last to enter.”
This is the sadness.


The story is really beautiful. Nobody can stand at that ultimate door, that’s true; there is no door like that and no doorkeeper. You fall, and there is no way to stop yourself.

 

The story is beautiful; that shows in a symbolic way the consciousness of a buddha – the trouble, his anguish, his suffering. It is not his suffering now, it is the suffering of others that makes him sad.

 

It is as if you have awakened but everybody else is fast asleep, and they are dreaming and dreaming nightmares – screaming, jumping, crying, weeping, and you know that these are just nightmares, but these people are so drunk and so fast asleep, you cannot help.

 

If you try to wake them up they become angry. They say,


”Why are you disturbing our sleep?
Who are you?”


You cannot wake them, and you have to see their suffering, and suffer it.

 

Buddha is sad – for you.

 

Buddha laughs deeply, his whole being is filled with laughter – just like a tree has come to flower, everything has become a dance. And these both meet in him: the laughter that bubbles and goes on coming out – and still he cannot laugh because of you – and the sadness that you create. They both meet and the meeting creates a smile. A smile is both laughter and tears.


You cannot smile – you can laugh, you can weep. When you weep, how can you laugh? Because in weeping it is always for yourself; it is a single element. When you laugh, you laugh; how can you weep? – because laughing is for yourself.


In Buddha, the ego has disappeared, now he is no more, the meeting has happened with the all.

 

Two elements meet:
his consciousness which has become perfect,
and all around millions of consciousnesses which are perfect, suffering – unnecessarily suffering, suffering without any cause – these two meet, and a sad and yet happy smile comes to his face.


He cannot weep because what you are doing is so foolish. He cannot laugh because that will be too hard on you. At the most he can smile. This happened, so a smile has become a symbol of one who has become enlightened.


WITH HIS WORDS, IKKYU HAD REVEALED THE PATH SO CLEARLY THAT NINAKAWA SMILED AND PASSED AWAY.


Then it was not a death, but just a passing – passing to another world, a passing to another birth; then nobody was dying. And if you can die with a smile you know the art of dying, and the whole of religion consists in the art of dying, nothing else than that.

 

Now I will repeat the first story we started, so that you don’t forget it: forgetfulness is a trick.
These ten days we have been talking about No Water, No Moon. It will remain just a talk – words and words and words – if you are not ready to die.

 

Be on your deathbed!

Be a Ninakawa!

Then these words are so clear, as Ikkyu’s never were.

I tell you:

these words are as clear as Ikkyu’s never were.

You can also smile and pass away –
remember:

 

THE NUN CHIYONO STUDIED FOR YEARS, BUT WAS UNABLE TO FIND ENLIGHTENMENT.

ONE NIGHT, SHE WAS CARRYING AN OLD PAIL FILLED WITH WATER. AS SHE WAS WALKING ALONG, SHE WAS WATCHING THE FULL MOON REFLECTED IN THE PAIL OF WATER.

SUDDENLY, THE BAMBOO STRIPS THAT HELD THE PAIL TOGETHER, BROKE, AND THE PAIL FELL APART. THE WATER RUSHED OUT; THE MOON’S REFLECTION DISAPPEARED – AND CHIYONO BECAME ENLIGHTENED.
AFTERWARDS, SHE WROTE THIS POEM:

THIS WAY AND THAT WAY,
I TRIED TO KEEP THE PAIL TOGETHER,

HOPING THE WEAK BAMBOO
WOULD NEVER BREAK.
SUDDENLY THE BOTTOM FELL OUT.
NO MORE WATER;
NO MORE REFLECTION OF THE FULL MOON IN THE WATER –
EMPTINESS IN MY HAND.

 

Go with emptiness in your hand, because that’s all... that’s all I can offer to you, and nothing is greater than that.


This is my gift:
go with emptiness in your hand.
If you can carry emptiness in your hand, then everything becomes possible.

 

Don’t carry possessions,
don’t carry knowledge,
don’t carry anything that fills the pot and becomes the water, because then you will be seeing only the reflection.

 

In wealth,
in possessions,
in houses,
in cars,
in prestige,
you will see only the reflection of the full moon.

 

And the full moon is there waiting for you.


Let the bottom drop!
Don’t try this way and that way to protect the old pail. It is not worth it.
Don’t protect yourself, it is not worth it.

Let the pail break down,
let the water flow,
let the moon in the water disappear,
because only then will you be able to raise your eyes towards the real moon.

 

It is always there in the sky – but emptiness in the hand is needed.

 

Remain more and more empty,
think yourself more and more empty,
behave more and more as if you are empty.

 

By and by, by and by, you will have the taste of it.

 

And once the taste comes, it is so beautiful.

 

Once you know the taste of emptiness, you have known the very meaning of life.

 

Carry emptiness,

 

drop the pail of water which is your ego,
your mind and your thoughts,

 

and remember:
no water, no moon – emptiness in the hand.

 

 


No Water, No Moon

 

Talks on Zen Stories
Talks given from 11/08/74 am to 20/08/74 am English Discourse series

 

CHAPTER 10
Ninakawa Smiles

 

20 August 1974 am in Buddha Hall

 

 

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花仙人