花仙人の日記

地球を自然のままに…

マハカーシャッパの寓話をひとつ…

マハカーシャッパの寓話をひとつ…
 
 
 
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前回のコミュニオン communion 交感 の続きです。
 
 
 
頭のマインド(思考)mind の
言葉 word による
コミュニケーション communication 伝達
 
ではなく
 
全身の五感や第六感まで含めた
「感覚」による
コミュニオン communion 交感。
 
 
 
コミュニオン communion 交感 は
光明 enlightenment が起こる前にも後にも
大切な「感覚」です。
 
 
 
前回のoshoのお話しにより詳しく語られていますように
波動を全身の「感覚」でとらえ感じる
というようなことです。
 
 
 
瞑想 meditation は
 
内側 inside の
苦しみの原因(種)である
マインド(思考)mind
エゴ(欲・自我)ego
『気づき』『手放す』ことを
サポートする癒しのツールですが
 
愛の本来の状態を再び「感覚」で『思い出す』ことを
サポートするツールでもあり
 
また
 
コミュニオン communion 交感 の「感覚」を
取り戻すコツを得るためのツールでもあります。
 
 
 
仏教は経典(言葉の知識)を使いますが
禅は経典(言葉の知識)を使いません。
 
 
 
禅はこのコミュニオン communion 交感 の
「感覚」を大切にします。
 
〈 真理 truth 〉は
 
頭のマインド(思考)mind の
知識 knowledge = 言葉 word では
『理解』は起こらず
 
コミュニオン communion 交感 の
「感覚」で体験から
『理解』が起こるものだからです。
 
 
 
禅の伝統的な伝授は
コミュニオン communion 交感 によるものです。
 
禅の創始者である
ゴータマ・ブッダ Gautam Buddha  の直接の弟子 disciple である
マハカーシャッパ Mahakashyapa から
またその弟子 disciple のボディダルマ Bodhidharma や
またその弟子 disciple へと…
 
禅の伝統的な伝授は
コミュニオン communion 交感 によるものです。
 
 
 
導師 master osho は
言葉 word のコミュニケーション communication 伝達 による
講話を30年ほど続けましたが
 
”silent language 沈黙の言語” である
コミュニオン communion 交感 による伝授もできる
光明 enlightenment を得た導師 master です。
 
 
 
子供のころから言葉によるコミュニケーション communication 伝達 が不得意なわたしは
導師 master osho から
”silent language 沈黙の言語” である
コミュニオン communion 交感 により
直接の伝授を受けました。
 
そして
導師 master osho の肉体 body が生きていても死んでいても関係なく
 
宇宙全体に在るoshoの意識 consciousness と1つで在ることによる
コミュニオン communion 交感 により
今でもいつでも繋がり学びは続いています。
 
導師 master osho が
”silent language 沈黙の言語” である
コミュニオン communion 交感 ができる導師 master で大変助かりました。
 
 
 
そんなわけで…
言葉によるコミュニケーション communication 伝達 ツールである
ブログをはじめることに最初は大変戸惑いました…
はじめるまでに2年間も戸惑いましたが
書くことが不得意で上手く書けなくても
少しでも光明 enlightenment の体験を
分かち合うことの方が
みなさんが苦しみから解放されて
(自分自身から)自由になれるきっかけになるかもしれないから
大切なことなんだ、とわかり
文章下手で読みにくく申し訳ないのですが
えいやー!と体験したことのまんまを書いていますσ(^_^;)
 
 
 
”「現世」光明 enlightenment をしよう!”
と思って生まれてきた人たちへのメッセージブログです…
 
 
 
光明 enlightenment は夢物語ではなく
本当に起こるものですから
『忘れ』ないで…
『思い出し』て…
 
 
 
今日は禅の創始者である
マハカーシャッパ Mahakashyapa の
ただ一つ残るお話しを
導師 master osho の2つの講話からご紹介します。
 
2つは同じお話しですが
どちらにも大切なメッセージが含まれていますから
どちらもご紹介します。
 
 
 
マハカーシャッパ Mahakashyapa は
彼の名前のサンスクリット語のスペルです。
 
彼のパーリ語の名前のスペルは Mahakassapa です。
 
Mahakashyapa is 
the Sanskrit spelling of his name. 
 
His name is spelled "Mahakassapa" in Pali. 
 
 
 
ではお楽しみください* ( ´͈ ◡ `͈ ) *
 
 
 
 
*     *     *
 
 
 
 
この人はとても少数の人々にだけ知られている、
その理由は単純なもので
彼はけっして書いたり話したりしなかったからだ。
マハカーシャッパ Mahakashyapa。
この逸話は彼について知られている全てだ。
 
 
 
ある日、
ゴータマ・ブッダは蓮の花を手にして
彼の朝の講話に来た。
 
彼は静かに花を見ながら座った、
一言も話さなかった。
 
その集会の一万人のサニヤシンは当惑した。
 
これは聞いたことがなかった。
 
まず最初に、
ゴータマ・ブッダはけっしてこれまで
何かを持って来ることはなかった、
彼は蓮の花を持って来た、
 
第二に、
ゴータマ・ブッダは直ちに話しはじめていた、
しかし今日は数分そして数時間が過ぎても、
彼はただ花を見続けている。
 
たくさんの人々は彼がおかしくなったと思ったにちがいない。
 
 
 
ただ1人の人だけはそうではなかった。
彼は笑った。
その人がマハカーシャッパ Mahakashyapa だった。
 
 
 
ゴータマ・ブッダは目を上げた、
笑いながらマハカーシャッパを彼のもとに呼び、
蓮の花を彼に与えた
そして
集会に説教は終わったと伝えた、
 
「私はあなた方に資格を与えた、
 
そして私はマハカーシャッパへ彼にふさわしいものを与えた、
 
正しくそうした。
 
私は「言葉 word」で何年間もあなた方に話してきた、
そして
あなた方はけっして理解しなかった。
 
今日、私は『沈黙 silence』を話した、
そして
マハカーシャッパの笑いは
彼が理解したことを表している。」
 
 
 
この謎を秘めたやり方で後継者は見つかった。
 
マハカーシャッパはゴータマ・ブッダの後継者となった。
 
不思議なやり方で…
 
 
 
マハカーシャッパの弟子 disciple たちは
彼の本と呼ぶことができる中で
彼について少しのことを書いた。
 
しかし
本当に彼は書かなかった、
彼の弟子 disciple たちもその本に署名をしなかった。
 
それらは作者不詳だ。
 
しかしまったくもって
その書面は途方もなく美しい。
 
少しのかけら、
まるで満月のかけらのようだ、
 
もしあなたがそれらを繋ぎ合わせると
それは再び満月になるだろう。
 
それらを繋ぎ合わせる秘密は
瞑想 meditation だ。
 
 
 
マハカーシャッパの跡を継いだ伝統は禅だ。
 
マハカーシャッパは禅 zen創始者だ、
ディアナ dhyana の。
 
不思議だ…ゴータマ・ブッダでさえない、
しかし
マハカーシャッパが最初だ。
 
…なぜなら
 
ゴータマ・ブッダは40年間話し続けた、
マハカーシャッパはけっして話さなかった。
 
マハカーシャッパが発したただ一つの音は
その笑いだけだった。
 
もしあなたがそれを話すことと呼ぶことができるならば、
それは他の要素だ。
 
その話し方は
…それは全ての存在 existance はジョークだと言っている。
 
それはブッダに言っている、
「なんてジョークだ!」
 
あなたが
全ての存在 existance はジョークだと
理解した瞬間、
あなたは理解した。
 
それより他の理解はない、
それより他の光明 enlightenment はない。
 
他の全ては偽り pseudo だ。
 
 
 
 
Fifth: This man is known only to very few people,
for the simple reason he never wrote and he never spoke.
Mahakashyapa.
All that is known of him is this anecdote.
 
 
One day, Buddha came to his morning discourse with a lotus flower in his hand. 
 
He sat silently looking at the flower, not saying a single word. 
 
The assembly of ten thousand sannyasins was bewildered. 
 
This was unheard of.
 
In the first place Buddha, who had never before come with anything, comes with a lotus flower; 
 
secondly, he used to speak immediately, but today minutes and hours have passed, and he is just looking at the flower. 
 
Many must have thought he must have gone mad. 
 
 
Only one man did not agree.
He laughed.
That man was Mahakashyapa.
 
 
Buddha raised his eyes, laughed, and called Mahakashyapa to him, gave him the flower, and told the assembly that the sermon was over, saying,
 
”I have given to you what you are entitled to, and I have given to Mahakashyapa what he deserves, and rightly so. 
 
I have talked to you for years in words, and you never understood. 
 
Today I have spoken in silence, and the laughter of Mahakashyapa has shown that he has understood.” 
 
 
In this mysterious way the successor was found. 
 
Mahakashyapa became Buddha’s successor. 
 
A strange way....
 
 
 
The disciples of Mahakashyapa have written a few things about him which can be called his book. 
 
But really he has not written them, nor have his disciples signed them. 
 
They are anonymous. 
 
But whatsoever was written is of immense beauty. 
 
A few fragments, just like pieces of the full moon: 
if you can put them together there will be the full moon again. 
 
The secret to put them together is meditation.
 
 
 
The tradition that followed Mahakashyapa is Zen. 
 
He is the first patriarch of Zen, of dhyana. 
 
Strange... not even Buddha, 
but Mahakashyapa is the first. 
 
... Because Buddha spoke for forty years, 
Mahakashyapa never spoke; 
 
the only noise that he ever made was that of laughter. 
 
If you can call it speaking, that’s another matter. 
 
In a way it is speaking – it is saying that the whole existence is a joke. 
 
It is saying to Buddha, ”What a joke!”
 
The moment you understand that the whole existence is a joke, you have understood. 
 
There is no other understanding, 
no other enlightenment.
 
Everything else is pseudo.
 
 
 
 
from osho talks
oshoの講話より
 
Books I Have Loved
 
Talks given from 1982 Miscellaneous
 
chapter : 6
1984 in Lao Tzu House, Rajneeshpuram, Oregon, USA
 
 
 
 
*     *     *
 
 
 
 
ある寓話がある…
 
 
ゴータマ・ブッダはある日
1輪の花を彼の手にしてやって来た。
 
 
彼は説法を与えることになっていた、
しかし彼は沈黙したままだった。
 
 
彼の話を聴きにきた人々は
ゴータマ・ブッダが何をしているのか
不思議に思いはじめた。
 
時間が過ぎてゆく。
 
このようなことはそれまでけっしてなかった
…ゴータマ・ブッダは何をしているのだろう?
 
彼らはゴータマ・ブッダが話をするのかしないのかと不思議に思った。
すると誰かが尋ねた、
 
「あなたは何をなさっているのですか?
あなたは私たちがあなたのお話を聞きに来ていることをお忘れになられたのでしょうか?」
 
 
ゴータマ・ブッダは言った、
 
「私はあることを伝えた。
 
私は言葉をとおして伝えることができない
あることを伝えた。
 
あなたはそれを聞きましたか?
 
それとも聞きませんでしたか?」
 
 
誰1人もそれを聞かなかった。
 
 
しかし
1人の弟子 disciple が
…ほとんど知られていない弟子 disciple、
ここで初めて知る、
マハカーシャッパ Mahakashyapa という比丘…
大声で笑った。
 
 
ゴータマ・ブッダは言った、
 
「マハカーシャッパ、私のもとへ来なさい。
 
私はこの花をあなたにあげるよ、
 
そして私は宣言する
言葉をとおして与えることができる全ては
あなた方全員に与えたよ。
 
本当に意味のある、
言葉をとおして与えることができないものを、
私はマハカーシャッパに与えよう。」
 
 
 
 
だから、禅の伝統では
何度も何度も尋ねられてきた、
 
「しかし、何がマハカーシャッパに
伝授されたのか?」
 
 
…言葉をとおさない伝授。(教外別伝)
 
 
ゴータマ・ブッダは何を言ったのか?
マハカーシャッパは何を聞いたのか?
 
 
そして誰かが知るときは必ず、
またその人は笑うのだ、
そしてその物語は謎のままだ。
 
 
誰かが理解するときは、
またその人は笑うのだ。
 
 
どこであれ学者たちは
…学者はたくさん知識があるが、
学者はなに1つ知らない…
彼らが何を話されたのかについて議論をすると、
何が聞かれたということについて決めようとする。
 
 
しかし、知っている者は笑うのだ。
 
 
偉大な禅師、盤珪 bankei は言った、
 
「ゴータマ・ブッダは何も言わなかった。
マハカーシャッパは何も聞かなかった。」
 
そして誰かが尋ねた、
 
「ゴータマ・ブッダは何も言わなかったのですか?」
 
「はい、」
 
盤珪は言った。
 
「はい、
何も言われなかった、
何も聞かれなかった。
 
それは言われた、
そして
それは聞かれた。
 
私は証人だ。」
 
すると誰かが言った、
 
「あなたはその場にいなかった。」
 
そして盤珪は言った、
 
「私がその場に居る必要はない。
 
『無』が伝えられたとき、
誰1人も証人である必要はなかった。
 
私はその場にいなかった、
そして
それでも私は証人だ。」
 
誰かが笑った、
そして盤珪は言った、
 
「彼もまた証人だった。」
 
 
生きた流れは伝えることはできない。
 
それはいつもそこにある、
しかし
あなたがそこへ行かなくてはならない。
 
 
それは近くに、すぐそこにある。
それはあなたの内にある、
あなたが生きた流れだ。
 
 
しかし
あなたは一度も内側に入ったことがない。
あなたの注意はいつも外側にある、
あなたは外界に在った。
 
 
あなたは固着してしまっている。
あなたの焦点は外界にとても固着している、
だから
内側に在るということが
どういうことなのか
あなたは想像することができない。
 
内側に在ろうと試すときでさえ、
あなたはただ目を閉じているだけで
外側に居続ける。
 
 
内側に在るというのは
内側でも外側でもないマインド(思考)mind の状態
という意味だ。
 
 
内側に在るというのは
あなたと全てのものとの間に境界がない
という意味だ。
 
 
外側に何もなくなったとき、
その時にのみ
あなたは内なる流れにやって来る。
 
 
ひとたび一瞥が起これば、
あなたは変容する。
 
 
あなたは不可解なものを知る、
あなたは知性が理解できなかったものを知る、
あなたは知性が伝えることのできないものを知る。
 
 
それでも人は伝えなければならない…
花を使ってでさえ、
笑いを使ってでさえ。
 
花も笑いも違いはない、
それらはしぐさ gesture だ。
 
 
もし私が私の口を使うのと
もし私が私の手に花を持つのと
違いがあるのだろうか?
 
 
ただ、しぐさ gesture が新しいと、
そうだとあなたは 混乱 disturb する。
 
 
そうでなければ、
それは口を動かすしぐさ gesture と同じだ。
 
 
私が音 sound を出す、それはしぐさ gesture だ。
私は沈黙 silent のままだ、それはしぐさ gesture だ。
 
 
しかし
しぐさ gesture が新しく、馴染みがないと、
あなたは何かが違うと考えてしまう。
 
 
違いは何もない。
 
 
生きた流れは
伝えることができない、
 
それでも
伝えなければならない…
 
何らかの形で指し示さなくてはならない、
何らかの形で表さなくてはならない。
 
 
 
 
There is a parable…
 
Buddha comes one day with a flower in his hand. 
 
He is to give a sermon, but he remains silent. 
 
Those who have come to listen to him begin to wonder what he is doing. 
 
Time is passing. 
 
It has never happened like this -- what is he doing? 
 
They wonder whether he is going to speak or not. Then someone asks, 
 
"What are you doing? 
Have you forgotten that we have come to listen to you?"
 
Buddha says,
 
"I have communicated something. 
I have communicated something which cannot be communicated through words. 
Have you heard it or not?"
 
No one has heard it. 
 
But one disciple -- a very unknown disciple, known here for the first time, a bhikkhu named Mahakashyapa -- laughs heartily. 
 
Buddha says, 
 
"Mahakashyapa, come to me. 
I give you this flower, and I declare that all that could be given through words I have given to you all. 
That which is really meaningful, which cannot be given through words, I give to Mahakashyapa."
 
 
 
So Zen tradition has been asking again and again, 
 
"But what was transmitted to Mahakashyap?"
 
 
-- a transmission without words. 
 
 
What has Buddha said? 
What has Mahakashyapa heard? 
 
 
And whenever there is someone who knows, he laughs again, and the story remains a mystery. 
 
When someone understands, he laughs again. 
 
Wherever there are persons who are scholars, who know much and who know nothing, they will discuss what has been told, they will decide about what has been heard. 
 
But someone who knows will laugh.
 
 
 
Bankei, a great Zen teacher, said, 
 
"Buddha said nothing. 
Mahakashyapa heard nothing." 
 
So someone asks, 
 
"Buddha said nothing?"
 
"Yes," 
Bankei said. 
"Yes, nothing was said; nothing was heard. 
It was said, and it was heard. 
I am a witness."
 
So someone said, 
 
"You were not there."
 
So Bankei said, 
 
"I need not have been there. 
When nothing was communicated, no one is needed to be a witness. I was not there, and yet I am a witness." 
 
Someone laughed, and Bankei said, 
 
"He was also a witness."
 
 
 
The living current cannot be communicated. 
It is always there, but you have to go to it. 
 
It is nearby, just by the corner. 
It is in you, you are the living current. 
 
But you have never been in. 
Your attention has always been out, 
you have been out-oriented. 
 
You have become fixed. 
Your focus has become deadly fixed, 
so you cannot conceive of what it means to be in. 
Even when you try to be in, you just close your eyes and go on being out.
 
To be in means to be in a state of mind where there is no out and where there is no in. 
 
To be in means there is no boundary between you and the all. 
 
 
 
When there is nothing out, 
only then you come to the inner current. 
 
And once you have a glimpse, 
you are transformed. 
 
You know something which is incomprehensible, 
you know something which intellect cannot comprehend, 
you know something which intellect cannot communicate.
 
But yet one has to communicate -- 
even with a flower, 
even with a laugh. 
 
It makes no difference, they are gestures. 
 
Does it make any difference 
if I use my lips 
or 
if I use my hands with a flower? 
 
Just the gesture is new, so it disturbs you. 
 
Otherwise, it is as much a gesture as any lip moving. 
 
I make a sound, it is a gesture. 
I remain silent, it is a gesture. 
 
But the gesture is new, unknown to you, 
so you think something is different. 
 
Nothing is different. 
 
The living current cannot be communicated, 
yet has to be communicated -- 
somehow has to be indicated, 
somehow has to be shown.
 
 
 
 
from osho talks
oshoの講話より
 
I Am the Gate
 
Talks given from 01/4/71 to 30/06/71 
English Discourse series
9 Chapters
 
Chapter 2
Chapter title: Neo-sannyas: The answer to human crisis 
 
16 April 1971 am in Bombay, India
 
 
 
 
*     *     *
 
 
 
 
なぜ地球に生まれてきましたか?
 
 
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Freedom From Oneself … 自分自身からの自由
 
 
みなさんの至福をいつも祈っています。
 
 
 
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sammasati サマサティ
right remembrance
正しく想起する。
 
 
『The last word of Buddha was, sammasati. 
Remember that you are a buddha – sammasati.』
 
 
瞑想と愛 meditation & love
 
 
 
花仙人
 
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真理の泉

真理の泉